まとめ芝居(1)
 
 幸福の科学の基本教義について
 2020年05月31日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24983246.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、HSを脱会したと言っていました。そして、アドラー教の宣伝をしていました。その楽山が、この記事では、HSを批判しているのか、批判というより解説しているようにさえ思えます。常識を欠いた、いい加減さです。
 
しかも、今回、とても長い文章です。そこで、自らを省みているような書き方をするのが、楽山の、狡猾だけを身につけた策略でしょう。これを真に受けて、楽山を肯定してしまうと、軽くない疲労感を与えられて、読む側の精神が破壊され感受性が鈍麻してゆくのです。
 
その先に待っているのは、熱心な信仰に見せかけて、実際は、冷たく凍り付いて無反応になった鈍い人格の不感不応の訂正不能なのです。信条を固定してしまった結果であり、まさに、楽山のようになってゆく末路です。
 
前にもあったけど、時々、楽山は、一度の文章の量で、ごまかしているようです。でなければ、情緒不安定ということになります。
 
*まえおき
 先日、ツイッター上で、幸福の科学(HS)の教えをどう評価するか議論になったので、ふと思いついて、ひさしぶりにUMA氏の「幸福の科学根本教義批判」を読み直してみた。今読んでも、なるほどと思えるところが多々あって面白い。
 考えてみれば、自分はHSの教えについてあれこれ書き散らしてはいても、まとまったものはまだ書いていなかった気がする。もしかしたら書いたことがあったかもしれないが、そうだとしてもすっかり忘れてしまった(笑)。
 
ここで、「(笑)」というのが、まず、呆れます。批判するなら、批判する責任において、書いたこと、つまり、批判の中心となることを、忘れるはずはないのです。無責任です。
 
とすると、HSの基本教義について、現時点における自分の感想をまとめておくのも有意義なことかもしれない。「そんなもんいらん!」という人もあろうが、自分の頭の整理には役に立ちそうだ。本当ならこういうものは参考書籍を読み直してから書くべきだろうが、今回はまずは軽い草稿として自分の記憶によってざっと書いてみることにしよう。
 
自分の頭の整理は、まとまるまで、自分だけでやってください。感想にも草稿にもならないような雑な文章を、公表しても、迷惑なだけです。
 
そういう、人の迷惑とか、一貫性のない思考が、全く気にならない鈍感と自己中を、楽山は、自分で、感じることも考えることも出来ないのです。
 
*正しき心の探究
 まずHSでは、正しき心の探究について、次のように説明していたと記憶している。
・正しき心の探究の、正しき心とは、神の心のことである。
・したがって、正しき心の探究とは、神の心の探究の別名である。
これについて、自分は現時点ではこのように考える。
・神とは人知のおよばぬ存在である。
・人知のおよばぬ神の心を知ろう、または知ることができるというのはナンセンスである。
・正しき心の探究という教えには、人には正しき心、神の心を知ることができるのかという慎重な考察と、人にはそれを知ることはできないという謙虚さとが欠けている。
 
大方、神について、私が書いてきたことでもあります。申し上げますが、楽山の、これまでの文章に表れてきたのは、全く逆であります。
 
人知の及ばない神のことを、表面的な字面で、単純に決めつけて、おとしめてきたのが、楽山です。何事も無かったかのように、こういうことを書くのは、嫌がらせでしかありません。
 
本当に、反省して、不可知の神について知りたいのなら、今まで書いてきたことを自ら全否定して修正する文章なしには、できないわけです。その道理も分からないのが、楽山です。
 
これを欠いたまま、正しき心の探究を実行するならば、次のような落とし穴にはまる恐れがあるだろう。
・正しき心の探究とは、神の心の探究である。自分はこれを極めることができる。
・ついに自分は正しき心(神の心)を知った。
・自分の心は、神の心と一体となった。自分は神と同一である。人々に、神の心とはいかなるものであるかを説き聞かせよう。
・類は類を呼ぶように、自分は神の心を知ったというものが集まり、宗教ができる。
結論としては、正しき心の探究というものは、それを否定し、断念すれば、そうそう道から外れることはなかろうが、それを肯定し、実現可能とすれば神となろうとしたサタンと同じ轍を踏む危険性が高く、個人でなく集団でそれをするならばバベルの塔のような悲劇が起きるだろう。
 
この否定するべきカルトの命題も、私が、反キリスト教のカルトの神?について書いてきたことです。楽山は、盗作もするのでしょうか。しかも、今までの自分の発言を全部、平気で無視して書いているのです。
 
*四正道
HSでは、愛・知・反省・発展についての四つの教えがあり、これを四正道と称している。
 四正道は、一般人にも分かりやすいように、ゆるく解釈すれば、大体次のように要約できる。
・愛…人に親切にしよう。「~してほしい」と他人に求めてばかりでなく、まず自分が他人のために何ができるかを考えよう。
・知…愛は尊いが、知に欠ければ害になることもなきにしもあらず。人のためになる愛の実践のために、知を磨こう。単なる知識をこえて、智慧を身につけよう。
・反省…間違ったことをしたら反省し、同じあやまちは繰り返さないようにしよう。
・発展…昨日より今日、今日より明日と、自己を向上させよう。より多くの人々を幸福にして行こう。
でもHSの中に入って行くと、四正道は次のようなものに変化する。
・愛…与える愛の最上のものは伝道である。HSの教えを伝えることが最上の愛である。
・知…最高の真理である大川隆法の教えを学びつくそう。
・反省…大川隆法の教えを守ることができているか日々、点検しよう。
・発展…HSの発展に力を尽くすこと、自らの霊格、悟りの向上に努めること、成功できるように頑張ろう。
もうこれだけで四正道のおかしさは明らかであろうけれども、念のために書いておくと、四正道はその入口では善く生きるべきことを説き、善き人になる道を示しているように見えるけれども、そこに共感して深入りすると、いつのまにか教団のために生きる善き信者を目指すための教えにすり替わってしまうということである。
 
こういうHSの言い分を、わざわざ書いて見せるところが、こだわっている証拠でしょう。ここで、善き人になることと、教団のために生きる善き信者になることを、別だと言いたいようです。
 
しかし、それで、楽山が選んだのは、アドラー教の、気に入らないことは無視する、という自己中であります。つまり、今となっては、悔い改めない限り、いかなる整合性も成り立たないのが、楽山なのです。
 
つまり、HSではなく、元々、自己愛性の自己中で自己顕示したいのが、楽山です。だから、他者の立場や意見を、無視したり、利用したり、無法の限りを尽くしても後悔しないのです。
 
この点からいうと、HSの教えには良いものもあるという意見は、必ずしも間違いではないけれども、そこに魅力を感じて引き寄せられるようでは、撒き餌に集まる魚とさして変わらないということである。ちなみに自分はまさしくそれであって、撒き餌に集まり、夢中で口を使っているうちに、でっかい釣り針に喰いついてしまった魚だった(笑)。
 
すでにHSを捨てたつもりの楽山は、離れるのではなく、「必ずしも間違いではない」と言いながら、「でっかい釣り針に喰いついてしまった魚」だと後悔しているように言って、実際は、真剣味のない「(笑)」の話にしています。今までにもあったことです。
 
大きな災いだったと思う真摯な態度と姿勢ではないということです。このように、万事が、安易で、軽々しくて、一貫した真剣味がないのが、楽山の自己満悦ベースのワールドなのです。
 
*愛
自分の理解では、HSの愛の教えは大体次のようなものだ。
・愛には、奪う愛と与える愛がある。
・奪う愛は「~して欲しい」と相手に求めてばかりのもので、与える愛は「あなたのために~」と相手に与えきりの思いである。
・奪う愛は止めて、与える愛を実践すべし。
・与える愛には、愛する愛、生かす愛、許す愛、存在の愛という発展段階がある。
これに対して、自分はこう考える。
・人は愛されることで生きることができる。特に子供は愛されることで自分は愛される価値があると知り、自尊心を持つようになり、自分を汚す悪から離れ、強く生きていけるようになる。
・愛を求めることを奪う愛として禁じるのは、心の断食を強要することであり、心の健康のためにはよいこととはいえない。特に子供に対してそれを求めるのは虐待と同じだ。
・極端な自己中心性、自己顕示欲については奪う愛として問題視することに正当性はあろうが、愛を求めること自体を悪と断ずるのはおかしい。
 
このように、何か複雑に仰々しく書いて、たいそうな教えのように見せかけるのは、カルトの特徴ですが、そして、楽山は、その逆を狙っているようですが、自分は分かっているという自慢になってゆくだけです。まさに、偽善者であります。
 
与える愛については、こう考える。
・人は利己性から離れることはできない生き物だ。
・たとえば、誰かのために、自らすすんで犠牲になったとしても、その動機を吟味すれば、「あなたのために犠牲になりたい」という自己の欲求に従った結果であり、利他ではなく利己に根差していることが分かる。
 
「あなたのために犠牲になりたい」というのは、自己の欲求ですが、利己でしょうか。本当に犠牲になるのであれば、利己主義の利己ではないのです。楽山は、何を理解?し慢心して「分かる」と言っているのでしょう。今日も、楽山は、楽山自身の自己愛性による破壊を表しています。
 
この構造はこの他のどのような利他行であっても変わらない。人のすることは結局は自分のためなのだ。(参考 『人間とは何か』マーク・トウェイン著)
 
楽山は、自分が、いかに、哲学的な遊びの言辞と、実際の行動の是非や評価とを、区別できないかということが、分からない人なのです。「結局は自分のため」ということを、上で利己だと思い込んでいます。
 
結局は自分のために、自分を犠牲にして、他者を生かす、という有り方を考えられない楽山なのです。だいたい、ここで、楽山の言は、既に、崩れています。こういう人に、愛を語る資格はありません。
 
・したがって、人は利己心から離れられないならば、目指すべきは、利己を認めつつも利他につなげることであり、利他的利己という生き方ということになる。(参考『科学と宗教との対話』竹内均)
 
ここに引用されているように、利己を認めつつも利他につなげる、ということを本当に理解しているならば、また、利己は、自分の利益であり、利己主義と受け取られることを、あらかじめ、知っているならば、前のところで、「利他ではなく利己に根差している」という言い方は、誤解を招く乱暴な言い方だから、しないはずなのです。
 
愛の発展段階説についてはこう考える。
・与える愛、生かす愛、許す愛、存在の愛は、それぞれ個別に存在するのではなく、みな混じりあっているものだ。これらは愛の一面または一部を取り出してそれらしい名前をつけているにすぎない。
・たとえば子供がわがままを言うときは、一見すると奪う愛のようでも、そこには生かす愛や存在の愛も含まれていることは少し考えてみればわかることだ。
 
「愛の一面または一部を取り出してそれらしい名前をつけている」と言いながら、「混じりあっている」という雑な言い方をしています。
 
キリスト信仰者である私の立場から言えば、与える愛、生かす愛、赦す愛、存在への愛は、みな同一です。奪う愛は、真の愛ではなく、欲望の混じったものでしょう。
 
以上のことから、自分はこのように結論づける。
・愛は愛である。その一部を切り出して分類整理したところで、群盲象を評すと同じことで、愛の全体像は決して見えてこない。
・愛する愛、生かす愛…などという分類は、本来、形のない愛を、特定の型にはめ込み、歪なものにしてしまう。
 
楽山は、分かっているんだというアピールを、大方の人が分かっているところの、きれいごとを書いて表したつもりなのでしょうか。何が言いたいのでしょう。
 
きれいごとを言って、悪い例として、群盲象をあげています。私は、この話を知りませんでしたが、楽山は、辞書かネットから引用してとかで、説明することをする気がありません。
 
楽山は、説明することも、ネット検索も、嫌いのようです。では、なぜ、ネットに書いてまで、自身の散乱した思考を、自慢したがるのでしょう。その辺が、元々の作為であろうと思います。
 
(ネットより)
群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%9B%B2%E8%B1%A1%E3%82%92%E8%A9%95%E3%81%99
 
・愛の実践は、どこかの偉い人の言葉に従うのではなく、まず自らの心に従うことが肝要だ。愛は神の別名でもあろうし、それは無形であり、無相であろうから、形にはめることはできぬし、ましてや権威主義的思考によるものではなく、それを超えるものである。これについては内なる神の声に耳を澄ますのが賢明である。
 
愛は無形だと言っておきながら、自らの心に従うことか肝要だ、さらに、内なる神の声に耳をすますのが賢明、言い換えれば、愛が分かる、というような自己中、そして、超常話を書いています。
 
この幼稚な結論によって、今まで書いてきたことが、何らかの目的を持つ作り話か仕入れた話であることを表してしまうようです。
 
あるいは、今までの、おかしな話が芝居だったと言いたいのならば、それこそが、少なくとも精神的満悦のための詐欺師の証明ということになるでしょう。
 
今回の楽山の記事の特徴として、まず、外れたことを言っておいて、あとのほうで、楽山は自分が、まともなことを分かっている、ということをアピールする文脈の傾向があります。そういう文脈が作為であるなら、あざとい、と言うべきでしょう。
 
つづく。
 
 
(2020年06月01日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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