楽山の危険
 
 信者ブログを見た(アンチ批判)
 2020年08月30日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26073163.html
 抜粋です。
 
 
楽山ブログには、HS批判が多いようですが、カルト対策とも言っています。HSをかばう気はないし、長いので、今回も、抜粋して批判しています。記事内の画像やリンクも省略しているところがあります。2回に分けようとも思いましたが、後半が緊急で重要なので、1回にまとめます。
 
カルト対策は、まず、詭弁家の楽山対策が大事だと思っています。今回、後半で、恐ろしい楽山の本性と危険が語られています。ちょっと常識では考えられません。
 
楽山は、キリスト教をけなし、一方で、クリスチャン芝居をするような、とても、いい加減で、気まぐれな人です。宗教をバカにしている、あるいは、自分にはみんな分かっている、という思い上がった精神で書いているからでしょう。
 
楽山は、私からの批判に、まともに返してきたことはありません。そして、既に否定されて成り立たないことなのに、同じことを書いてきたりしましたが、その後は、こちらを無視しているようです。
 
*まえおき
前記事でとりあえげた信者ブログで、アンチ批判がたくさんあったので、ざっと見てみた。以下に感想を書いてみる。
*ノンクリ
まず楽山はHSからキリスト教に改宗したかのように書いてあったのには驚いた。デマを広めるのは止めてほしい。
信者には、天国か地獄か、信者かアンチか、敵か味方かという具合に、ものごとを単純に黒白に分ける人が多いようだから、楽山はキリスト教の本を読んで感想を書いてるからキリスト信者だ、と思い込んでしまったのだろうか。
 
約一年半の楽山批判によって分かったことですが、楽山は、キリスト者ではなく、反キリストだと判断しています。キリスト信仰に必要な弱さの自覚がなく、一方で、キリスト信仰にはないはずの自己愛絶対の立場と、それを隠して詭弁と嘘で騙す性質を持っています。
 
楽山は、字面の辻褄合わせで、キリスト教や他の宗教についても語りますが、信仰の心が無いので、子供の小理屈~屁理屈レベルのことしか書けない人です。
 
*ひと目で分かる1
大川隆法が仏陀でないことは、大方の人は、この写真を一枚みただけで、すぐ分かる。
(写真省略)
でも教団内では、大川隆法(エル・カンターレ)の天上界での御姿を再現なさったのです云々と理屈をつけて、これを尊いものとする。
*ひと目で分かる2
霊言についても同様だ。信者以外であれば、大方はひと目で、ただのイタコ芸だとわかる。
・大川隆法がトランプ米大統領の守護霊を呼び出した時のやつちょっとだけ
 」
でも教団内では、霊言の仕組みはああだこうだと理屈を重ね、本物だと結論付ける。
 
HSは、教祖の誇大妄想がベースのようですが、キリスト信仰は、聖書に表されたところの、人間に対するキリストの洞察力と共感が、聖書を読む人を惹きつけています。
 
超常の奇跡によって、一気に、悟ったり、完全になったりするような宗教と信仰は、我欲と我執であり、自己顕示欲であり、人間離れを起こす害毒だと思います。
 
そういう、超常が分かるっぽい、霊が分かるっぽい、という要素を、体質として持っているのが、楽山です。しかも、そのことを、楽山は、詭弁と嘘と芝居によって隠しています。
 
*二種のアンチ
これによって、HS批判の手法は、大きく二つに分かれる。
一つは、ひと目で分かることを、そのまんま口に出すものだ。「大川隆法は神で、霊言は本物だってえ? そんなわけないじゃん(笑)」と。
もう一つは、ひとまず教団の設定した理屈にのっかって、その矛盾点などを指摘するというものだ。「教団はこれこれこうだというが、それはかくかくであってつじつまが合わない」などと。
信者のなかには、後者を屁理屈アンチと揶揄する者もあるが、実際のところは教団の屁理屈にのっかって、ああだこうだ言ってるだけの話なのだ。
 
楽山は、小理屈を捏(こ)ねますが、字面の辻褄合わせに過ぎないので、そこに、洞察も共感も生まれないという特徴があります。楽山と、直接の遣り取りをすると、病的に疲労します。
 
気持ちを汲み取ることも、理解を共有することも、楽山は、出来ないのです。代わりに、世辞や、丁寧語のボンヤリ言語や、謙虚芝居のトホホ言語を使うので、相手を疲労させる毒を持っていると言ってよいでしょう。相手にしないことが一番です。
 
*平行線になる理由
 これについて、藤倉善郎氏は、教団側の理屈を論破して、霊言はインチキだと証明することは難しいとしている。
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由
 」
宗教の理屈は、信じるものであって、実証されなくてもよいのだから、言ったもん勝ちのようなものだ。「こういう可能性もある」「こっちの可能性もある」「あっちの可能性もある」といった具合に、どんどん新説をつくれるのだから、らくちんだ。
 
宗教は信じるもの、という楽山の言葉を真に受けてはいけません。楽山が、"信じる" という言葉で考えているのは、字面で辻褄を合わせた屁理屈の思い込みに過ぎないからです。
 
また、楽山は、宗教の理屈は実証されなくてもよいと楽山は言っていますが、実証されたら信じる必要はないわけで、実証できないということです。
 
しかしながら、人間として実感されなければ、信仰には至りません。楽山には、そういう共感による実感がないのです。楽山は、宗教と信仰を云々できる人ではありません。
 
キリスト信仰について言えば、信仰は、人間として共感するものであり、忘れられなくなるものであります。ゆえに、理屈ではなく、愛と祈りの宗教と呼ばれるわけです。教理は、信仰そのものではありません。
 
だから、教義論争は、教団側に信仰を正当化する理屈を思いつける人がいれば、決して負けることはない。延々、平行線がつづく。でももし教団の設定した土俵上で議論しない人…たとえば、「これはウソだ」とひと目で分かることを、率直に言う人が出てくれば、どんなに苦心して積み上げた理屈も、あっさり崩されることになる。
 
教義論争というものがあるとしたら、信仰においては、心の共感と実感に基づくものでなければ、議論の説得力も成り立ちません。楽山のような、表面的な小理屈を振り回し、嘘と詭弁を弄する者の言には、説得力は生まれません。
 
*信者と退会者の教義理解
信者と退会者の教義理解の差異は、上と関連している。
教祖を信じている者は、その発言がどんなにトンデモであっても、コロコロ変わっても、矛盾していても、整合性ある解釈を見つけ出そうと努力する。
でも教祖の真の姿に気づき、見限るようになると、そのような努力は放擲し、余計な解釈はまじえず、ありのままにその教えを見るようになり、おかしいものはおかしい、矛盾しているものは矛盾していると結論づけるようになる。
 
人間的共感が成り立つかどうかが、宗教の真偽の決め手になるでしょう。決めつけてよいわけではありませんが、人間に実感できることとしての共感の成り立たない教義や言葉は、結局、超常趣味や、超人趣味に陥ります。そこには、人間の良心を育てる要素がないのです。
 
教祖を信じている者にとっては、こういう教義理解は即物的で浅はかであるようにしか見えないだろうう。ことばの表面ばかりにとらわれ、その真意を理解していないと言いたくなるだろう。
 
このことを、楽山が言う資格はないと思います。楽山の言は、表層的な理屈の辻褄合わせであり、共感性の深みが見られません。自分を高めるために、言葉の字面だけを整える、これが、楽山の生業(なりわい)なのです。
 
でも現実には、トンデモはトンデモだし、コロコロはコロコロだし、矛盾は矛盾でしかない。信者の理屈、意味づけは、信者以外には通用しないものだ。
 
このように、楽山は、理屈の矛盾があるかないかということだけに、こだわるので、表層だけの意味となり、共感も実感も持ち得ない人だということが、今までの楽山批判において明らかとなってきたのです。
 
中身のない乾いた概念把握は、乾燥した石積みであり、瑞々しい真実には至りません。それで、信仰を分かったふうに語る楽山こそが、トンデモなのです。
 
*自己中
自己中かどうかは、人を責めるかどうかを見れば、おおよその見当はつく。
 
人を責めるかどうかを見れば見当がつくと、楽山は言っていますが、ならば、人を批判し、責め、いちゃもんをつけ、おとしめる楽山は、自己中だと自分で言っているようなものです。
 
つまり、言い換えれば、批判を含める場合、人を責めるかどうかは、自己中の決め手にも見当にもならないということです。
 
自己中でない人は、他人が迷惑行為をしたときでさえも、その気持ちをおもんばかって「これこれの理由でこうなのだろうな。それだったら仕方がない。もし自分がその立場なら、きっと同じことをする」などと考え、相手のことを自己中だと責めることができない。
 
まるで、大人がが子供に説教するような慢心した言い方です。楽山は好むようですが、例示に過ぎませんから、決め手にならない甘さがあり、一般的な説明にならないことが多いのです。
 
楽山は、自分は分かっているということを、時々、問答形式で語りますが、この分かったふうの言い回しは、大方、自分が厳しく言われないためか、自分は説得上手の優しい人というアピールに過ぎません。
 
でも自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、「自己中やめろ(俺が望まない言動は止めろ)」と平気で言える。
ようは、やたらと他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高いということ。
 
楽山のような自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、都合が悪くなると、平気で無視することが出来ますし、それによって、身勝手なだけの人であることが分かるのです。
 
ですから「他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高い」と言う人は、自己中である可能性が高いということです。
 
つまり、自己中は、自己中と言われたくないので、中身のない無理な返しとして、この循環論法のような屁理屈をこねてきます。揚げ足を取ったつもりで、取られてしまうのです。
 
*不可知論
自分は、不可知論的な考え方をしていることを何度も書いてきた。神、真理などは、人には分からんだろうと。
 
不可知論ではなく、いちゃもんを、キリスト教に向けてきたのが、楽山です。さらに、無神論を出して見当外れのことを言って、神を対象物のように扱ったのも、楽山です。
 
そのことによって、"論" の好きな楽山が、無神論も、不可知論も、小中学生レベルの理解でしかないことが明らかになってきました。それでも、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても、異常だと思います。
 
そのせいか、ぽん吉氏にはこんな風に怒られたりする。「楽山くん、きみには結論がないのか! はっきりせよ!」などと。
ぽん吉氏は案外に楽山の立ち位置を理解しているらしい。
でも信者氏による楽山批判を読むと、楽山は神のこと、真理のことなどを分かったと主張しているかのようになっている箇所が散見される。
ぽん吉氏に分かることがどうして分からないのだろう。
 
楽山には、慢心と自己愛と気取りしかなく、結論がないと思います。さらに言えば、結論がないのではなく、判断さえしないのです。それで、生きて活動しているつもりでいるのは、人間として、障害としか言いようがないのです。何も進まない、何も進めようとしない、それが楽山です。
 
つまり、いちゃもんをつけるだけの人になっています。それで、一人前の言論者を気取り、何も出せるものがないのに、正しさを出したつもりでいて、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても異常だと思います。
 
*プラトン
プラトンの対話篇を読んでいるときに、「これが結論だ」と思って赤線をひくと、すぐあとでそれは論破され、新しい説が提示されたりする。それで「こっちが本当の結論だったか」と思って赤線をひくと、またそれも論破されて…という具合になり、結局、最後まで結論は出なかったりする。
自分は若い頃はこれを物足りなく思ったものだったが、今はこれが必然と思うし、さして抵抗も感じない。
 
人間に可能なのは、その時点での判断であり、最終結論ではありません。人間の行いは、判断に基づいており、最終的な正しさに基づいてなどいません。
 
楽山は、ここを勘違いしているので、判断しない曖昧さのボンヤリ言語を、平気で出してきて、それが正しい必然と思って慢心しているようですから、相手をいたずらに疲労させてゆくしかなく、いつか殴られるんじゃないかと思います。
 
*神の定義
自分は、神のことは分からないと考えているので、「神はこうだ」という風なことは言わない。言葉のあやとして、それっぽい表現はあるかもしれないが、それはあくまで言葉のあやにすぎない。
ただ「××本の定義によれば、神はこれこれこうだという」とはいう。これは自分が、神はこうだといっているのではなく、××本で神はこうだと書いてあるということだ。
楽山批判を読むと、「楽山は神のことを勝手にこうだと決めつけている」という風なものがあるが、大方、この辺りのことをきちんと読み取れていないのだろう。
 
楽山は、神はおかしいと、いちゃもんを言ってきたのです。それを、言葉のあや、というドラマなどに、よくある言い訳で済ませています。楽山は、何事も本気では言わず、言葉のあやだけを言っているようなものです。
 
そうして、他者の言葉で、こうだと書いてある、などと語りますから、これは賛同している、自分の意見と同じだと言っていることになるのに、責任を他者に押し付けて、楽山自らは責任をいっさい負う気がないのです。
 
そういう者は、侮辱に匹敵するような軽いあしらいをいつも他者に向けていることになりますから、イライラの神経疲労だけを他者に与えます。いつか殴られるだろうと思います。
 
*共感するかしないか
自分は神のことは分からないと考えているので、〇〇教の神や、△△教の神について、最終的な真偽判定は出来ないと考える。でもそうはいっても感情は動くのであるから、「この神には感動するが、こちらの神には感動しない」ということはあるし、自分の気持ちを偽っても仕方がないのだから、それを率直に語ることにしている。
 
最終的な真偽は、神のみが明らかにすることです。楽山は、またしても、ボンヤリ言語で、感動するしないはあるから、などと、鑑賞か見物でもしている立場で正当に物を言った気分なのです。
 
つまり、言いたいことは、好き勝手に言うが、結論は言わない、責任は負わないわけです。このような無責任が通る、さらに正しいと思っているのです。何という身勝手なのでしょう。世の中は、そういうふうには出来ていないというしかありません。
 
ただこの場合でも、「この神の教えには共感する」とはしても、「この神の教えには共感する。だからこの神は本物だ」というところまでは踏み込まない。共感するかしないかは自分の感情のことだから分かるが、神は本物かどうかは客観的判定であろうし、人である自分には分からないことであるから当然だ。
 
客観的判定は人には分からないから、言わなくていいと思っているようです。だったら、最初から、身勝手な言論などするべきではありません。実際には、恐ろしいほど、主観にも客観にも土足で踏み込んで、人の心を玩(もてあそ)び、傷つけていると思います。
 
人間は、分かっていなくても、その時その時の判断で行動しているのです。その責任さえ負わないのであれば、何もしないで自室か病室かで黙っていることです。もろに人格の発達障害が表れています。理解というか、弁えというか、・・わがままな子供レベルです。
 
でもどういうわけか、楽山批判では「楽山は自分の好悪で、神を信じるかどうかを決めている。自分の好き勝手で、神かどうかを決めている」というようなものがある。
たぶん、「この神に共感する」というのを、「この神に共感する。だからこの神は本物だ」という風に、脳内変換してしまっているのだろうけど、もしこういう読解ミスをしてるなら、もうちょっと気をつけてほしいと思う。
 
読解ミスさせるほどに、楽山は自己愛の強さによって傲慢に振る舞っているということです。つまり、楽山は、病識がないということです。
 
その結果、言葉面だけを整えて、ネットの精神詐欺師をやっているということになります。「もうちょっと気をつけてほしい」などと言って済む話ではないでしょう。
 
*発言責任
信者側からしたら、大川隆法のことを悪く言うのは、阿鼻叫喚地獄に堕ちるほどの大罪となるのだろう。だから大川批判の是非が議論になるときは、その発言責任の話が出る。
でも非信者からしたら、大川批判はタブーではないし、それを罪とする発想もない。だからその是非について議論する際に、責任についてうんぬんする必要性も感じられない。
信者とアンチの間で、言論の自由がテーマになるとき、アンチ側から責任うんぬんの話が出ないのはこのためだろう。
 
言いたい放題でありながら、責任を云々する必要も感じないと自白しています。楽山は、自己中と無反省と、身勝手と無責任が、正しいから通ると思っているようです。
 
云々の話の代わりに、言った分の責任として、別のパワーが楽山に向かうかもしれません。病識がなく、置かれている立場を自覚しないというのは、怖いことです。
 
*おわりに
他にも論点はあったかもしれないが、今は思い出せないので、とりあえずここで筆をおくことにする。
 
永久に筆をおいた方がいい。
 
それにしても、信者とのやりとりでは、同じこと、分かりきったことを、何度も繰り返し説明しないとならないのはつらい。
 
説明した気でいるようです。何も説明になっていません。楽山は、ずっとそうです。
 
他の人とのやりとりであれば、ネット上でも、リアルでも、そんなことはないのだから、自分の話し方が悪いせいだとばかりは言えぬだろうし、どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬのだが。
まあ信者側でも、アンチは分からず屋だというようなことはよく言っているわけだし、ある意味、お互い様というやつか…。
 
お互い様ではありません。「どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬ」・・これ、かなり激しい結論であり、判断です。こういうことを平気で言っているわけですし言ってきたわけです。これで、責任負わない・・が通ると思っているのでしょうか。
 
楽山を疲労物質と言ってきたわけが、ボンヤリ言語の正体が、ようやく分かったような気がします。
 
楽山は、自己愛性人格障害で、人の気持ちを思いやることが出来ないのです。どうか、楽山が何を言っても相手にしないでください。楽山は、人間について、何も分かっていない人です。
 
お互い様ではありません。常識人なら絶対しないようなことを、トンデモの楽山だから、自己愛の慢心の上に安穏として、やっているということです。
 
責任を負う気がないのなら、何も言わないことです。
 
他者に向かって言ったり書いたりする一言ごとに、責任は生じます。人間は、他者の人生に関わって生きているということです。だから、特に、信条など、生き方に関わることについては、相当に深く考えようとするのです。間違えたら反省すればよいのです。それが正常人です。楽山は違う。
 
思いこみの強いカルトの人たちを相手に、へらへら軽口をたたいて、けなしたり認めたりで、救われるか否か、捨てるか否か、という境界に立たせておきながら、それで無責任なら、それで平気なら、どうなるでしょう。・・久しぶりにホラーを見た感じです。汗。
 
 
(2020年09月01日、当日一部修正)
 
 
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