楽山の霊言悪用(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳
 2020年08月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26057394.html
 
 
楽山は、長く書くことで、潰しが効くとでも思っているのでしょうか。その(2)。
 
*性分
シルバー・バーチは、理性的判断のみならず、自分の性分に合わないものは拒否してよいとしている。
いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わない時、不合理あるいは不条理と思える時は、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。
(同上、p.58)
 」
これはさすがに言いすぎであって、たとえ自分の性分に合わなくとも、それが真理であるなら受け入れなければならないだろうし、もし性分に合わないことを理由にして受け入れないとしたら、それは単なる自分勝手、わがまま、エゴではなかろうかと思う。
 
霊言者は、今度は、性分に従えと言っています。理性よりも、さらに、意味するところの不明瞭の度合いの深い性分によって、不合理と不条理を判断するのだそうです。やはりカルト色が強いようです。
 
理性も、性分も、人間においては不確定であります。いったい何を信じろというのでしょう。
 
楽山は、性分に合わなくても真理であるならば受け入れるように言っています。楽山から、おびただしい詭弁と嘘が明らかになっていますが、一方、真理や、真実の、欠片も表されたことはないのです。
 
性分が、性格や体質や人格と独立しているとは思えません。楽山は、性分を自覚せず、性分から一歩も出ることのない自己愛性人格障害による自己中無反省の生き方をしています。
 
楽山は、批判に弁明一つできないまま、自己主張だけを繰り返し、しかも、他者の言を悪用するという卑劣さで、自己愛性人格障害の障害部分を、あからさまに表しています。あたかも、エサを与えられなかった犬か猫が、いつまでもどこまでも吠え続けているかのようです。
 
でも、人には個性があり、その個性は神によって与えられたものだと仮定するならば、自分の性分に合わないものは拒否するというのは、必ずしも神の御心にかなわないことではなかろうし、一理なくもない。シルバー・バーチはそういう視点から発言しているのであろうか。
この辺りは判然としないものの、個人、個性は尊重すべきものだということからすれば、自分の性分に合わないものは拒否するというのは合点が行く。
 
楽山は、ここでだけ、個性は神によって与えられたという仮定を持ち出して、性分に合わないものは拒否することを、ボンヤリ言語で、神の御心に適う?などとと言って、"合点が行く" のだそうです。どこまで、いい加減なのでしょう。どこまで、自分にだけ甘いのでしょう。
 
*意固地?
これは意固地、強情のようにも思えるが、上の個人、個性の尊重という立場からすれば、当然の判断ではある。
あなたも自由意志を持った一個の霊であり、簡単に自分の考えを譲るようなことをしてはいけません。
(同上、p.60)
 」
おそらく、これは心から納得することが大切だということなのだろう。「私は絶対に、心から納得するまでは、自分の考えは変えないぞ」という姿勢を貫こうとすると、「頑固だ」「意地っ張りだ」「屁理屈をいって自己正当化している」「素直でない」「わがままだ」「自由を履き違えている」など、さんざん悪口をいわれる結果になることが少なくないのではあるが、納得できないものには決してイエスと言わないというのは、本当に大事なことなのだ。
 
(ネットより)
いこ‐じ〔‐ヂ〕【意固地/依×怙地】 の解説
[名・形動]かたくなに意地を張ること。また、そのさま。片意地。えこじ。「―を通す」「―な人」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%84%8F%E5%9B%BA%E5%9C%B0/
 
つまり、意固地は、当然の判断ではありません。意固地は、好ましくないのです。
 
また、屁理屈、自己正当化、わがまま、自由を履き違えること、などは、不当であり、大事なこととは正反対です。まぜこぜにしている日本語、楽山は分からないのでしょうか。
 
ゆえに、また、これらのことや意固地などは、納得できないものを肯定しないこととは何の関連もありません。楽山は、やはり、日本語が分からないようです。
 
あまり表立っては言えないけれども、自分は空気を読んで周囲に合わせとくとか、議論が面倒になるといい加減なところで相手に譲っとくとか、興味がないこと、どうでもよいと思えることは、何でも相手に譲りっぱなしにしとくとか、適当なところがあるので反省したい。
 
今に至るまで、楽山に反省の跡は、全く見られません。楽山の、言葉だけのトホホ言語です。
 
楽山は、いい加減さを発信する人であり、性懲りもなく譲らない人であり、適当というより、自覚のない誤謬と作為の詭弁で出来ている人です。この反省のトホホ言語と世辞に、嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
*信じること
以上、妄信、軽信を戒める言葉を拾ってみたが、シルバー・バーチはそればかりではなくて、信じることの大切さについても触れている。
ある程度は〝信じる〟ということがどうしても必要です。なぜなら全てを物的な言葉や尺度で表現することはできないからです。霊の世界の真相の全てを次元の異なる物質界に還元することはできないのです。
(同上、p.126)
 」
この世を超えたことについては、この世の尺度ではかることはできず、そこは信じることが必要になるというのは当然の理屈ではある。この点において、上の言葉は正論だ。
 
"信じることが必要" と、今までの理性や性分についての発言の総てを台無しにするような発言をしています。楽山においては、信じることは、思い込んで信じ込むことのようです。本当の信仰は、そこにはありません。
 
信仰については、どうしようもなく必要だから信じるのです。しかも、それは、言葉で完結するのではなく、心の問題です。そのこと以外は、総て、修正可能な、その時々の判断に過ぎません。
 
楽山には、この区別が、今もつかないようです。だから、いちいち的外れになるので、宗教と信仰について語る資格がないと私は言っているのです。
 
ただここでいっているのは、あくまで、霊の存在をまったく信じない人、信じられない人に向かって、時には信じることも必要だといっているのであって、霊のことを信じている人、信じやすい人に向かって、なんでもかんでも、どんどん信じなさいといっているのではないことは言うまでもない。
 
楽山の、だらだらと長い、いちいち弁解付きの、説得力皆無の、文章なのです。印象が悪く、学ぶところがなく、そのような言い訳がましい文章の記憶は、早く、排泄して、臭気さえも消してしまいたい、そういう気分になります。
 
信じるとは?、霊とは?、・・言葉にしても、曖昧、あやふや、それを、自己愛を否定できないために、くどくどと言い訳めいたことを書いて、ちゃんと語ったことにする強迫性でしょう。
 
楽山が、誤解されないようにと、不祥事を避けるかのようにと、くどくどと言ってくるのは、やたら複雑な取扱説明書に似ています。しかも、楽山は、日本語の言葉遣いに問題があるのだから、どこまでも不正確です。
 
ちなみに、自分語りで恐縮だけども、自分はもともとは、不思議な話は何でも信じてしまう性質である。霊、神、天使、悪魔、妖怪、妖精、小人、宇宙人、UFO、異次元、超能力などはもちろん、ドラえもん、サイヤ人、北斗神拳なども実在するかもしれない、実在したとしてもちっともおかしくないと考えてしまう性質である。おそらくは、自分がトンデモな新興宗教にハマってしまったのは、このせいもあった。
そんなわけで、自分の課題は、「信じること」ではなく、「信じすぎること」を克服することにあると思うし、いましばらくは、信じることの大切さは承知した上で、あえてトマスのようでありたいと思う。
 
楽山は、自分信仰者です。信じないことも信じ過ぎることも克服する道を示せていません。だから、他者の言説にしがみつき、読書家や評論家を気取って、理性的に見せかけます。
 
だから、今は、楽山自身が、トンデモ新興宗教、すなわち、カルトなのです。
 
決して、新約聖書のトマスのようではありません。ここで、キリストを信じてもいないのに、お気楽に使徒の名前を出し、そのようでありたいと言うことが、むしろ、楽山の反キリスト性を表しています。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 
20:25
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
20:26
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 
20:27
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 
 (ヨハネ書20:24-29、新約聖書)
 
トマスは、復活したキリストを見て信じました。今、キリストは目に見えないので、キリスト者は、皆、目では見ないで、キリストを信じています。
 
楽山は、信じることの大切さなど分かっておらず、殉教したとも言われる使徒の名前を、気軽に自らに当てはめる始末ですから、キリスト教に対する冒涜者であり、キリスト信仰の敵です。
 
*対機説法と誠実さ
ここまで書いて思ったけれども、この霊訓で理性的判断の大切さを説いているのは、質問者、読者に合わせた対機説法であるのかもしれない。
この霊訓を読むのはどういう人かといえば、おそらくは霊的なことを信じている人、または信じやすい人たちなのだろう。とすれば、そういった人たちには、「信じよ、信じよ」といって煽るより、「理性的であれ」と説き、信仰の暴走を戒めるのは当然であり、賢明なことだ。
 
楽山は、ここで、霊を信じやすい人という前提条件を書いて、弁解したつもりで正当化を図っています。信じやすい人には理性的であれと語り、信じない人には信じよと語るとすれば、これは、いったい、どういう宗教なのでしょう。言葉の信頼性と表現力が、まるでありません。
 
語る言葉を、霊言者も、楽山も、持たないから、あちこち言葉を変えて、前提条件を付けて辻褄を合わせようとするのでしょう。この記事の、最も醜い部分が表れています。
 
とある新興宗教では、信じやすい性質の人たちを集めて、「信じることは尊い、信じよ、信じよ」と繰り返し説き、信じやすい性質をますます助長させ、理性や常識に反した判断、行動をするように仕向け、操っているのであるが、この霊訓にはそういうことをするつもりはないということなのだろう。
 
つもりはなくても、信じよと言うなら、どうなってゆく必然があるかどうかを、必ず考えるべきです。超常の霊の話は、そこが整理されていないのです。特に、信じ方を全く理解していない楽山は、身の程を弁えるべきですが、楽山には、理性も常識もないことだけが表れてきたのです。
 
と、こんなことを考えてみると、このシリーズが、スピリチュアリズムのなかの古典となり、広く読まれ、支持されている理由が、なんとなくわかったような気がする。一般世間から見たならば、スピリチュアリズムも、心霊研究も、あやしい新興宗教も、どれもこれもカルトっぽく見えるだろうが、この点においてはシルバー・バーチの霊訓は、カルト対策として有効だと言えなくもなさそうだ。
 
「カルト対策として有効だと言えなくもなさそうだ」・・楽山の、汚いボンヤリ言語ですが、とんでもない。霊言の話は、根拠を示せない話です。そこに、辻褄合わせの理性とか性分とか常識とかを加えれば、今度は、信仰の話じゃなかったの?と返されるだけでしょう。話す霊言者も、受け取る楽山も、しっかりした心と言葉のベースを持っていないことが明らかです。
 
最も大事なカルト対策は、楽山のような、無反省で訂正不能の、自己愛性人格障害のカルト思想宣伝者が、実名と写真によって特定され、情報が敷衍(ふえん)され、その詭弁と嘘が、公開されて、批判されて、広く広く注意喚起されることです。
 
 
(2020年08月31日、当日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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