共感性
 
   (以前の記事を修正加筆しています。)
 
 
共感とは
相手の心情を全部でなくても理解すること。
相手と同じような心情を共有すること。
世辞や言葉だけではなく
相手を思いやること。
人間の最も大切な心です。
 
私のような者でも
少しは共感する性質があると思っています。
最近、台風が窓を破るのではと恐れましたが
自分が恐れるだけでなく
他者の無事を祈ってもいました。
我がことのように祈ったかは疑問ですが
全然気にならないわけではない
くらいのことは言えるでしょう。
 
特に、リアルな知り合いでなくても、
ほんの一部でも似た境遇だったりすると、
察している、察しているつもり、察していたい、
という気持ちが湧いてくるものです。
 
共感は人間の性質ですが
神様も人間に共感する御方です。
さらにキリストの人間への共感性は深く
鋭く悩み苦しみ悲しみを見抜いて
命を惜しまぬほどの共感と愛を表しました。
人間は、なかなか、そうはいきません。
 
知ったという発言だけなら誰にでもできるでしょう。
しかし神については、人には、思いこみが入ります。
入らないようにしましょう、ではなく
入るものだという自覚が必要です。
 
人は、ある時点においては思い込みの生きものです。
それを補うのは反省力です。
反省力も共感という土台の上に成り立ちます。
共感は信仰に近似してきます。
 
いつの日も
人は不完全です。
人の心は不完全です。
人の思考も不完全です。
人の言葉も不完全です。
人の信仰さえも不完全なのです。
 
ですから不完全な一人が
不完全なもう一人の心を
完全に理解することは出来ません。
 
ましてや不完全な一人が
完全で全能なる神の御心を理解するなど
到底できることではありません。
 
このことを理解しておかないと
カルト的な決めつけの信仰?になってしまうでしょう。
 
決めつけないことのベースには
人間の不完全つまり罪の性質への人間同士の共感があります。
それゆえに個別でありながら信仰の心を分かち合うことが
ある程度は可能になります。
 
福音書におけるキリストと救われた人々との交流は
物や肉体の奇跡とは比べものにならないくらい
福音書の最も重要なところです。
 
キリストは人を見抜き
人への惜しみない深い洞察と共感のために
特に悲しみを共にされます。
キリストが人生の同伴者と言われるゆえんです。
 
 キリストに敵対するカルト思想の者たちは
 殆ど共感性を持ちません。
 ゆえに私たちも彼らに共感を覚えません。
 そういったところ、つまり共感性の有無が
 両方とも神を唱えているにもかかわらず
 真の信仰と反信仰を分けるだろうと考えています。
 
共感は高等感情ですが素直な心です。
やさしい思いやりの心でもあります。
 
 やさしげな言葉は使いまくるが共感性はゼロで
 共感は必要ないとまで言っていた偽善者もいて
 根拠は聖霊と神の啓示だと言い
 議論の対象にならないと言っていましたが
 元々まともな議論をしたことなど皆無なのです。
 この人がキリスト者なら、この世は闇です。
 
 信仰者めいたことを言い
 別のときには否定的なことを言い
 断定できないのだから
 責任問題はないという者がいますが
 学ぶ姿勢もなく
 いい加減なことを人に言うのは人を惑わしたことになる
 ということが分からないようです。
 真実の追求において、
 言論の責任を負わない者に言論の自由はない
 ということを何度も突き付けるべきです。
 
 自分が批判されて反論も弁明も返せない者は
 別のところを批判する資格はない
 ということは良心と常識があれば分かるはずです。
 それが分からず批判されていることを無視して
 正義の味方気取りで別のところを批判して平気でいる場合
 次のようなことが考えられます。
 1.常識的思考に欠陥がある。
 2.良心が欠けているために共感性が身についていない。
 3.最初からだます目的と悪意のみである。
 いずれにしても
 受け取って反省し学習し成長する気がないわけですから
 そのような者に他者を批判する資格はありません。
 
共感は、人間の場合
弱い人が弱さを自覚しているときに
おもに弱い人々の間で生まれます。
ふと思い出した聖句ですが
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間は、弱さを自覚しないとき
高ぶることが多く、共感することは難しくなります。
つまり、信仰者の共感は
自分の低さを知っている人間同士において生まれるものです。
それは信仰の態度でもあります。
 
共感は信仰を情緒的に成り立たせるものかもしれません。
また信仰の心を分かち合うときに必要なのかもしれません。
 
罪、低さ、弱さ、分かち合い、共感、信仰、
救われる人と救われない人を
人が区別するのは困難ではありますが
人を差別するためではなく
むしろ、自分が何を大切にして生きてゆくか
ということを考えるときヒントになるかもしれません。
少なくとも信仰の周辺事情ではないと思います。
 
このように、信仰については
教理的な言葉を駆使すれば語れるというものではなく
人間の日常の言葉の中に
信仰と切っても切り離せないものがある可能性を感じます。
 
信仰は人間のためにあります。
信仰は決して人間離れではありません。
 
すなわち信仰は
キリスト教の用語だけでは語れないところの
いわば懐(ふところ)の広さというような幅をもって
様々な境遇にある全ての人が
決して特別優秀になれるというのではなく
一人一人が個別なのだということを伝えています。
 
すなわち特別な悟りではなく
個別の事情において惹きつけ
私たちを招いているのでしょう。
 
ゆえに信仰において、
特別な学習・学問・能力によって獲得・規定されるものではなく、
良心からの敬虔と共感と反省と学習が可能な総ての人に
いかに不完全で罪深くても
信仰ゆえに人に与えられる恵みは
絶対の "神の義" とは異なるものとして
"信仰の義" と呼ばれます。
 
共感は、人間性に与えられた賜物です。
共感できる人は人間らしいのかもしれません。
欲望などと違って
信仰が支えて動かす良心の表れの一つであります。
 
良心については直観的に理解しているだけですが
良心の欠落をカルトなどに見ることが出来ます。
そこに欠けているものは、他に、
反省力、学習機能、自己修正機能、成長などがあります。
これらは、自己中心の自己愛やカルトなどに欠けていることです。
 
そして、似ている機能を表しているこれらは、
誰もが、自分で心がけるべきことで、誰にとっても必要なことです。
 
神を信じて、教理を学んで、
自分が特別になったなどと思わないでください。
また
自分が特別だから選ばれたなどとも思わないでください。
 
言ってみれば、上に書いたように、みな個別の恵みなのです。
しかも優劣はないということが、信仰のもたらす恵みの特徴です。
 
信仰は、悔い改め、即ち、折々の正直な祈りによって成長します。
キリストに癒され、神によって赦されることは、
物や肉体に起こる奇跡よりもはるかに理解可能な、
悔い改めを通して起こる魂の奇跡に支えられる道であります。
 
 
 s天草・老人055
何となく敬意を表したい感じがしました。
今は私がこのご老人のように年を取りました。
 
 
(2019年09月27日)
(2020年10月03日、修正加筆して再録)
 
 
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