楽山の霊言悪用(1)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳
 2020年08月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26057394.html
 
 
楽山は、長く書くことで、潰しが効くとでも思っているのでしょうか。2回に分けます。
 
*全体の感想
本書を読むと、妄信、軽信を戒める言葉が多いことが印象的である。以下に、その点について書いてみたい。
*常識、知性、理性という基準
まず、シルバー・バーチは次のように述べている。
いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.126)
 」
私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。
(同上、p.126)
 」
常識から外れたもの、筋の通らないもの、デタラメなものは信じてはいけないというのは当たり前であるが、奇跡を求め、有り難がることにも釘を刺していることは印象的だ。
新興宗教には、奇跡を宣伝し、それを信じ、有り難がることをすすめるところが目立つが、この部分を読む限りにおいては、シルバー・バーチはそれとは違う考えを持っているらしい。
 
どういう基準で、盲目的、デタラメ、と判断するのでしょう。奇跡を否定するのでしょうか。楽山のように、全く自分を見ようとしない者に、どれほど意味のある発言なのでしょう。
 
信仰は、神に向かって、人が、自分は分かりません、守っていません、正しくありませんと、能力の乏しさ、そして不完全な自分を、すなわち罪深さを、告白するところから始まります。
 
楽山は、そこが全く分かっていないのです。だから、楽山は、慢心し、意地を張り、ゆえに、何かを主張すれば、そのままカルトの発言にしかなりません。
 
理性というものを、誰でも等しく正しく持っているものという見方をしているようだが、楽山のように、理性も欠片もなく、他者の霊言までも利用して自己正当化を図る異常者もいるわけです。理性がどうのと言うこと自体が無意味なのです。
 
前から言ってることですが、楽山にカルトを批判する資格はありません。
 
楽山自身が、霊が分かるっぽい自覚であり、ゆえに、霊言をもって、カルトを批判しているのだから、言ってみれば、詐欺師が、詐欺師にだまされないようにしてください、そのためには、私の言うことを聞いてください、と宣伝しているようなものです。
 
どこまでも、自分を褒めずにはいられない楽山が、他者の霊言なるものを賞賛するのは、だます意図があるからなのです。霊について語る者の中に、カルトがいます。霊について語る者を賞賛する者の中に、楽山のような狂信媒介のカルト思想の者がいるのです。
 
見かけだけ、カルトはいけないと、常識だ、理性だ、と言っている楽山こそは、最も警戒するべき煽動者であり、今までの経過から、決して関わってはいけない者であると思います。そう判断せざるを得ないような、腐った言い逃れを、楽山は、毎回、載せてきています。実に怖い男です。
 
*理性的判断
ここでは理性的判断の重要性を強調している。
交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。
(同上、p.135)
 」
理性は神からの贈物であるから、これを一つの判断基準として大切にしなさいというのは分かるが、理性に反発を感じたら、拒絶するのが義務だというのはすごい。
原書ではどうなっているかわからないが、この翻訳からすると、「理性に反すると感じたら拒絶してもよい」という緩いものではなく、「理性に反すると感じたら拒絶しなければならない」というニュアンスであるし、これほど強く言うということは、よほど大切なことなのだろう。
 
また、理性的判断を持ち出していますが、だったら、自分の理性を信仰したらよいでしょう、という話になります。これは、明らかな矛盾なのです。
 
人間の理性は、不完全で、しばしば間違いを犯します。そして、傷ついたり、傷つけたりします。そうして、罪の性質というものが明らかになるわけです。そこから信仰は出発するべきであります。
 
しかし、楽山は、大切なことなのだろう、という無批判によって肯定しているのです。なぜでしょう。理性的に書いているつもりだけの楽山にとって都合がよいからです。ここに至って言えることは、楽山の理性は、決して信用してはいけないということです。よくよく注意するべきです。
 
楽山は、理性の人ではありません。楽山は、我欲の人です。
 
また通信霊がどういう存在であろうとも、それがたとえ高級霊だったとしても、理性的判断を優先すべきとしている点も大事だ。「神がいうことだから信じる」「仏陀の言葉だから信じる」という権威主義的な発想はカケラもない。
 
代わりに、自分の理性を、最高権威とすれば、自分信仰になります。自分信仰の極悪から解放されるために、神への信仰は存在しているといってもよいでしょう。
 
楽山は、自身の理性を信仰している自分信仰者であり、常に、自分を最高位において、正当化してきたし、また、霊が分かるっぽい自分を、褒めるために、他者に信じさせるために、思想も、宗教も、カルトも、心霊も、利用することを躊躇(ためら)わない詐欺師だということが明らかです。
 
目に見えない霊という特別な存在を尊重するとしても、恣意的に霊を悪用する楽山は、明らかな敵だと思います。詐欺師の楽山は、霊言者までも、利己のために悪用する男です。楽山は、結局、いつかどこかで、袋叩きにされるのではないかとさえ思います。
 
*理性の光
ここでも、「理性の光に従うように努めなさい」ではなく、「理性の光に従わねばならない」という強い表現になっている。
「私が ぜひとも指摘しておきたいことは、霊的知識の恩恵を受けた者はあくまでも理性の光に従わねばならないということです。他界した霊がこうして再び戻って来るそもそもの目的は、父なる神が子等に授けた全才能を発揮するように地上人類を促すことです。知識の探求、叡知と真理の追及において理性を無視したり、道義の鏡を曇らせたり、良識を踏みにじるようなことがあってはなりません。
(同上、pp.56-57)
 」
また真理の探究において、理性に従うことのみならず、道義や良識にも反してはならないとしている。これはつまり、霊的な事柄を探求するからといって、一般社会からみて奇人変人、トンデモであってはならないということなのだろう。これはもっともなことである。
 
"理性の光" と言っています。霊によって、どうしろというのではなく、理性が最高位にあるのでしょうか。そして、理性に加えて、道義、良心、などをあげています。つまり、何も言わないのといっしょなのです。よく考え、良き心で、良き分別を持って生きなさい、という人道と、どう違うのでしょう。
 
楽山は、この、当たり前のような美辞麗句が大好きです。自分が、当たり前のことしか言えないからでもありますが、何よりも、いかようにも悪用できるからです。この霊言者は、好きなように、楽山に悪用されているということです。
 
それに、楽山の題材が本ですから、霊言者も気づかないだろうとばかり、霊言が、楽山によって、食い散らかされてゆくのでしょう。
 
楽山は、このような横暴なことを言って、無事で済むと思っているのでしょうか。超常に関わろうとする者たちの世界は、チンケな楽山以上に、不気味だと思いますけどね。
 
ちなみに、とある新興宗教も初期の頃は、これと似たことを言っていたのだった。人の本質は霊であり、転生輪廻をくりかえしつつ、霊性を向上させているという霊的人生観を持ちつつも、一般社会の常識をもわきまえた「偉大なる常識人」となることを目指そう、と…。でも近年はそれとは正反対の立場をとり、「常識に負けるな」を合言葉にして、一般常識を軽視し、常識に反することを奨励するかのような方向にすすんでいるのだからあきれる。
 
カルトでは、霊性を向上させているのが "偉大なる常識人" だそうです。実に、滑稽なのが、一般常識を弁える、ということを、安全弁にしていることです。霊的を付ければ偉そうに見えるという例であるかのように、"霊的人生観" を持つと言っています。笑止です。
 
楽山は、一般常識も、道義も、良心も、弁えていないと思います。楽山は、常識的判断が出来ません。だから、弁明も出来ないのに、また、長々と書いてきます。人格破壊が進んでいるからでしょう。楽山に近寄らないでください。楽山が近づいてきたら一目散に逃げてください。
 
こういう事例からみると、つくづく新興宗教というものは、まともっぽいことを主張していたとしても全然信用ならないものだと思う。一時的にはまともっぽく見えたとしても、その時々の都合によって反対方向に方針転換が為されないとも限らないのだ。とくに、教祖の一声で教団の方針が決まる教祖崇拝型の新興宗教では、この危険性は高くなる。
 
楽山は、自分の霊能者気取りのカルト精神を棚に上げて、新興宗教は信用ならないと言っています。楽山は、主張が一定せず、キリスト教を揶揄したり、おとしめようとしたり、三文芝居をしたり、ほめたり、右翼に賛同したり、カルト批判したり、まるで節操がありません。
 
楽山は、自分を省みることなく、他者の悪口ばかり言って、別の他者の霊言を利用して、自分以外のカルトの危険性を説いているわけですから、いちばん危険なのは、楽山であるということにしかなりません。
 
最早、この楽山は、だましのテクニック以外、何も持ち合わせていないと言ってよいでしょう。楽山は、反省機能を持たない精神詐欺のカルトです。
 
最も大事なカルト対策は、楽山のような、無反省で訂正不能の、自己愛性人格障害のカルト思想宣伝者が、実名と写真によって特定され、情報が敷衍(ふえん)され、その詭弁と嘘が、公開されて、批判されて、広く広く注意喚起されることです。
 
 
(2020年08月30日、同日一部修正)
 
 
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