読書
   読書一般でもありますが
   ここでは聖書とその関連がメインです。
 
 
私は、あまり本を読みません。読書障害の傾向があります。読書のスピードについて1時間に50~100ページ~などと聞いたことがあり、ふるえあがりそうでした。読んでいても、また、少し前に戻ったりするので、なかなか進みません。疲れます。
 
中学の頃か、パールバックの「大地」を読んだことがあります。私が読んだ唯一の長編小説です。大偉業を成し遂げた気分でした。母に告げると「続きが読めなくて残念ね」と返されました。・・これが読書好きなんだ・・と思い、自分の読書障害に気づくきっかけになりました。
 
私が読める本は、次が読みたくなるように引き込んでくれる本、または、これを読まなかったら人生成り立たない、例えば、教科書のような本、などです。この「など」は、とても狭い。
 
小説より短い詩のほうに興味が行くのは必然だったようです。現代詩文庫は十何冊ほど読んだかな・・理解してるかどうかは別です。近代詩では、中原中也が、いちばん好きです。
 
それで、私には、1ページ程度のブログ、というのが合っているのでしょう。
 
その私が本の読み方を語るのは、おかしいわけですが、本というより文章の読み方なので、1ページ、1コメントにも、共通するような読み方はあるだろう、ということです。
 
 
ネットのナルシストとして私のブログで既に資料となっている楽山は、心で読むよりも、唯物論の思考が好きだと書いていました。読み方を好みで選んだりしていいのかという問題がありますが、それよりも、問題なのは、楽山の言う "唯物論" という言葉です。
 
楽山の言葉を拾ってみると
 
「保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので」
 
八方美人が正義とでも言いたいのでしょうか。実際は、自身の "根無し草" ぶりを表しています。
 
「精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。」
 
どうやら、楽山に対して、心で読まない、心が無い、と言った私への当てつけのように思われます。悪い意味で、すごいのは、唯物論、という途方もなくデカい言葉を使っていることです。
 
(ネットより)
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方[1]。
唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、主なものに以下のようなものがある。
世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。→経験論、現象学も参照のこと
生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。例えば、ソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが唱えた化学進化説はその典型である。
歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96
 
観念論に対する唯物論。これは、自然科学の方法論のような気がします。
 
間違っても、科学的見方からは程遠い、霊が分かるっぽい自覚の楽山には、欠片もないことだと思いますし、この唯物論で、宗教、信仰、神、などで表せるはずはないのです。楽山の言葉の、とても、雑で、いい加減な選び方が表れています。
 
機械論と創造論のことについても、同様でしょう。どちらにしても推測~仮説です。聖書を読むのに、学説や仮説を学んでいなければならないというなら、信仰者になりうるのは、学者だけということになります。否です。
 
キリストが、誰に教えを垂れ、誰を愛したか、ということを思えば、聖書を読むときに、特殊な知能を要するような言葉は必要ないはずです。
 
学生の頃、経済学の講義で参照されていた資本論についての岩波文庫を読んだ記憶があります。黄金のトイレが出てきたところで、眉唾の印象を受けたのを覚えています。それに、マルクス主義の唯物論は、革命の原動力となったわけですから、学問の外皮を持ちながら、結局は、人を動かす情動に訴えるものだったわけです。善かれ悪しかれ、心がないところに革命は生まれません。
 
上から引用しますが
「理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場」
「社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される」
 
というのは、要するに、世の中、金や、金や、という意味でしょうか。
 
それが革命で実現したとは思えない歴史だし、金は必要だけど、金だけが生き甲斐を生むとは、到底、思えません、という、一般論となっていることで、ここは十分でしょう。
 
私は、"論" というもので人間は動かないと思っているので、あまり興味はありません。ただ、物質的欲求が人を動かすというのは、悪い意味のほうで、信仰・宗教にも登場してきます。
 
楽山が、これらの論を理解しているとは、これまた、到底、思えません。そういう理論立ててゆく筆致が、楽山に見られたことは一度もありません。楽山の理屈は、これまで、結局、視野狭窄と短絡で出来ていました。
 
以上をもって、楽山は、私に、心で読んでいない、と言われたものだから、心ではなく唯物がよい、などと、短絡した視野狭窄で、前から言っている、"唯物論の字面" だけを拾って、都合よく利用し、かつ、大失敗しているだけなのです。
 
楽山が、ずっと、心霊について書いてきたことが、楽山の唯物論を、全否定しているのです。
 
聖書は、常識的な理路と感性をもって、キリストと救われた人々との心の交流、その愛と共感、という見方をしないならば、一行も読んだことにはならないのです。
 
楽山が、有名人や学者の言を引用して語ることは、極端に自己愛に執着して、かつ、字面だけを受け取って書いていることですから、引用元に対する侮辱であります。決して、真に受けないでください、そして、近づかないでください。
 
 
(2020年06月21日)
 
 
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