楽山の因果応報(1)
 
 因果応報についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25245536.html
 
 
楽山は、飢えた犬のように、まとめて記事をアップしてきました。凄い気力ですが、その分、理路も情感も鈍っているなら、また、疲労を与えに来ただけということになります。
 
楽山は、対話形式にすれば、リアルさが増すと思ったのでしょうか。より衒奇(げんき)性が増すとは思わないのでしょうか。芝居がかった?三文芝居が続きます。
 
今までも、柔和芝居や、謙虚芝居や、クリスチャン芝居をして、だまそうとしてきた楽山ですが、このシリーズは、2つのキャラに、褒めたり、けなしたりをさせています。
 
正しいと思うことをストレートに言えるなら、また、反省し修正する心を持っているなら、対話形式にする必要は全くないのです。しっかりした根拠を持っていないから、さらに、演技性に向かうということでしょう。
 
カルト的思想は、そのベースが偽りなので、だまして誘うことが目的となり、詭弁と刷り込みの種類だけが凝ったものになってゆくのでしょう。目的が不純なために、わざとらしさだけが目立つ欠陥品になるのです。
 
*信者の訪問
信者 「こんにちは。あなたのブログを読んで、いろいろ考えさせられました」
老人 「こんにちは。それはよかった。拙ブログが考えを深めるきっかけになったのであれば、こんなうれしいことはない」
 
楽山の、哀れな、独り芝居の、独り褒め合いと、独り納得の、独り感謝です。こういうことが、みじめだとか、見苦しいとか、恥ずかしいとか、思わないようです。まさに、悪の染みついて首が回らなくなった詐欺師と言わざるを得ません。
 
信者 「なに言ってんですか。あなたのブログを読んで、よいことも、うれしいことも一つもないですよ」
老人 「は? それはどういうことかな」
信者 「どうもこうもないです。言葉通りの意味ですよ。あなたのブログのでたらめさには、まったく呆れてしまいましたね」
老人 「ほう…。たとえばどんな?」
信者 「そうですね。まずあなたは因果応報を否定してるでしょう。これはもう噴飯ものであって、明らかな間違いです」
*三つの問題点
老人 「うーん。それは早とちりだね。私の考えは、因果応報が現実かどうかは、人には確かめようはなく分からないことだというものだ。それがあるとも、ないとも断言はしない」
信者 「でも因果応報を否定しているでしょう」
老人 「因果応報という考え方には、人道的、倫理的、宗教的な面から問題があるとは考えている。また自分の感覚として、因果応報にはあまりリアリティを感じなくなってきているというのもある。ただ因果応報という法則があるかないかについては人には分からないと思う」
信者 「なに屁理屈ばかり言ってるんですか。そんな詭弁には騙されませんよ。私のことをなめるのは、いい加減にやめなさい」
老人 「別になめているつもりはない。その証にきちんとあなたと向き合い、私の考えを説明したいと思うがどうだろう」
信者 「話したいなら勝手に話をしたらいいでしょう。でも騙そうったってそうはいきませんからね。末端信者とはいえ、それなりの教学はしてますから、あなたなんかに騙されませんよ」
老人 「そうかい。では因果応報について私の考えを話してみよう」
 
今回は、信者が老人をけなす設定になっているようです。楽山は、どっちなのでしょう。どっちも楽山であり、楽山としては、私をけなしたいのでしょう。分かりにくくなっているだけです。
 
これまで、反キリストでありながら、クリスチャン芝居もしてきたわけですから、出来ないことはないと思っているのでしょうが、白々しいとは思わないのでしょうか、楽山自身が答えられる疑問と回答しか書けない芝居です。
 
楽山の特徴は、決して、批判に向き合わないことです。だから、ここで、期待通りの疑問をしてくれる信者を設定しているのでしょう。白々しいのです、三文芝居。
 
*因果応報と人情
老人 「いきなり私事から話をはじめて恐縮ではあるが、この問題について語るには、それがどうしても必要だと思うので、ここは我慢して聞いてもらいたい」
信者 「能書きはいいから、早く話をはじめなさいよ」
老人 「うむ。私が生まれ育った家は、特定の宗教の信者ではない、日本ではごく一般的であろう無宗教の家だった。だからは私は、特別な宗教教育は受けたことはなかった。それで、気の毒な状況にある人をみれば、『気の毒だ』と思ったものだった。『なんとかできないものか』とか、『自分に何かできないか』『でもお節介がられるんじゃないか』とか、いろいろ考えたりもした」
信者 「……」
老人 「その後、私は青年期になって、とある宗教に凝ったんだ。その宗教は、因果応報やカルマは真実であり、事実であると説いており、私はそれを本気で信じた。その結果、気の毒な状況にある人たちをみたときには、まずはじめに『前世のカルマだ』『罪の報いだ』と考えるようになり、同情心はあまりわかなくなったんだ。悪いことをしている人をみたときは、『罪の報いで地獄に堕ちる』『来世は反作用で苦しむだろう』などと考えてしまった」
 
楽山が、因果応報という言葉で考えていることが、空恐ろしく思えます。楽山は、即、罪の報い、ということに結び付けているのです。しかも、罪の報いだと考えるようになり、同情心は、あまり分からなかったと言っています。
 
罪と罪の報いに苦しんでいる人は、たくさんいるでしょう。同情してはいけないのでしょうか。ここに、楽山の、人間にとって、とても大事なものの欠如が見て取れると思います。
 
ここに表れているのは、楽山の "共感性の欠如" です。罪を犯す人を、特別悪い人と思っているようです。罪は、総ての人が犯しているのです。そこへの洞察が、まるで無い楽山です。
 
洞察は、共感性から、生まれてきます。前にも書きましたが、楽山の、有害なだけの陰気なダークネスから、その対極に、人間にとって必要な光のブライトネスがどういうものか、暗示されてくるわけです。
 
このことから、楽山が、自分のことは棚に上げて、人に対しても、神についても、高い位置から見下ろすようなことしか書けない、ということが分かります。次々と、楽山自らの言説によって、楽山の正体が明らかになってくるのです。そして、その対極にあるものが、暗示されるという皮肉な結果になるのです。
 
対極にあるもの、人間にとって大切な共感性、これが養われておれば、人の気持ちが、少なくとも、ある程度、分かります。自分が似たような罪の意識をいだいたことを体験から知っているからこそ、同情が出来るのです。
 
楽山には、そういう心が無いのでしょう。だから邪教も『本気で信じ』てしまうし、人に対しても『罪の報いだ』としか考えないのでしょう。それが、今も続いているということです。だから、字面だけの理屈でしか考えられないのでしょう。
 
信者 「それで? それがどうだったいうんです?」
老人 「この結果、私は、因果応報という考え方は、人の自然な情緒を棄損し、冷酷にする面があり、ここは非常によくないと考えるようになったんだ」
信者 「因果応報を信じるようになってから、人に対して冷酷になったとして、それは因果応報の問題ではなくて、あなた自身の問題でしょう。自分の問題を、因果応報になすりつけてはいけません」
老人 「そうだろうか。私がいた宗教では、因果応報だとか、カルマが説かれており、私以外の信者たちも、不幸な状況にある人について、『カルマですね』とし、意見が合わない人には『死後は地獄ですね』といい、不慮の死を遂げた人については『肉体生命は断たれても霊としては永遠です。どんな経験も霊性を向上させるための肥やしになるんです』といって簡単に割り切って終わりにする人が多かったものだ。彼らのこういう冷淡さと、因果応報、カルマといった思想とは無関係ではないように思う」
信者 「それじゃあ、勝手にそう思ってたらいいでしょう」
 
このあたりから、楽山は、冷淡などの、心の問題を取り上げたいようです。私が、楽山は心が無いと言ったからでしょうか。しかし、そのように言われて取り上げるのは、反省になっていないところから、言い訳としか見られないことを、楽山は知るべきです。
 
楽山は、シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という信条に賛成し、熱心な信仰と誉めてさえいました。
 
こういう、何も考えなくて勝手にしていいとでも言うようなシャロームの信条に賛成してしまうことが、罪の自覚、罪に苦しみ悲しむことへの共感が、人間を、反省させ、成長させてゆくことが、楽山には分かっていない、という根拠になるのです。
 
このシャロームの信条は、ただ、お気楽なだけです。そこには人間の温もりも潤いもありません。つまり、とても冷淡で、非情で、自己中で、人間についての洞察の欠片もない、という、シャロームの人格の有り様が表れています。
 
ゆえに、楽山の書いた文章ですから、シャロームに賛同する楽山の、冷淡さを指摘する言は、嘘だと思います。
 
楽山は、神を机上の字面の概念として、否定してきました。そして、心の無い冷たい欠陥性の理路で、神を、おとしめてきました。字面の理路というのは、人間性を欠いた冷淡な理屈です。こだわりだけで進める無機質のゲームです。
 
楽山が、今になって、反省としてではなく、最初から分かっていたかのように、心のことを書いてくるのは、言い逃れに過ぎないと思います。何故なら、言われたことを真似して書く、という反応そのものが、心からの反省が欠けている分、都合だけを考えた心無い結果だからです。
 
「霊性を向上させるための肥やし」というのは、心を無視して、字面の概念を、霊、という言葉で表して、心とは違う特別のものに見せかけるカルトの詭弁です。
 
ごちゃごちゃ言い逃れの詭弁を弄するのではなく、本当に、前のことを翻したのなら、自らを斬る以外にはないのですから、自分大事に、心があるかのように、今さら、言うことは、むしろ、楽山の企みを明らかにするだけになるわけです。
 
冷淡さについて、楽山が、自らを斬ることなしに、辻褄合わせに語ることなど、認めてよいことではありません。
 
こういう芝居を平気でしてしまうところに、楽山の悪意が、さらに悪性を増していることが、表れています。奇を衒(てら)った三文芝居など、楽山の今までの経過が、否定しています。
 
だまして、良く思われようとする、あがきに対して、微塵も説得力の無いことも、明らかになっています。保身のためには、他者を利用し、自説を最初から無かったかのように無視して、今の自尊を守ろうとする姿勢は、もはや、正常の言論者ではありえないことをもって、楽山が、詐欺師であることを確定してゆく経過と結果になるでしょう。
 
悔いることもせず、改めることもせず、自らの非を認めることもしないで書いてくるような、楽山の辻褄合わせの芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
※ 
 
批判というものを考えるとき、批判者は、正しいと思って批判していても、批判の正しさを信じるのではなく、できることをしているに過ぎない、ということを自覚するべきです。つまり、批判してもしなくても、人間にとって、それは、そのときの判断に過ぎず、人間の正しさの結論は、神に任せられるということです。
 
人間は不完全だから、批判することも、批判しないことも、罪になりうるからです。
 
 
(2020年06月25日、同日一部修正)
 
排泄(はいせつ)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html