楽山の吹き流し
 
 批判に対する態度のちがい(幸福の科学とキリスト教)
 2020年07月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25671140.html
 
 
根無し草の楽山が、ごますりか、今までの思い込みの先入観の主張とは違った、反省めいたことを言っていますが、いつまた、何を言い出すか分からない楽山です。
 
楽山については、信頼度ゼロとなった今までの経過を、楽山の、おびただしい虚言と暴言と侮辱を、一時の発言によって、無かったことにすることなど出来はしないのです。
 
楽山は、反省して意見を変えたかのように見せたいようだが、楽山の反キリストは体質です。もし本当に反省しているなら、恥ずかしくて、書くことを止めるはずだからです。
 
ですから、今になって、弁解のようなことを書いてくるのは、まさに、楽山の発言が、吹き流しのように、自分だけの都合で、たやすく向きを変えるということを示しています。実際には、楽山は、いつも、自分は正しいと思い込んでいたいだけなのです。
 
*HSとキリスト教の相違点(信者)
前々から思っていることだけども、幸福の科学(HS)とキリスト教とでは、批判に対する態度が大分ちがっているのはとても興味深い。
 
また、楽山は、知りもしないキリスト教をネタにして、分かっているふうを出そうとしています。楽山の口から出る "キリスト教" は、楽山の思い込みの中の、楽山の大好きな字面で扱えるところの、おとぎ話、結局、捏造の宗教もどき?に過ぎません。
 
たとえば、ネット上での議論では、HS信者は、批判に対して猛反発することが多い。批判内容についてさして考察するのでもなく、頭ごなしにアンチだとか、唯物論者だとか決めつけて非難してくる。批判までいかない疑問の提示くらいでも、不信仰だと怒る。相手の話をきちんと聞いて返事をする者は極めて稀だ。
これに対して、キリスト信者はどうかといえば、過去に匿名掲示板で議論した経験からすると、批判に対して、アンチだ、唯物論者だ、不信仰だなどと決めつけ、罵ってくる者は皆無だった。自分はこれは意外だったので、その理由についてたずねると、「批判するということは、それだけ関心があるということだから、無関心よりずっとよいです。キリスト教を批判していた者が、のちにクリスチャンになるということは、過去にもあったことです」とのことだった。また救世主を自称する大川隆法を批判しなくてよいのかと問うたときは、「自称救世主はたくさんいますから、いちいち相手してられません」とのことだった。
キリスト信者にもいろいろな人がいたが、HS信者のように批判に対して猛反発してくるとか、人の話を全然聞かないという人は稀だったとは言える。
 
楽山の、嫌らしい当てつけです。楽山は、批判も、反論も、弁明も出来ないので、このように、ボンヤリ言語で、婉曲的に、批判者を、おとしめてきます。
 
楽山には関心も興味もないが、嘘ばっかりだから批判しています。なお、自称救世主は、楽山という典型的なのがいて、シャロームと一緒に、キリスト教を内外から滅ぼそうとしています。
 
 (エペソ人への手紙)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
この、"悪い言葉"、というのを勘違いして、批判禁忌みたいに思っている人がいるのは、嘆かわしいことです。悪口と、批判は、全く違います。楽山の悪口にはないものとして、批判には根拠があります。本来、カルトに対しては、できる人、その意欲のある人から、批判を発するべきです。さもないと、好きなように悪用され、食い物にされるでしょう。現に、そうなっている有り様が、楽山とシャロームなのです。
 
*HSとキリスト教の相違点(教団)
次に信者個々ではなくて、教団の対応について比較すると、HSの方は、批判記事を掲載した週刊誌を訴えることが多いし、元信者との訴訟では、「「批判的言論威嚇目的訴訟」(スラップ)という独自の類型を成立させる」ことにもなったという過去がある。
2020-07-27 (1)幸福の科学事件
・幸福の科学事件 - Wikipedia
キリスト教の方はどうかといえば、現代日本において、批判者を訴えたという話は聞いたことがない。検索すると、キリスト教のなかでは、クリスチャントゥデイについての議論、裁判があったようだが、キリスト教が、HSのように批判記事や書籍の著者を訴えたという話は聞いたことがない。
 
ですから、悪口と違って、根拠を示している批判は自由であり、楽山は、それをされて、全く、反論も弁明も出来ないので、このような卑怯なボンヤリ言語で、婉曲的に、キリスト教批判は自由だろが・・みたいに、また、丁寧語の当てつけで、いちゃもんをつけてくるのです。
 
楽山には、言論の分別も節操もないということが、さらに、カルトの無根拠ということも併せて、楽山の発言から証明されています。
 
*結論
HSも、キリスト教も、どちらも宗教であるという点では同じである。けれども上のような比較をしてみると、両者を同列に論じることはできないのは確実だ。
 
宗教である点では同じ、と言いながら、同列に論じることは出来ない、と言い、支離滅裂が丸出しの、楽山です。これが、楽山の理路であり、誰とも議論が成り立たないのは、当然のことです。
 
キリスト教は、カルトではない、と言いたいところだが、キリスト教の内外および周辺にも、カルトは生まれているようです。キリスト教とカルトの違いは、人に、考えさせるか、考えることをやめさせるか、ということです。
 
カルト化は、カルト的思い込みが入って信条が字面だけで染まってしまうときに起こることです。人間としての罪の性質から、神に対して恐れをいだき、自説を絶対にしなければよいのですが、分かっていると思いたい、という、人間の欲望と罪の性質からでしょう。
 
もちろんどちらにも、いろいろな信者がいるわけで、それを無視して、どうだこうだと決めつけることはできない。でもそれはそれとして、全体的な印象からすれば、やはり両者にはかなりのちがいがあると言わざるを得ない。
 
自分信仰、自分カルトを、地で行っているような楽山に、キリスト教との比較をする資格はありません。楽山の言は、このように、ほめたり、けなしたり、認めたり、否定したり、という、芯のない、ふらついた言論であり、それは、みな、そのときの、楽山の自己中の益のためなのです。
 
HSは宗教の中では自分らが一番であるというけれども、もっと謙虚になって他宗教を研究し、見習うべきところは見習った方がいいのではないかと思う。
蛇足ながら、今までにいろいろなキリスト教批判を読んだことがあるけれども、そのなかには一神教は排他的、攻撃的であるとする主張がよくあった。でも上のような自分の経験からすると、必ずしもそういうわけではないし、ことはそれほど単純ではないと思う次第である。
 
楽山の読書は、このように、毀誉褒貶(きよほうへん)がふらふらして、一貫性がなく、全く当てにならない、不安定で、恣意的な、その場、その時の、楽山の言い分となってきました。
 
うっかり、真に受けると、別の時には、別のことを言い出すでしょう。総て、楽山の自己愛のためだけなのです。決して、信用してはいけません。決して、議論や話し合いをしよう、などと思ってもいけません。そこが、楽山の罠なのです。
 
 
(反キリストの特徴)再録
 
罪悪感がない、羞恥心がない、恥ずかしい自分を想定できない。不都合に際しては、不快だけを生じて、反省しない。不都合は、総て、人のせいにする。
 
元々、情緒障害があり、深い共感を持ち得ない。したがって、他者を思いやることが出来ない。つまり、自己中心であり、語る言葉は自慢になり、返す言葉は自己正当化に向かう。
 
罪の意識など微塵も持っていないが、宗教に関心を示すのは、考えなくてもいいような、安易な道を求めるからであり、超常信仰や、霊能者気取りが多い。
 
反キリストは、壊れた人格で、他者の人格を壊してゆく。一定期間以上関わると、同種の性質が、こびりついてきて、不可逆になる場合もあるので、要注意。
 
つまり、偽善カルトは伝染病として蔓延する。習癖や風習となることもある。
 
丁寧語と曖昧表現を、しばしば使う。柔和に見せかけている。世辞を言うこともある。
 
根底には、他者への軽蔑や憎悪があって、大方、隠しているが、皮肉や当てつけに、表れてくる。
 
カルトに多い。豪語する妄想的な硬派カルトと違って、軟派カルトと呼んでいる。
 
自信に満ち溢れて、余裕があるように見えるのは、いつも、分かっているという上の立場から見下ろしているからだが、その根拠は皆無であり、むしろ、ベースは、偽りから始まっている。だから、ベースの上に積み上げるものも、偽りにしかならず、ゆえに、だますことにしかならない。
 
感情としては、快と不快の快楽原則、笑いと怒りしか持っておらず、しんみりした悲しみや悔いの情を持たない。
 
不快に対しては軽蔑と憎悪をいだきながら、相手をおとしめるための、策略や詭弁を用意してくる。誠意は皆無。勝つことと支配することだけを生き甲斐とする。宗教を、神相当になることだと曲解している。
 
知能が高くても低くても、理解は皮相な字面の辻褄合わせだけで、共感を伴う深い理解は見られない。理路は、しばしば短絡する。
 
犯罪に及ばない限り法で裁くことは出来ない現状に甘えて、批判を無視してくる。まだ裁かれていないことをもって、自己正当化を図ってくる。
 
違法行為がないからカルトではないという言い分を押してくるが、逮捕できる法制度がないだけである。つまり、犯罪がなくても、犯罪に結びつく不正であると判断した思想の類を、批判することは正当である。
 
気取り:宗教指導者、聖職者、学者、批評家・評論家、インテリ、いずれも、気取りだけで、中身がなく、嘘っぱちだが、かなり本気で、指導者・人格者の自意識だけがある。
 
分かってるふうの自慢、審判する立場にいるかのような口調の筆致と自慢、わざとらしい讃美による自慢、著名人の名前を出して同列に見せかける自慢、いずれも、詭弁であり、実(じつ)が表れていないことをもって否定される。
 
全く節操も分別もなく、その時、その場で、都合のよさそうなことを、受け狙いと、批判をかわすために言うことがあり、同情をひくための、謙虚芝居である。
 
しかし、この、いい加減で無節操な言葉は、別の時には、また別のことを言う、ということであり、自分の発言を過ちと認めて悔いる姿勢ではなく、ゆえに、それこそ、風を追うようなものであり、まさに、風を追うような反キリストの根無し草という特徴である。決して、真に受けてはいけない。
 
これら、反キリストの特徴については、これからも、何度も再録することになるでしょう。
 
 
人の前で騙すための嘘をついて
立派なことを言ったつもりになる偽善者や
神の前でも祈りにおいて
都合よくこしらえた嘘の讃美言葉を並べて
立派な祈りをしたつもりの背教者は
そういう祈りのたびに滅びをまとってゆくのです。
 
 
キリスト信仰は
人の善行でも正義でもなく
主イエス・キリストの御名によって祈るときの
神に対する精いっぱいの正直さのみによって義とされる信仰です。
 
 
(2020年07月29日)
 
 
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