楽山のブーメラン
 
 信者ブログを見てみた(読書、HSの自由論など)
 2020年08月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26044279.html
 抜粋です。
 
 
楽山は、自身の言った言葉によって、自身に返されてゆきます。それをブーメランというのだそうです。また、長い文章なので、抜粋して批判します。私がよく知らないHSのことが多いようですから、引用のリンクを省略しているところもあります。
 
楽山は、HSの信者に批判されて、返しているつもりです。しかし、それは、また、ブーメランのように楽山批判となって返されてゆきます。そして、楽山は、そのブーメランを自覚せずに無視しているのですから呆れます。
 
*投影
まずここでは相手の本音、願望を悪く想像した上で、批判を加えてあるが、これはいただけない。
自由という言葉の奥に隠された本音は、自分の好きなようにさせろ、気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手にすぎず、それを自由という美名に置き換えているだけ、という人。
気ままで楽ちんな生活を望んでいるだけなのに、それでいて自由という美名を使いたがる。
 」
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる[2]。これには責任転嫁(Blame shifting)が含まれ、たとえば習慣的に失礼なふるまいをしている人は、いつも他者を失礼な人だと言って回っているケースがある。一般的には悪い面を強調することが多いが、良い投影も存在する。
投影は日常生活においてよく起こっている。例えば、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたなどである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1
 
「相手の本音、願望を悪く想像した」・・この投影は、異常だという自覚のない楽山が、いつも、何度も、やってきたことです。今回も。相手を悪者にするためです。楽山自らの不整合や矛盾や能力不足を投影しているのか、あるいは、総て作為で、相手を投影していると決めつけているかでしょう。
 
このような心理学用語を出せば出すほど、楽山は自分の説得力が増すと思うかもしれないが、その心理学を全く理解していない楽山が明らかになるだけなのです。何度も引用しましたが、楽山の「心の理論」において、特に明らかになっています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
私が約10年批判してきた偽牧師シャロームも、投影ですね、という言い方を気安くしてきました。恐らく、何も分かっておらず、悪口来たら言っておく・・くらいのものでしょう。
 
「気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手、それを自由という美名に置き換えているだけ」・・楽山の、以前のHNは、"自由" でした。楽山の自由こそは、ワガママ勝手であり、自慢して気持ちよくなる楽山の習癖だったのです。
 
まさに、楽山のことです。"自由という美名" と言ってよいような丁寧語が、楽山の、だましのテクニックなのです。約一年半、慎重に、楽山の書いた文章を見ることで明らかになっています。
 
今回も、楽山は、理路も感性も拙劣でありながら、批判する資格のないまま、誰かを批判して、かえって自身の根性の劣悪さをあらわにしています。まさに、楽山がしてきたことを批判されています。
 
お節介かもしれないが、相手の本音を悪く想像して、こき下ろすというのは、自己紹介にしかならないし、止めた方がいいと思う。
 
悪口を自己紹介というのは、ブーメランということでしょうか。しかし、「相手の本音を悪く想像して、」ボンヤリ言語の丁寧さで、ごまかしながら「こき下ろす」・・これは、実に、楽山に、よく当てはまります。しかし、楽山はブーメランを自覚していないようです。
 
HSでは、守護霊霊言と称して、論敵は心の中で悪いことを考えていることにして貶めているけれども、いくら信者でもこういう手法は真似しない方がいい。
 
楽山がやっていることを、弁明もなく、論敵という相手に向けています。今までの私の批判記事から、理論家・評論家気取りの楽山は、霊が分かるっぽい霊能者気取りがベースにあるのです。楽山は、決して理論家ではありません。決めつけて刷り込む詭弁家です。
 
*意外な発言
LEO氏は本好きだと思ってたので、この発言は意外に思えた。
本をたくさん読む、とか、読書の習慣がある、ということであっても、それのみで勤勉である証拠とはならないんですよね。
 」
本を読まない人であれば、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人のことを、「自慢してるんだろう」「勤勉アピールしてるんだろう」と悪く言うこともあるかもしれない。
でも本好きの人にとっては、読書習慣があり、いろいろな本を読んでいるのは当たり前のことであるし、それを勤勉アピール、勤勉ポーズととることはないのではなかろうか。
 
またしても白々しい楽山です。たくさん、本と、著者の名前を出して、読書家ぶっていたのは、楽山です。「勤勉アピール、勤勉ポーズ」は、楽山の生業です。
 
しかし、楽山の読書は、自分の都合の良い字面を漁って、引用するだけであり、楽山自身の書く文章は、理路が成り立っていなかったし、説得力もまるでない、ということだけが、明らかになってきました。
 
文脈を読めない、理路を読めない、理路を組み立てられない、という、「楽山は、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人」ではありません。楽山は、読書したかのように、引用と誘導で、人を欺く人、すなわち、読書家の敵であります。
 
少なくとも自分はそうは思わない。本好きの人とか、読書ブログに対して、「どんな本を読んでるの? へえ、そんな本を読んでるんだ。おもしろそうだな。自分も読んでみよう」とは思っても、「読書の習慣があり、本をたくさん読んでいるようだが、それだけで勤勉とは限らないゾ」なんて考えることはない。
 
楽山の読書は、読書と呼べるものではないと思います。いつもながら、楽山の例示する会話の台詞は、楽山が書いてきた独り芝居と同じように、平板で、月並みで、わざとらしい。このような台詞は、小学生がするものでしょう。
 
*知的生活
もう一つ、自分にはこの発言も意外に思えた。
他の人にも役に立つ、生産性のあるアウトプットまで行かない場合の読書は、単なる暇つぶしや趣味と言われても仕方がないもので、自分だけの独りよがりの好みでしかないことも多いわけで、
 」
そうした読書が真に役に立っている、というためには、アウトプットしてみて、他の人にとってもそれが役に立つ考え方であるか、知識であるか、モノの見方であるかを問う必要があるのだと思います。
 」
タイトルは失念したが、渡部昇一のエッセーで、とある人は論文などは書かず、知的生産はしていないが、その蔵書はゆっくりとではあるが着実に良書が増えており、読書を楽しんでいることがわかる、これも立派な知的生活だという話を読んだ記憶がある。
自分はこの考え方を支持するので、「生産性のあるアウトプット」がないとしても、論文なり、文学なりを読んで感動したなら、それだけでも充分に価値があるのであって、これに対して、「単なる暇つぶし」「独りよがりの好みでしかない」などとは思わない。
 
読書して "知的生活"しているからと言って、その人が、知的だとは限らないという例が、楽山です。だます目的で、読書したふりをして、殆ど説明できないのに、良かった、分かった、驚いた、などと、自分は分かるんですアピールをしてきたのが楽山です。これは自慢のための嘘です。
 
褒め言葉だけがわざとらしく並んでいて、読解の結果が感想に表れていないことをもって、楽山の欺瞞が明らかになってきました。そのような文章は、感想文としての意味がないと言われるわけです。さらに、だまそうと、刷り込んでくるならば、真実を追求する言論の敵ということになります。
 
楽山は、学習することなく、自己愛の自己中に好都合な言葉を漁って引用するだけですから、本と著者を侮辱していることになるでしょう。どこまでも、言い返してくるのは、人格障害だからです。
 
人間らしい真っ当な反応とは真逆の方向にしか返してこないような、自己愛と慢心で動いている楽山は、とても見苦しくて、人間であることさえ疑いたくなります。
 
ついでに書くと、名画、名曲、名演奏によって感動したということはそれ自体が素晴らしいことであって、画が描けなくても、曲を作れなくても、演奏ができなくても、他のことにつながらなかったとしても、その素晴らしさは変わらないとも思う。
 
その素晴らしさと感動を表すのが感想ですが、それが全く見られず、いつも、陳腐な褒め言葉を並べるだけなのが、楽山です。
 
さらに、驚くべき詭弁ですが、「素晴らしさは変わらないとも思う」・・ひどいものです。素晴らしくないのは楽山であって、感想の対象となる作品ではないのです。
 
また、感動するだけでも素晴らしいというのは、少しも楽山を弁護しません。感動したと書くだけでは、その中身は伝わらないのですから、伝わらないものを、ネチネチと執拗に書き続けて、正当化ばかりしてくる楽山の神経は、自己顕示欲の作為か、でなければ精神か性格の異常なのです。
 
楽山の自己正当化の詭弁は、ことごとく、今まで成り立たなかったし、今も成り立たっていないし、今後も成り立たないでしょう。
 
*指標
LEO氏は、ブログについて次のように考えているという。
独りよがりでは意味が無い。閑散ブログでは存在する意義がない。
 」
読まれる内容を書けないのなら、まだまだ他の人に感化を与えられる内容を持っていないのであって、そのレベルであってみれば、まだまだ自己研鑽が足りていないということを、自覚しないといけないのでしょうね。
他者が読んでも、そこに参考になるような何かが発信できているかどうか。
これが、自分がブログ記事を書く際に注意している、ポイントの一つですね。
自戒の意味を込めて。 
 」
これはこれで個人的信条としてはよいのだろうとは思う。ただブログの目的は人それぞれであるから、自分の考えをブログで発表し、多くの人に読んでもらい、影響を与えることを目指す人もいれば、アクセス数は気にせず、自分と向き合うためにブログを書くという人もいるだろう。
 
いえ、個人的信条ではなく、中身のない文章を公表されることは、さらに、そこに、恣意的な意図のある場合には、言論において、はなはだ迷惑だということです。
 
つまり、気取りだけの主張ですから、正常な言論に対する妨害行為に匹敵します。前から言ってきたように、悪質な疲労物質である楽山の記事は、公表せず、誰にも見せず、楽山が独りで読んで、したければ独りで自画自賛し、独りで疲労していてくださいということです。
 
このような多様な価値観を認める立場からすれば、自分のブログ観とは異なるブログに対して、「意味が無い」「存在する意義がない」というのは、いささか行きすぎであり、乱暴である。大川隆法は著書の売れ行きや、社会的影響力の大きさを自慢げに話す人なので、信者がそんな風な考え方になるのも仕方ないことではあるが、これが唯一の判断基準であって、それ以外の判断基準は認めないとしたら、おかしなことだ。
 
楽山は、"多様な価値観"、という言葉で、また、自己正当化してきます。以前、シャロームが、"人それぞれ"、という言葉を多用していたのと同じようなものであり、曖昧で、意味の広い言葉の中に、批判の中心を紛れさせようというボンヤリ言語の詭弁です。
 
自らの与えている害に全く気づかず、無視して、言い逃ればかりを書いてくる、自己愛性人格障害であり、言論のサディスト、またサイコパス、という体質を、自ら証明してゆく方向に進んでゆく楽山なのでしょう。
 
*全体の感想
LEO氏の考え方は、自己の向上が大切であって、自分がどれだけ向上できたかどうかは、ブログの影響力によって確認でき、これに益しない読書も、書くことも意味がないというものであるようだが、自分は、読書そのもの、書くことそのものに価値を見出したく思うタイプなので、申し訳ないけれどもLEO氏は、読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさをご存じないように思えた。
 
この楽山の言い分は、その上の批判によって全否定されます。多様だから、人それぞれだから、何でも書いて公表していいということはないのです。迷惑は、迷惑と指摘され続けます。
 
言論の責任を負わない者には、しかも多様性という詭弁で言い逃れできると思うような者には、言論の自由はないのです。
 
反省もなく公表され、詭弁で言い逃れても、迷惑は、迷惑と指摘され続けますし、その結果は、楽山の自業自得となるわけです。そのとき、詭弁で何が進むのか、楽山は体現することになるでしょう。
 
「読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさ」を知っているとは、到底、思えないような、読んでも何も得られないような、空疎で、関われば、疲労だけを被(こうむ)るような記事を、何の自覚も病識もなく、自己愛によって偏向し歪曲した恣意によって書いてきたのが、楽山です。
 
もし読書および書くことそのものを目的とすることはできず、それらを自己実現の手段としてしか見れないとしたら、自分とはまったくちがった感性、価値観であるし、話が合わないのも致し方ないなと思う。
 
今度は、批判に対して「自己実現の手段としてしか見れない」という言葉を当ててきました。言葉をすり替えて本質を逸(そ)らせる詭弁です。楽山の厚顔無恥の攻撃性が出ています。
 
自己実現するかどうかなど分かりません。必要なのは、良識と良心であり、最低限の責任感です。楽山には、それが無いと言っているのです。楽山には、人間としての最低限の反省力と罪悪感がないと判断しています。
 
また、楽山には、しんみり悔いたり悲しんだりできるような共感力もないと思います。だから、いつも、本筋と外れたところで、ズレた感情と意志が働くだけなのです。
 
*経緯
最後に、これまでの経緯をご存じない方もおられるかと思うので、その点について書いておきたい。
まずこの信者氏と、楽山とのかかわりは、言論の自由についての意見が対立したことが始まりだった。
・★ 言論の自由について 2
 」
その次は、ブログ村の幸福の科学カテゴリーにおいて、信者と信者が対立した際に、自分はこの信者氏には批判的な立場をとって不興を買ったのだった。
・★「幸福の科学村」騒動のまとめ
 」
傍から見たら、こういうことはどーでもいいことだろうけれども、こういう経緯を知ってもらえれば、信者氏がかなり感情的で、極論的な発言をしている理由についての理解が容易になると思うので、一応、参考までに書いておくことにする。
 
楽山が、極めて作為的で、詭弁家で、自己愛者で、欠陥だらけの字面言葉で、刷り込みによって、間違った印象を刷り込んでくる策略家であることも、理解が容易になってゆくと思います。
 
私は、楽山の、キリスト教への曲解と決めつけによる誹謗中傷をきっかけに、楽山批判をしてきました。私は、出来ることをしてゆくだけです。
 
この先、楽山が、ネットを含めた犯罪行為に及ぶ場合には、私のできることはなくなるでしょう。
 
どうか、楽山に、だまされないように、決して近づかないようにしてください。
 
 
(2020年08月29日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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