信仰と固定 (再)
 
 
人間が信じられることは
人間が信じるようになることは
人間性で理解できて
人間性で共感できることです。
それらが心を動かすからです。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが
神とキリストを理解できるのは
人間の知性で理解できることであり
人間の感性で共感できることです。
 
したがって
物や肉体の奇跡そのものを信じることは出来ないはずです。
理解も共感も出来ないからです。
 
人間が理解できる信仰になるのは
生きている人間の心を動かす生きている言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは
ご利益信仰に過ぎません。
 
物や肉体の奇跡は
神にお任せするしかありません。
 
人知を超えている奇跡を
人知が理解することは出来ないのです。
それは人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする
このことは
限りある人間の能力を思えば当然であります。
 
物や肉体の奇跡は
最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは
奇跡で救われた人が
なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか
キリストが、なぜ、その人を憐れんだか
という
心の奇跡または魂の奇跡
それこそ軌跡、すなわち
人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては
物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。
 
物や肉体の奇跡で救われると信じるのは
まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように
石がパンになる=物への奇跡
飛び降りても死なないかどうか試す=奇跡の実現で神を試みる
この世の栄華によって悪魔を崇拝
=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて
人を騙しているのがこの世界です。
もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
知性と感性とは特別な才能のことではありません。
神が人に与えた賜物として
人間ならば誰でも持っているもので
その中に不完全ながら
思慮が含まれ
理路と分別が含まれ
良心と共感が含まれ
温もりと潤いが含まれ
かつ、生まれています。
 
その賜物によって
聖書を理解し、信仰に至ります。
 
人間の信仰理解は
完全な理解ではなく
心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。
聖書から経験から
神とキリストに気づかせ
人を動かす神聖は聖霊と呼ばれますが
 
動かし気づかせるのであって、固定するのではありません。
 
信仰者は
訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも
去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。
 
そこに不変の境地はありません。
 
成長を促す道があります。
 
 
※ 
 
神ならぬものを信じてしまうと
神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。
 
心について考えない者が受け取るのは
手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり
あるいは知っていると自慢するためであり
 
それゆえに理解も共感もなく自己中心に
やたら讃美しまくって
奇跡の必然を自己暗示して
自分か他者の心を固定してゆくのです。
 
このような信じ方が
思い込み信じ込む信仰?であり
自分で神を決めつけてしまう信仰です。
 
そうなると、まず自分の人間性を破壊し
次には関わる人に作用して
他者の人間性を破壊してゆきます。
そうして人間離れの心性を固定してゆくのです。
 
 
(2019年05月14日)
(2020年05月25日、修正再録)
 
拘泥(こうでい)=こだわること
 
 
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