楽山の短絡宗教
 
 『宗教座談』内村鑑三著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25628678.html
 
 
またしても、楽山は、弁明も反論もしないまま、書いています。弁明も反論も出来ないからです。言論に耐えるだけの知性も感性も説得力もないからです。だから、嘘を吐くしかなくなっています。
 
この間の事情を知っている人からは、執拗で、妄想者で、訂正不能で、病識のない、恐ろしく愚かな、意地だけが突っ張っている醜い人としか見なされないでしょうに、なおも、書けば、誰か、だまされてくれるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、病膏肓に入って、都合の良い文言を漁っては、なにやら、わめいているだけです。やさしそうな見かけの筆致に、どうか、だまされないでください。
 
恥というものを知らないと、こうなります。
 
タイトルから宗教全般についての話だろうと見当をつけたのだが、中身を確かめてみるとそれは全然違っていて、冒頭から最終ページまでキリスト教にほぼ限定した話になっている。テーマは、教会、真理、聖書、祈祷、奇跡、霊魂、復活、永生、天国である。語り口は、時に厳しくなるときもあるが、それは著者の信仰心の強さと真面目な人柄のためなのだろう。
 
楽山に、「信仰心の強さと真面目な人柄」など分からないと思います。信仰について、的を外してばかりだったことが証拠です。
 
今回も、また、的外れだけ表れています。つまり、キリストが伝えた、敬虔も、罪も、赦しも、癒しも、分からないまま、物知り顔に言っているのが、楽山です。
 
本書の中で自分にとってもっとも興味をひかれた箇所を三つ挙げるとしたら、まず一つ目は復活についての話だった。キリスト教における復活とは、肉体をともなうものなのか、そうでないのか、前々から疑問だったのだが、著者は「永生とは肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体を以て生命を継続する事」(p.102)としている。どうやら復活するときは霊魂は肉体から新しくつくった霊体に移ると考えているらしい。
 
新たに授かる霊体、ということを、地上で理解できる人はいません。つまり、このことは、死後のことは神に任せよ、という、神を恐れる敬虔に結び付いているのです。
 
にもかかわらず、楽山は、この記事で分かったような気になるのでしょうか。このことこそ、楽山が、字面の概念を組み合わせて辻褄が合うとは "言えなくもない" と前に言ったような、ボンヤリ言語的短絡で慢心している証拠なのです。
  
聖書の言葉も、他者の言葉も、有名人の言葉も、まるで、理解できず、おのれの皮相ワールドを讃える捏造言語表現に変えてしまう楽山であります。
 
二つ目は動物には霊魂はないとしているところだ。著者は「霊魂は勿論肉体の生命ではありません。もしそうならば、犬にも馬にも鶏にも烏にも霊魂があるはずでございます」(p.77)としている。また「我々が犬や馬や猫や牛などの責任を問わないのは彼らに肉体あるも霊魂のある事を認めないからでございます」(p.80)ともいう。これからすると、著者は動物には肉体生命はあっても霊魂はないと考えているらしく、いわゆる三魂説のような立場に立っているようだ。
 
三魂説というのはネットには見つけられませんでした。魂の三分説というのがありました。
 
(ネットより)
魂の三分説とは
魂の三分説(さんぶんせつ)とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが提唱した、人間の魂を3つの性質に分ける考え方のことです。
プラトンは『国家』の中で、魂を以下の3つの区分に分けました。
①理知(ロゴス)
②欲望(エピテュメーテース)
③気概(テュモス)
https://tk252525.work/tripartite-theory-of-soul/
 
私は、例えば知情意は、はっきり3つに分かれてなどおらず、この分け方は多分に便宜的なものであり、複雑に連動するものだと思っています。
 
楽山は、難しそうに見える言葉を、わざわざ使って、説明せず、おのれの知性を誇る、という、無能で無反省な、身の程を知らない自己愛者の特徴を持っています。何の参考にもなりません。
 
三つ目は人は神と同化可能としているところだ。著者は永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」(p.109)としている。自分はキリスト教は神と人とを創造主と被造物とに分けていて両者は別個のものとしているというイメージを持っていたので、上のように両者を同化可能とするかのような考え方には良い意味で驚かされた。
本書にはこの他にも興味深いことが沢山語られているので、また折をみて再読したい本である。
 
「永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」」という言葉を、神と人の同化可能、という幼稚で乱暴な意味に短絡して受け取っています。
 
もう一度言いますが、無能で無反省な自己愛者は、こういうことを平気で言える輩です。
 
キリスト信仰において、永遠の命とは、地上において、神の永遠性を持つことではなく、神との合一や一体化でもなく、また、地上で永遠に生きることでもありません。
 
内村鑑三は、何らかの結論のようなものを書く必要か使命感があったのだろうと思われますが、その意図は、今、楽山という偽善者によって、無遠慮に不細工に悪用され、けがされているのです。
 
この楽山のような曲解は、一気にスーパーな者になりたいという欲望を持つ者に見られます。楽山は、その典型です。その執拗さは、もはや人間のものとは思えません。
 
興味深いなどと、楽山がいくら書いても、楽山は、言葉一つも理解などしていないのです。
 
 
 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25628588.html
 
 
キリスト教も仏教も、楽山にとっては、世辞が通用すれば取り入って、いい気分になり、批判されれば、疲労しか与えない小学生レベルの詭弁を、難しい言葉を執拗に使って、結局、おのれの学者気取りを自慢したがるネタに過ぎません。
 
楽山は、A級戦犯の大川周明を讃える記事を書いていますから、神道には、右翼的アプローチをしてくるかもしれません。注意警戒してほしいと思います。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12612562801.html
 
神道のことを知りたいと思って本書を読んでみたが、なんだかますます神道が分からなくなってしまった(笑)。
 まず著者は、神道は「開祖も、宗祖も、教義も、救済もなく、「ない宗教」というところにその本質がある」(p.69)と規定している。また元来、神道は「神殿はもうけられず、祭祀は屋外の岩のところでおこなわれていた」のであり、「社殿がないのが神道のもとの姿」(p.33)ともいう。さらには神道には「教えについて述べた聖典というものが存在しない」(p.151)、「はっきりとした規制がない」(p.158)という。
 
私は、神道のことは、ろくに知らないので、よく分かりません。しかし、楽山が、人に勝りたい自己愛からの自己顕示欲によって自慢する材料にしているだけだということを知ってほしいと思います。その結果、この一年余りで、楽山の低劣な詭弁と嘘が明らかになってきました。
 
楽山は、人間らしい思慮がないために、足りないものに気づけず、ふつうに、知っている、あるいは、それ以上の、読書家気取りで、反省・学習・成長を全く抜きにして書いてきます。
 
これはもう無いない尽くしである。こういう説明を聞くと、神道の特殊性が際立って見えるようで面白いのではあるが、神道がますますつかみどころのないものに思えてきて混乱してしまう。これにはまいった。
 
混乱して、まいったなら、評価や考察めいた記事も、書かなければよいのです。しかし、楽山は、書いて自慢したい欲望と、軟派カルトの因業のみによって、次には、面白い考察だと、説得力がある、などと書いています。
 
バラバラで、軸がないのです。そういう人です、決して、コメントの遣り取りをしたり、近づいたりしてはいけません。関われば、吐き気のするような曖昧ボンヤリ言語で、執拗な嘘と短絡と詭弁で、心だけでなく、体も壊しそうなくらいの疲労を与えてくるのが楽山です。
 
とはいえ、著者が述べている神道と仏教とが共存できた理由は興味深いものがあった。神道は開祖も教義もない宗教である一方で、仏教は開祖も教義もある宗教だったので、正面衝突はまぬがれ、住み分けが可能だったのであり、また明治維新後に両者を分離できたのは双方ともに性質が異なり、混じり合うことなく並存してきたからだろうというのだ。これは面白い考察だと思う。
 
キリスト教については、禁教と迫害の長い歴史があり、明治時代になって、ようやく認められ、また、さらに、戦争の時代の言論統制によって、迫害を受けた歴史もあるわけです。
 
遠藤周作は、警察に、神と天皇とどちらが偉いかと聞かれ、どちらも尊敬いたしております、と答えて難を逃れたという話があります。氏の選択を、誰も責められないと思います。
 
楽山は、戦争当時の憲兵隊みたいなカルトに入って、おのれの権威を振りかざしたいのでしょうか、敬語で呼ばれ、先生として、もてなされたいのでしょうか。身の毛がよだちます。
 
両者が共存できた理由について、神道の寛容性のゆえだとか、神道は他宗教を神道に合う形に変容させるからだという意見もあるが、著者の考察も説得力がある。
 
このような、考察も説得力もない記事を、気取りと自己顕示欲だけで書いてくる人は、珍しいと思います。楽山には、自分信仰の訂正不能の自己愛を宗教化したいのではないかという軟派カルトの疑いがあります。
 
結局、記事タイトルの『神道はなぜ教えがないのか』についての、結論も考察も書けない楽山です。感想も、「混乱」「まいった」「面白い」「説得力がある」などと、これは、作文の苦手な小学生が、何か感想を聞かれて、よかった、とだけ言って先生に叱られるのに似ています。
 
こういう傍迷惑なことを、平気で、著名人の名を引用して、自己正当化してくるのです。何を書いても、理路は拙劣で情緒は乏しく快楽原則だけで褒められるのを待っているだけの自己愛性人格障害の楽山の言です。有害無益、カルト臭満載の、疲労だけを与えてくる一年余りでした。楽山は、それを楽しんでいるサディストだと思います。
 
 
近況:
 
市役所に行って、母の健康保険証の再発行の手続きをしました。その日にその場で手渡しできるらしいですが、本人ではなく写真付きの身分証明もないため、家のほうに郵送してもらうことになりました。負担の減額や限度額証明については、現状では当てはまらないようです。
市役所には久しぶりに行きました。昔の役所は、とても不愛想でしたが、今回は、病院や施設のケースワーカーより、中身や資格について、説明が分かりやすく、率直な話もしやすくて、丁寧でした。公共サービスという言葉はありますが、若い公務員も良く教育されている感じで、隔世の感と言うべきか・・。
 
 
(2020年07月24日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html