原初から2
 
  2012年02月24日の記事
  「原初から」を修正再録
 
 
原初の信仰が生まれるとき
それは復活の類似体験である
と言えば、かなり語弊があるかもしれません。
復活=死人が蘇る
という先入観があるからです。
 
キリストの復活と違って
ここで信仰における復活というのは
それまでとは違った生の体験として
人を解放するということです。
 
原初体験は
自由意思による神のみへの服従の決意へと導きます。
つまり
神への服従が
人の世の様々な執着からの解放だということです。
 
勘違いしてほしくないのは
人の世を無視するということではないということです
無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても
それに耐えて生きるための信仰であります。
 
つまり神への服従というのは
襲い来る不幸に
いつまでも泣いて過ごすか
信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと
そうとも言えない神秘の部分があります。
不思議な御縁ということです。
 
原初体験は出会いであり
縁付くことであり
絆されることであり
これらは
ある種の受身の直感~直観であり
芸術の享受にも似るが
恋愛や結婚にも似ている。
 
具体的に言うと
イエス・キリストを好きになることです。
 
むしろ享受しながら
そこから何を目指すことになるか
という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか
自分の確信で自分を縛り付けてゆくか
自己陶酔に陥るか
これらは目に美しく耳に心地よい偶像に
人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであり
人間の作為は
原初の面影すらないところへ向かうでしょう。
 
信仰は
自由と服従のバランスではなく
思いわずらいからの自由と
人間らしさへの一途な希求であります。
 
ゆえに信仰においては
自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく
 
よって常に信仰はその原初から
自他による思いこみや固定観念を
吹き込まれたり糊塗されたりすることを
拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は
個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために
こうせよという一つの言葉で確定できるものではないと思います。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰であるために
祈りだけは必須ということになるでしょう。
そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは
嘘と飾りは通用せず
ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
完全な信仰などあり得ません。
 
信仰とは
人間の不完全を
神によって赦されて義とされることです。
 
 
     原初2
             原初
 
 
(2012年02月)
(2020年10月29日、修正再録)
 
 
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