楽山の弁神論(2)
 
 神義論、弁神論についての対話 2
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
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楽山の、偏向した負の情熱、つまり、怒気のベクトルが、無反省に、執拗に、詐欺的言説によって、にじり寄ってきます。
 
*なぜ神は悪を止めないのか
信者 「神は悪を止められるはずなのに、なぜ止めないのかと仰いますけどね、そこには神の深いお考えがあるんですよ」
老人 「たとえば、どんな?」
信者 「神の愛は、砂糖菓子のような愛ではないんです。砂糖菓子は美味しいです。でもそればかり食べてたら虫歯になってしまいます。だから神は、人々の魂を鍛え、進歩させるために、幸いを与えるだけでなく、試練を与えることもあるんです」
老人 「つまり、神は、人々の霊性の向上のために、あえて悪の存在を許容しているということかな」
信者 「大雑把に言えばそうとも言えますが、だからといって神は悪を奨励しているわけではありませんからね。悪と見えし、この世の苦難困難は、魂を磨き、霊性を向上させるための砥石としての役割があり、そこに意味があるということです」
 
このように、神を、人間の考える正義の立場から、矛盾だ、矛盾だと、正論を繰り出したつもりになるのが、楽山のような偽善的無神論者の生業(なりわい)なのです。
 
楽山は、霊性の向上、などという、一見、高尚に見える言葉が大好きでが、それに見合う中身が全くありません。信仰に必要なのは、人間に相応しい心なのです。
 
信仰者は、先ず、苦悩があり、そこからの、慰めでも、励ましでも、癒しでも、救いでも、いただきたいと思う人です。ゆえに、聖書を読むのです。
 
上に立って、机上で小理屈を捏ねている気取り屋とは、種類が違うと言ってもよいでしょう。ですから、決定的なこととして、楽山のような偽善者は、人を救う道を、何も提示しえないわけです。総て、机上の空論だからです。
 
楽山は、愛と共感を知りません。ゆえに、キリストの愛と共感も知りません。それが、妬ましいから、文句を言っている、という、極めて低次元の自己満足人であり、それを、何々論だとか飾っているだけなのです。
 
誰も認めてくれないから、その小理屈を言うことにだけ快感を覚えるのでしょう。言ってみれば、いちばん、この地上で、他者をあざ笑い侮辱し続けている人種なのです。
 
老人 「それは、逆境にある人が、自分自身の心を奮い立たせようとするときには有効な考え方だろうが、他人に対しては適用できないものだね」
信者 「どういうことですか?」
老人 「たとえば、逆境にある人が、『この苦難、困難には意味があるんだ。自分はこれを乗り越えることで、魂を鍛え、さらに高く飛翔できるんだ』と前向きに考えて頑張るのは結構なことだ。でも、児童虐待事件などについて、『この苦難困難は、この子の魂を向上させるためにあるんです。神の愛は砂糖菓子のようなものではないんです』と第三者の立場から言うとしたら、こんなバカなことはない。あなたはそうは思わないかな」
 
まことに、自分に意味付けを欲するのは、楽山のような自己愛性の者であります。つまり、どこまでも気取りだけが目立ってくるのです。
 
誰も、良い意味付けをしてくれないものだから、自分で意味付けをして、それと違うものを否定する、という、みじめな人生を送っているのです。正義の味方気取りで。
 
信者 「それとこれとはちがいます。その二つは同列には語れない問題です。大人の話と、子供の話を同じにするなんて、頭悪すぎです」
 
「頭悪すぎです」これが、楽山の本音です。自分以外の人が、全部、頭悪いと思ってしまう自己愛者なのです。だから、高慢から、説教をしたつもりで、誰も聞いていない、誰にも良い影響を与えられない、という人生を歩むことになります
 
老人 「でもこのたとえによって、この世の悪は、人の霊性を向上させるためにあるという考え方は、逆境にある当人に奮起を促すための精神論としては有効な場合はあっても、この世に悪がある理由を説明する理論としては不完全であることが分かるだろう」
信者 「そんなことは勝手に決めないでください。たったこれだけの例で不完全と決めつけるのは卑怯です。あなたは自説に都合のいい例を持ち出してるだけじゃないですか」
老人「ある仮説が不完全であることを証明するには、その仮説で説明できない事例を一つだけでも挙げればそれで十分だと思うけどね。でもまあいいか。それで、この件について他に意見はあるのかな」
 
仮説をあげても、神を説明することなど出来ていないし、否定することも出来ていないし、ゆえに、信仰者から、キリストの愛と共感の感動体験を奪うことは出来ません。
 
しかし、不思議です。虐待された子供が死んでしまっては救いも何もあったものではない、という疑問を、まだ、楽山は言っていません。気づいいていないのでしょうか。だとしたら、とても、程度の低い疑問ということになります。
 
このように、虐げられたまま死んでしまう人々にとって、神はどうして救わなかったのか、という疑問があります。その答えは、キリストの愛と共感に包まれている、また、それを知る、ということが、私たちの知ることのない、地上を超えた世界では、あるのかもしれない、という希望だけになります。それで不服な人たちは、耐えるのではなく、信じないほうを選ぶのでしょう。
 
ゆえに、天国ということが聖書には登場するのです。その希望を支えるのは、愛と共感のために、命を惜しまなかったキリスト、その御方に対する私たちの愛と共感なのです。
 
これは、楽山のような野卑な屁理屈をこねる者には、分からないのでしょうね・・。
 
信者 「当然あります。はっきり言って、あなたは我が強すぎます。我が強すぎるから、自分の小さな頭で考えたことが全てだと思って、それで結論づけて得意になってるんです。物事はもっと大きな視点でとらえるべきです。悪についてもそうです。そういうことは、自分の小さな頭で考えるんじゃなくて、もっと大きな視点…いわば神の視点でみてこそ、その意味が分かるんです。それでこそ、悪、苦難、困難、悲惨…などが存在する本当の意味が分かるんです」
 
若い楽山も、年寄りの楽山も、何も分かっていません。神の視点で見ることなど、人には出来ません。ここに、でっち上げの、にわかクリスチャンの正体が、バレてくるのです。
 
老人 「つまり巨視的視点からみれば児童虐待に宗教的な意義を見出せるってことかな。いやいや、どういう視点から見ようとも、児童虐待に存在意義を見出すなんて、人としての情緒を保っている限りは、それは無理だよ」
信者 「だから言ってるでしょう。人の視点では分からないんです。神の視点でなくては…。あなたはこの問題について、あれこれ言うなら、まず神の視点を得てから言ってください。神の視点も、神の心も何も分かっていないくせに、あれこれ言うのは傲慢というものです」
 
どうしても、楽山は、その狭い視野に入るような小理屈で、神と信仰を考えるようです。知らないこと、分からないこと、見えないことがあるという信仰の世界に、楽山が、どこまでも反発してくる病理のわけが、ここにあるのでしょう。
 
*イワン
老人 「この辺りの議論については、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとイワンとの対話で表現されているね。有名な「大審問官」の少し前のあたりだ。イワンは、神の存在と児童虐待の関連について熱く語っているよ」
信者 「話をそらさないでください。あなたに神の視点が分かりますか。分からないなら黙りなさい。あなたの努めは、知識自慢をして知ったかぶりをしないで、まず黙ることです」
 
ここは、私への当てつけです。楽山の言い分が、あまりにも幼稚で、かつ、批判に対して何も答え得ない男なので、書くな、ということは、前から言っています。その理由は、言論の責任を負えないから、言論の自由はない、ということです。楽山は、虫男、つまり無視男です。
 
老人 「なかなか手厳しいね。すぐ終わるから、ちょっと話を聞いみてほしいね。記憶に頼って話すので、不正確な部分があったら申し訳ないのだが、この物語の中で、イワンは、神の計画のために幼児の犠牲が必要だとするなら、自分は天国への招待状は受け取る気にはなれないという風なことを主張しているんだ。神の計画が成就したあかつきには、犠牲になった幼児も、他の人たちもみんなが天国で幸せになるとしても、そのために罪のない幼児を犠牲にしなければならないというのには納得できないと…」
信者 「それで一体何が言いたいんですか」
老人 「あなたは児童虐待について神の視点から見ればその意味が分かり納得できるというけれども、私はそれが神の計画の一部であったとしても納得できないということだよ。人としてそれに納得してはいけないとも思っている」
 
信仰の原動力が愛と共感であることを知らないし感じることも出来ない楽山の言です。神が、その被造物である人を、いちいち納得させる必要はないのです。それでも、人は、キリストに引き寄せられてゆくのですから。つまり、楽山のような屁理屈者は、神の計画にも、信仰の世界にも、必要ないのです。邪魔しないように。
 
信者 「それは確信犯として神に逆らうということですよ」
老人 「イワンはそういうところはあるかもしれないね。多分彼が言う幼児というのはキリストのことなんだろう。神の計画のためには幼児の犠牲が必要であり、その犠牲の後は、その幼児も他の人も天国で幸せになるだとか、罪のない幼児を犠牲にして天国に入りたいとは思わないだとか主張しているからね。ただイワン本人は、教義、ドグマを批判しているだけで、神そのものに異議を申し立てているつもりはないかもしれないが」
信者 「なにやらグチグチ言ってますが、ようするに神がすることは気にいらないと文句を言ってるのでしょう」
老人 「上のことは、イワンの心理を自分なりに想像してみただけだ。私自身の考えをいえば、もし神が存在するとしたならば、こういう問題については、宗教教義やドグマによって簡単に割り切って済ませてしまうのでなく、大いに迷い悩むことを人に求めていると感じるね。だから神は、苦悩するイワンはもちろん、イワンに反論できないアリョーシャのことも温かく見守っているだろうと思う」
 
楽山の考え方として、もし神が存在するとしたならば、という、あとの理屈を、楽山の狭い世界観によってこねていることです。まず、信仰は理屈ではないですし、その時点でアウト、さらに、楽山の貧相な理屈で分からなければ否定、という傲慢の時点でアウトなのです。
 
信者 「呆れた。自己都合信仰も、ここに極まれりですね。あなたの言い方だと、神は、人が信仰に迷い、悩み、棄教して、無神論者になることを期待しているかのようではありませんか。自分が退転し、無神論者になったからって、神がそれを望んだからだというのは、自己都合信仰にもほどがあります」
老人 「私が言っているのはそういうことではなくて、ちと口はばったいのだが、端的に言えば愛が大事だということだよ。この世の悲劇、悲惨について、宗教教義やドグマによって「因果応報ですね」「前世のカルマですね」「霊性向上のための試練です」などと簡単に判定して済ませてしまうのは冷淡すぎるのであって、それよりは宗教教義やドグマによって割り切ることはできず迷い悩む方が人としてまっとうな生き方だろうということ」
 
楽山は、愛を、字面だけで概念だけで語れると思って、信仰を、愛だから冷淡ではいけない、とか言うことで語っている時点で、信仰を、薄い同情に貶めています。これは、つまり、楽山は、神の理路を、人の理路、実際には、楽山の、みすぼらしい壊れた心無い理路で考える時点でアウトなのです。こういう野蛮な理路は、結局、信仰に難癖をつけるだけに終わるからです。
 
心に半端な持ち物が多い人は、信仰に至りません。その最悪な場合は、他者の信仰を尊重することさえしなくなり、自我の執着で一生を、不平不満でいっぱいにしながら終えることになるのです。楽山に書くなと言った理由の一つが、ここにあります。我執の不幸をまき散らすなということです。
 
信者 「なにやら、もっともらしいことを言ってますが、結局は自己正当化のための屁理屈ですね。信仰を全うできずに退転したくせに、それを認めたくないために、屁理屈を並べてる」
老人 「これは屁理屈かな? それではついでにもう少し屁理屈を並べさせてもらうと、イワンは大雑把に言えば無神論者だね。でも深い愛を持っていることは確かだ。だから神は愛であるとすれば、深い愛のある無神論者であるイワンは、神とともにある無神論者と言える。一方、何でもかんでも教義やドグマで割り切ってしまう教条主義的な信者は、愛に欠けている。こういう人は、神を失った信仰者であり、神とともにはいない。あなたは神を信じるかどうかを最重要事項としているけれども、私は信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかないと思う」
 
楽山は、深い愛を持てず、無神論者としても成り立たない幼稚さで、慢心しているナルシストです。老人も楽山ですから、「信仰の有る無しなんて、愛があるかないかと比較したら些末な問題でしかない」などと言っています。信仰と、愛を、分ける時点で、アウトなのです。
 
信者 「ははは。『酸っぱいブドウ』ですね。イソップ寓話では、キツネは美味しそうなブドウを見つけて食べようとしたものの、いくら飛び跳ねてもブドウには届かなかったため、『このブドウはどうせ酸っぱくてまずいんだ』と負け惜しみを言って立ち去ったそうです。あなたは退転をして信仰を失ったから、信仰なんて価値はないと負け惜しみを言ってるんです。かわいそうな人ですね。あなたを見ていると、教祖様が『何があっても、絶対に、信仰を失ってはいけない』と繰り返し警告しておられる理由がよくわかります」
 
信者は、合理化機制の話をしていますが、老人は信仰を失ったという設定なのでしょうか。教祖様というのは、楽山が執着しているHSの教祖のことでしょうか。楽山は、分かると言っています。まだ、執着しているわけです。
 
*なぜ神は悪を止めないのか
信者 「あなたの無駄話のせいで、大分話がそれたようなので戻しますけど、あなたはこの件については、そもそも問題の立て方が間違ってますよ。『なぜ神は悪を止めないのか』と言いますけど、この世界には因果応報という法則があるんです。すべては善因善果、悪因悪果です。因果は決してくらますことはできません」
老人 「それについては先に述べてるね。この問いの前提は、神は全能であるということだよ。それだから、『神は絶対、全能、完全で、悪を止めることができる。それなのに、なぜ悪を止めないのか』という問いが生まれる。あなたのように、因果律が絶対で、神はそれを曲げることができないとするなら、この問題が生じないのは当たり前だね」
 
老人が、神の全能によって信仰を捨てたという設定なのか、楽山の、まやかしは、理解できませんし、理解する必要もないのです。楽山の因果律は、楽山の頭の中にしか存在しないものですから、楽山のゴミ箱を漁ることはしません。
 
神を、人の言論で、明らかにすることは出来ません。
 
 
楽山は、こちらが批判記事をアップすると、ぽつぽつと、新しい記事を追加アップするようですが、その中身は、他者の本の都合の良いところだけを引用するような、自主性の無さで、それに加えて、小姑のような愚痴を並べる、という成り行きになっています。
 
楽山は、批判対象記事を、新しい記事で、後ろに、後ろに、隠したいようですが、既に総てコピペしてあるわけですから、こちらは、じっくり、ゆっくり、批判記事を練ってゆくことになります。
 
 
速報ですが、現時点で、楽山は、太平洋戦争のA級戦犯、大川周明の記事を書いて、賛同しているようです。相変わらず理路になっていないようだが、楽山は、右翼青年だったのかもしれません。下書きは出来ているので、7月上旬には批判記事をアップする予定です。
 
 
(2020年06月28日)
 
 
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