非合理と合理
 
 
人にとって神は
そして信仰は元々非合理である。
人の理解と把握には限界があるからだ。
 
神の合理を人は理解できない。
 
人知は
神を信じる信仰という非合理と
人の合理を区別するために与えられている。
 
恐ろしいのは
信仰という非合理を
人の合理に結びつけることだ。
 
非合理について
人の合理で確信しうることは何もないのに
非合理が合理に
神の思いが人の思いに
合一すると思い込むところから
神の名のもとに信仰は変質して
訂正不能の確信?に堕ちてゆく。
 
人の信仰という非合理の自覚は
祈りをもたらし
それを必要とする人を救いうるが
 
人の確信という合理化された非合理は
人を、いわれなき罪と報いに定める。
 
 
(2019年06月01日、修正)
 
 
  器
 
信仰に必要なのは
復興ではなく改革である。
 
大昔のような
一途なだけの信仰の復興というのではなく
原初の信仰として
人間を弁える信仰への改革である。
 
信仰を、人知によって語りうるものだけを受け取り
人知によって語れないことを神に任せる人の器への改革であり
 
それは解釈信仰や奇跡信仰や史実信仰などの
人知によって神を語る人知信仰からの脱却である。
 
人知を超えることが出来ない人間は
生きている間は神を仰ぐのであって
人の意志を
絶対の神の意志と一致させることは出来ない
ということを知ることが信仰である。
 
信仰の成長とは
決めつけを避けて成長を期し
神へ祈ることを知る「人に帰る」ことである。
人間の温もりと潤いを失いかけた心に
人間らしさを
神の支配の意識によって
キリストの愛によって取り戻すのが信仰である。
 
 さもなければ
 信仰に熱心であればあるほど
 信じれば信じるほど
 人の器は
 土の器?から神の器を目指すことになり
 土の器に秘められた人の信仰は
 神の器に背くだろう
 そして人知信仰が破壊してゆくのは
 そういう土の器?すなわち人の思いこみ信仰に他ならないのである
 
善き信仰は
自らの土の器とその中身を
神によって鍛えられ
神のもとで育てられることを喜ぶだろう。
 
 
(2011年12月02日、また同日若干修正、失礼)
(2019年06月01日、修正)
 
(2020年07月09日、修正再録)
 
 
近況:
テレビの放送の「命の助かる可能性の高いほうに移ってください」みたいな言い方が、何となく縁起でもないような気がしていましたが、被害のニュースや映像が増えてゆくと、さすがに、災害においては、そういうことを考えるのが、いちばん大事なんだと思うようになってきました。今のところ、うちに被害はありませんが、報道では、長崎県も避難した人は少なくないようです。
(7月8日午後11時20分現在)
 
 
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