楽山の泡沫
 
 信と疑のバランスを保つこと
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25739941.html
 
 
どんなに説明しても、受け取って考えることをせず、同じことを繰り返すのが、楽山です。ゆえに、その発言は、泡のようにリピートされるだけで、洞察も説得力もなく、根も葉もないものになるばかりです。どんどん気色悪さが増してくる楽山です。
 
真理に対する態度としては、全身全霊で信じるべきときもあれば、疑問を大切にして、探究し続けるべきときもある。そういう意味で、次の言葉は納得できる。
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。
 」
宗教に凝りすぎると、信じることを尊ぶあまりに、疑問を持つこと、考え続けること、調査、実験を繰り返すことなどを軽侮し、否定することさえある。実をいえば、過去には自分もそんな風になってしまったことがあった。でも今にして思うと、これは信に偏りすぎており、あきらかに中道から外れていた。反省。
 
宗教であれ、真実を追求するということは、全身全霊で、疑問を大切にして、探究し続けることであります。楽山は、またしても、宗教に対して、自らの偏見と先入観を刷り込もうとしています。
 
どう調査し、どう実験すると、楽山は言うのでしょうか。本来、宗教と信仰は、つまり、信じるということは、疑問を含めて考え続けることであります。何でもかんでも受け入れて文句を言うな、と言うような宗教?は、カルトと思ってよいのです。
 
また、宗教を支えるのは、キリスト教については、聖書に書いてあることについての、人間としての共感です。楽山の、思考停止が宗教じゃろ、というような、安っぽい悪口の固定したクレームに惑わされないでください。楽山は、どんどん、言うことが、真っ向から反宗教・反信仰の愚かさになっています。
 
楽山は、信仰の、"信" ということを、小学生レベルの字面の意味付けしか持っていないために、もはや、大人の言論になっていません。情ないほどの勉強不足と共感力の欠如によって、もはや、泡をブクブク吹いていることにさえ気づかなくなっています。
 
一見したところでは、信と疑は、正反対であり、二者択一を迫られているようでもあるが、実際はどちらか一方を選ばねばならぬというものではなく、どちらも大切であり、この二つを両輪としてこそ、人は真っ直ぐ進むことが可能になるのだ。
 
信じることは、疑いを考えることでもあります。疑いは必ず生じるものであります。疑いは、克服できることもありますが、全くなくなるというものではありません。楽山の言う宗教は、極めて幼稚で、楽山らしい無理解からの断定と偏見に基づいているので、真に受けないでください。
 
楽山は、分かっていない人の典型みたいなことを言っています。自分を疑うことのできない自己愛性人格障害だからです。それで、反省も学習も成長も出来なくなっているのです。
 
もしどちらか一方の輪を止め、もう一方の輪ばかり回すなら、同じところをぐるぐるまわるばかりで前には進めなくなるし、やがてはコントロールを失い、穴に落ち込んでしまうのがオチだ。信と疑は、どちらか一方を選べばそれでよいというのでなく、要はバランスが大事だ。
 
カルト畑で育った人は、こういう言い方をするのでしょう。しかしながら、こういう言い方こそ、カルトの手法なのです。
 
上に書いたように、人間が何も疑わない、というのは、正常な人間にはあり得ないことなので、むしろ堕落なのです。ですから、楽山の「どちらか一方の輪を止め、もう一方の輪ばかり回すなら」という前提も比喩も間違っています。相変わらず拙劣です。
 
こういうことを平気で言って、読者を引っ掛け、だまして、先入観を植え付けるのが、楽山の生業であります。読者が、自分以下の知性しかないと思って軽く見ているのでしょう。
 
ですから、少なくともキリスト教とキリスト信仰において、信と疑というのは、バランスをとるような性質ではありません。楽山の、宗教に対する汚らしい詭弁に惑わされないでください。
 
楽山は、幼稚な意見のまま大人になって泡を吹いているだけです。信と疑は反対語だからバランスじゃろ、と短絡しているのです。楽山の理路は短絡で出来ています。しかし、人間は、そんなに単純ではありません。
 
話は少し変わるが、自分は、古いものは良いものだとは必ずしも言えないと思うので、古くからの教えだからといって、それを絶対化しようとは思わない。かといって合理主義者でもないので、不合理なものはすべて改廃すべきだとも思わない。経験と理性についても、信と疑と同様に、どちらか一方だけで判断するのでなく、バランスが大事なのだと思う。
 
新興宗教がよいものだとも必ずしも言えないわけです。これも、偏向した楽山の詭弁です。また、人間は、信仰を絶対化することは出来ません。人間は不完全だからです。
 
楽山は、宗教についての自身の浅薄な知識を絶対化しているようです。自分を見ることだけは出来ない楽山です。経験を生かせず、理性を捨てているのが、楽山その人であります。
 
楽山は、根拠のない心霊主義者ですから、言うまでもなく、もちろん合理主義者ではありません。ゆえに、あらゆる理路と情緒において、幼稚であり、ずっと、おかしなことしか言わず、学習による成長が見られません。
 
大事なのは、バランスではなく、反省と学習です。それが出来ないのが、楽山やシャロームのようなカルトなのです。いつまでも、同じ先入観で文句を言って、満悦する者たちです。
 
楽山は、良識を装っているだけなのです。楽山は、真ん中に立っているつもりで、バランス、バランスと、正論を言っているんだというアピールがしたいようですが、楽山が立っているのは、他者も自分も見えなくなっている自己愛と自己中の、自分で拵(こしら)えた狭い檻の中に過ぎません。
 
 
(2020年08月04日)
 
 
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