楽山の弁解
 
 自己中心的な人(HS教祖と信者の抱える問題)
 2020年08月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26013897.html
 抜粋です。
 
 
また、楽山は、発作のように長いだけの記事を書いています。今回、楽山は、HS批判をしているつもりのようですから、抜粋して批判します。
 
楽山がHSを批判しているというより、自分はHSではないという弁解と、結論ばかりの悪口にしかなっていないようです。楽山を、まともな批判者だと思うのは、非常に危険です。
 
楽山は、まともで分かっているふうを出していますが、この1年半に及ぶ楽山の記事と批判によって、楽山が、HSも、アドラー教(アドラー心理学)も、抜けきってはおらず、その影響下にあることが明らかになっています。HSは超常、アドラー教は自己中、という共通点があるからでしょう。
 
いつもと違って、唾が飛んできそうなHS批判ですが、その批判の大方は、楽山に返ってゆくのであり、楽山が、前の記事に書いていた、いわゆる、ブーメランだと思います。
 
教祖の目には、世の中には、自分は得するために生まれて来たと考えている人が多く、手っ取り早く結果を欲しがる人ばかりに見えているらしい。
 
そういう人が少なくないということは言えるでしょう。楽山もそうでしょう。そういうところは誰にでもあるのに、わざわざ否定してくるところが怪しいと感じます。
 
楽山は、今回、あとの方でも、ずいぶん世の中の人を、褒めています。こういう、節操もなく、ほめたり、けなしたり、どっちつかずの話を、他者を無視して書いてくるところは、豪語する教祖よりも、楽山のほうが、狡猾で陰険なのです。
 
楽山の言論に、一貫性のないところなのです。そういう、いい加減な書き方で、結局、自己正当化をしているだけになる堂々巡りのブーメランです。
 
また、「自分をほめ上げ、他の人を批判する人」のことを、まるで他人事のように語っていることからすると、自分がそれに該当するとは、少しも思っていないらしい。
 
典型的なブーメランでしょう。いつも、言葉だけ丁寧で、婉曲表現や、刷り込みの詭弁で、「自分をほめ上げ、他の人を批判する」のは、楽山その人です。そして、今回、まさにそうです。楽山は、自身が書いてきたことによって、返されているのです。
 
こちらでは、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊などの偉人は、世の中で理解されないかのように言っている。釈尊の生き方について、「余人の想像を絶するもの」であり、「普通は、この世的に見て、より有利なことを選ぶもの」だとのことである。
 
想像を絶するもの、というのは、結局、超常的な人という意味でしょうが、少なくとも、イエス・キリストが伝えていることは、人間であれば受け取って共感できるものです。ここには、心よりも、超常の奇跡を信仰の中心だと考えている先入観があるようです。
 
霊や超常への入れ込みと、日常の心を疎かにするような、偏見と先入観の典型は、教祖はともかく、楽山に著しいということを明らかにしてきたつもりです。
 
キリスト教へのいちゃもん、やさしさ芝居、否定しないと言いながら嫌味を並べてくるボンヤリ言語、嘘と詭弁など、これらの履歴が残っているのに、楽山に何の弁解が成り立つというのでしょう。
 
*法話の背景
これらのことを念頭におきつつ、法話を読むと、その背後には次のような思いがあるらしいことがわかる。「世の中には、自己中心的な人が多い。だから、イエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さは分からないし、釈尊の生まれ変わりである私が、世のため人のために尽くしているのも理解されないのだ」「私は自分褒めはしないし、他人の悪口も言わない。人を利用するために、『あなたの過去世はすばらしい。あなたは高い霊格を持っている』等とおべんちゃらは言わない。私は自画自賛はせず、他人を妬まず、恨まず、損得勘定はせず人のために尽くし、嘘はつけない性分だ」
 
教祖のことを言っています。
 
信者はどうかといえば、この法話を読んで、次のような思いを抱く人は少なくなさそうだ。「世の中には、自己中心的な人が多い。でも自分はちがう。だからイエス、ソクラテス、吉田松陰の偉さが分かる。釈尊の生まれ変わりである大川隆法総裁先生の偉さも分かる」「私も総裁先生と同じく、自分褒めはしないし、他人を誹謗中傷することもしない。嘘も言わない」「仏陀であり、地球神エルカンターレでもある総裁先生の弟子となり、その教えを聞くことができて幸福だ。自己中心的な人は、自己中心であるが故に、この幸福は少しも分からないのだろうが、自分はよく分かる」
おそらく、信者が、批判者に対して自己中心だと責めるのは、こういう考え方に理由があるのだろう。
 
信者のことを言っています。
 
余人からしたら、教祖と信者が上のような考えを持っているというのは、にわかには信じ難いかもしれない。
けれども改めて、HSの信仰と、HSをとりまく客観的な情勢とを確認すれば、このことは容易に理解できるはずだ。
HSの信仰…教祖は仏陀の生まれ変わりであり、人々を救おうとしている。
客観的情勢…教祖は仏陀であり、人々を救おうとしていると信じる人は少ない。
この二つは、誰が見ても矛盾しているだろうが、通常なら現実に合わせて考え方を変えれば済む話だ。
「教祖は神であり、仏陀の生まれ変わりで、世を救うために活動していると信じていたけけれども、30年以上も活動しているのに、それに応じた結果はでていない。選挙では落選したし、信者も、支持者も増えておらず、むしろ減っている。この現実からすると、自分の判断は間違っていたとは思いたくないが、考え直すべき点もあるようだ」と。
 
現実を、いちばん見ていないのは、楽山だということが、今までに明らかになっています。つまり、楽山は、いかなる人をも、批判する資格を持ちません。それでも、自分は、まともだと言いたくて、なりふり構わず、今までのことを無視して、書き続けるのが、楽山という男です。
 
どういう批判精神が、楽山に成り立つというのでしょう。楽山自身は、批判に対して、何も答えず、無視してきたというのに。
 
楽山は、現実を見ることもなく、たくさんの、常識はずれの記事や、心霊の記事を書いてきたわけです。「現実に合わせて考え方を変え」ることを、いっさい、してこなかったのが楽山なのです。
 
しかし硬直化した信仰を持っている場合は、このように現実によって信仰を変えるのは退転、棄教ということになるので、それは決してできないのだ。したがって、信仰も、現実も変えられないとすれば、信仰に合致する現実認識をこしらえるしかなくなり、「世の中には自己中心的な人が多く、そのため教祖が仏陀であり、救世のために活動していることが分からないのだ」と思わざるを得なくなるという寸法だ。
ようは、自分にとって不都合な現実をそのまま受け入れることはできず、「正しい自分たちを受け入れ、尊敬しない世の中は間違っている」と言い張るしかなくなるということ。
 
楽山の、妄想と詭弁の作り方でしょうか。
 
楽山こそ、書いた記事の大部分において、正しい自分を受け容れないのは、間違っているとボンヤリ言語で言ってきたわけです。ベースは似たり寄ったりであるのに、正義の味方を気取って、今回のように口酸っぱく、HS批判をして、体面を取り繕おうとしても無駄なのです。
 
*自己中心はどっち?
余談ながら、信者の中には退会者に対して、次のように言う人がいる。「自己中心だから、退会することになるのだ。自己に都合がよい時だけの信仰だから、自己都合に合わなくなった途端に、退会し、教団の悪口ばかり言うのだ。総裁先生の言葉の真意を解せず、自己都合解釈ばかりしているから、そうなるのだ」
 
楽山の、自己愛性の人格障害ゆえに、自己中、無反省、訂正不能、という特徴を明らかにしてきたつもりです。総てを無視して、平気で、他者を批判して、いい気持になれるのは、とても病的です。つまり、HSも、アドラー教も、超えても抜けてもいない楽山の、悪あがきです。
 
でも実際のところは、上で触れたように、退会者(退転、棄教者)の大半は、信仰と現実の矛盾を直視したうえで、現実を素直に受け入れ、信仰の間違いを認めることができたから退会できたのであり、いまだに信者を続けている人は、信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げているから、信者を続けているのだ。この点からすれば、どちらが自己中心的であるかは明らかである。
 
「信仰と現実の矛盾に眼を背け、現実を自己都合解釈によって曲げている」のは楽山であり、自分の都合の良いように、受け入れたり、否定したり、ふらふらと話を変え、今回のように強い口調だったり、暗示の刷り込みであったり、やさしさの三文芝居だったりしているような、まとまらない経過になっています。
 
楽山は、自己愛と自己中の世界から、いつも評論家気取りで物を言い、現実を認識できていません。教祖や信者のことを言う前に、自らの過去と現在を見るべきですが、それだけはしないのです。
 
ちなみに、信者は概してアンチより短気で怒りっぽいのも、このことが関係していると思われる。信者は、自分の信仰に都合の悪い現実は見たくない、不都合な現実は自分の信仰に都合のいいように改変してからでなければ受け入れたくないと思っているから、それを許さないアンチに腹を立てるのだ。
 
信者は怒りっぽい、という基準は、楽山自身は怒らないということを根拠としているようだが、怒らない楽山がいくら批判とアドバイスをしても、その実態は、ボンヤリ言語、トホホ言語で、詭弁で、他者の言葉を字面だけ借りて、刷り込んでゆくような陰険で狡猾な誘導にしかならないので、怒るより始末が悪く、いわば、しつこく、しつこく、墓穴を掘っているようなものになるでしょう。
 
*まとめ
最後に、今回の法話と、これまでのHSの主張をまとめると、およそ次のようになる。
世の中には自己中心的な人が多く、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊の偉さを理解できない。ましてや総裁のことは理解できない。
総裁は仏陀であり、神である。総裁を悪く言うのは神仏に対する冒涜である。
霊言は本物だ。これを信じないのは霊の存在を信じない唯物論者である。
 
HSの主張だそうですが、楽山について言えば、自己中、無理解、決めつけてネチネチと嫌がらせを言う、そして、霊言にこだわっている・・これは、誰よりも、さらに上から物を言っている姿であり、反省、内省、自省、というものをしてこなかった者の特徴です。自分から他者に向ける方向しか持たない単方向の特徴でもあります。
 
一方、自分はこういう現実認識をしている。
世の中の人々は、大概は、協調性をもって生きている。自己中心的な人ばかりではない。
一般的には、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊は、偉人聖人だとされている。これにケチをつけるのは、天邪鬼、中二病の人くらいだろう。
 
今になって、不自然に、世の人々を褒めても、また、イエス、ソクラテス、吉田松陰、釈尊、という、とんでもなくビッグな名前をあげても、前から指摘してきたところの、他者を借りての自己正当化にしかならないのです。それに、楽山は、キリスト教に、ケチをつけたことを、また都合よく忘れたのでしょうか。
 
(ネットより)
中二病(ちゅうにびょう)とは、「(日本の教育制度における)中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語 。転じて、思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85
 
楽山は、中二病から抜けきっていないのかもしれません。だから、書けば書くほどぼろが出る。書けば書くほど、批判言葉が、ブーメランで返ってくるのです。ひどい話です。
 
HSに、よくないイメージを持っている人は多い。
『自分は仏陀で、救世主で、至高神で、地球神で、国師で、ワールドティーチャーである』と自称する教祖や、『自分は正義であり、神の側に立っている』と誇る信者が、他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限りだ。
 
唾を飛ばしているような強い書きぶりだが、そのまま、楽山が「他人のことを自己中心的だと批判するというのは、まったくバカバカしい限り」です。飛ばした唾の分だけ、臭くなってゆく楽山です。
 
HS側からしたら、こういう見方こそ、バカバカしく、笑止千万なものに見えるかもしれない。
でも、上から目線で言うようで恐縮だけども、HS信者は自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことができるようになるためにも、この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがかと思う。余計なお世話だろうけれども、老婆心ながらそのことをおすすめしたい。
 
ここに至って、「この辺りについてはもうちょっと考えてみてはいかがか」とか、「老婆心ながらそのことをおすすめしたい」などと敬語になり、物騒なことは言いませんよ・・みたいなトーンになっているのは、乱暴ではない自分を、ここで丁寧語で書けば伝わる、と思っている楽山の浅はかさです。また、真剣味のない証拠でもあるしょう。
 
いくら、立場を変え、対象を変えても、書くこと自体の不細工は表れます。楽山は、理性も情緒も不安定なので、一貫性のない文章になってしまうのでしょう。
 
今までを踏まえれば、批判と指摘と忠告・助言をする資格は、楽山にはありません。楽山は「自と他を客観的に正しく見、正しい判断をくだすことが」できない人です。特に自分の非を、一切、見ないし、認めない、というのは、かなり最低の部類です。
 
でも自分の経験では、頭のいい人は性格もいいことが多かったように思う。よくできる人のことを妬んで、悪く言う人もいなかった…過去に出会った人の中で、そういう人がいたという記憶はない。
注意されたときに、屁理屈を言うというのも、あまり聞かないかな。この辺りの自分の認識は、総裁のそれとは全然ちがう。
 
「頭のいい人は性格もいいことが」多いとは限りません。頭の良さと、優れた人格や良心とは、必ずしも比例しない、というのは、常識でしょう。楽山は、何を、ご機嫌取りのような、一面的な誉め方をしているのでしょう。
 
楽山の言は、大方、屁理屈の部類でした。論理的を装っても理路は散乱して、しかも、主張そのものが、場当たり的に、右往左往して、とても人前に出せるものではないと思います。ここに、楽山の、わざとらしい反省言葉であるトホホ言語に堕ちてしまうところの、大きな欠陥があります。自覚というものがないのです。
 
ちなみに自分は、小さい頃から納得できないことには反論しないではいられない性質で、学校の先生に怒られたときも、納得できないことがあれば言い返したりしてた。でもどういうわけか、いつも通信簿には素直だと書かれていたのだった。これは担任が変わっても同じだった。たぶん自分はおかしいと思うことには、おかしいと言い返したけれども、筋が通っていると思えばそれは率直に認めたので、担任はここを見ていたのだろうと想像する。
そういえば今でも、楽山は屁理屈屋だという人がいる一方で、楽山の意見には一理あるとする人もいるけど、自分の担任は後者のタイプだったのだろう。
 
反論しないではいられない、言い返したり、素直、おかしいと言い返し、筋が取っていると思えば率直に認めた、・・このような楽山は、批判してきた一年半、一度も表れたことがありません。
 
どこまで幼稚なのでしょう。いつの話でしょう。担任に褒められたことを、自慢の根拠にするとは。
 
*水と油
今回、大川隆法の法話を読んで、改めて思ったのだが、やっぱり自分は大川隆法とはまるきり考え方が合わない。というか、思想がどうこういう以前に、現実認識からして全然ちがっている。
たとえば大川隆法は、世の中の人々の評価は異様に低く、救済対象としてみているようだけども、自分は世の中の人々はみんなまともであって、自分より立派な人はたくさんいると思っている。ニュースやネットを見ていると、おかしな人もいるようだけども、リアルではそこまでおかしい人とは滅多に会わないし、やっぱりみんな普通だろうと思うのだ。
 
それでも、超常と霊言にこだわるカルトから抜けきっていないことが、今までの記事に表れてきたのです。今さら、何を弁解出来たつもりになるのでしょう。異常です。
 
そして、世の中の人々はまとも、立派な人はたくさんいる、おかしい人とは滅多に合わない、・・何を、不定の人々を、ベタ褒めしまくっているのでしょう。また、ご機嫌取りの世辞使いになっています。もしそうなら、深く考えたりすることは必要ないはずです。ここで問題意識を放棄しているのは、誰よりも楽山自身が、自分はおかしいという自覚を持ち得ないからでしょう。
 
前に、大川隆法の本を読んで少しも共感できなかったときには、氏に対する悪感情があるゆえに、自分は公平に評価できないのかもしれぬと考えたりもしたものだったが、どうもそれ以前に現実認識も、思想も、考え方も水と油くらいに違ってしまっているがため、そのような判断になってしまっているようだ。
 
楽山は、ひょっとして、教祖は自分でなければと野望を思い始めたのでしょうか。しかし、HSの超常についての考えは、楽山の霊が分かるっぽい自慢話と、水と油とは、到底、思えません。さらに、自己中製造のアドラー教は、今も引きずっていて、自己愛からの自己中は、何を書いても、楽山の訂正不能の体質として表れてくるものです。
 
世の中には、大川隆法の話を素晴らしいと感じる人はいるだろうし、そういう人はその方向で自己研鑽に励めばいいのだろうけれども、自分はやっぱり別の方向に進むのが合っているし、HS退会したのは正解だったようだ。
 
また、信じる人は励めばいい、などと、今まで言ってきたことから乖離して、求められてもいないアドバイスを、心にもなく、書いています。
 
楽山が、自分は別の方向、と言っても、超常と自己中の思想に、ずっと変わりはなかったのです。楽山の浅ましいカルトの欲望は、丁寧語にだまされて、うっかり受け入れて、誘導された人にとっては、人格破壊の必然が待っています。そういう悪事と偽善を、体質的に生業(なりわい)としているのが、楽山です。どうか、近づかないでください。
 
 
(2020年08月27日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html