楽山の悪魔志向
 
 映画『プルーフ 神の存在』を見た
 2020年10月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、超常ホラー信仰は、超常悪魔信仰なのでしょうか。楽山の、偏狭な視野と、偏向した思考と、偏執的な想像が、乱暴な筆致によって明らかになっています。
 
神の不在はもちろん、神の存在も、人間に証明は出来ません。神という信仰対象は、人間に証明できる対象ではありません。全能の神へは、信仰のみが成り立つのです。
 
不完全な人に、完全なる神を証明することは出来ないのですが、神について、超常のほうに話を持って行く者たちがいて、宗教と信仰を、心の無い超常の辻褄合わせにして、否定しようとします。
 
楽山は、そういう典型で、動かない安物の鋳物のようです。いずれ、ほこりまみれになって放置されるでしょう。
 
神の証明に執拗にこだわる者は、おとぎ話の超常にこだわる者です。そういう話に、いくら付き合っても、埒(らち)が明かないので、左右されてはいけないと思います。
 
特に、楽山は、反キリストなので、神についての話を、超常の作り話で片付けたいだけです。批判して解説しても、心の無い楽山には、宗教にも信仰にも、何の理解もありません。
 
*ネタバレ
gyaoで、映画『プルーフ 神の存在』を見た。あらすじは、次のようなものだ(以下、ネタバレ有り)。
天才学者であるジニーンは、宗教はまったく信じない無神論者であり、ある筋からの情報を得て、神は存在しないことを証明する論文を発表する。
 
いかにも、宗教は敵で、宗教を信じると人格がおかしくなるとでも思っているところの、極めて、おかしいところの、絶対偉いのは自分ではないかなあ・・と思っている楽山が好みそうな映画です。
 
これによって宗教の権威は失墜し、多くの人々が信仰を失い、悩み苦しむ結果となる。ジニーンは、この段階になって良心の呵責を感じはじめ、ついには自分は悪魔に操られていたことに気づくのだが、時すでに遅し…。
映画の構成は、過去と現在を行ったり来たり、現実と夢(妄想?)が入り組んでいて、話が分かり難いところもあるのだが、根幹のストーリーは、大体こういう流れだろう。
 
宗教の権威が失墜したら、多くの人々が信仰を失ったら、悩み苦しむでしょうか。だいたい、人間の宗教組織に、それほど権威があるでしょうか。宗教を敵とする楽山の、宗教についての極端に偏向したホラー的な見なしがうかがえるところです。
 
楽山は、あっさり「悪魔に操られていた」と書いていますが、映画では、どういうふうに描かれているのでしょう。楽山の趣味的宗教観からは、恐ろしく超常の呪いの魔術のホラーだけが描かれる化け物映画だろうだろうと思いますが。
 
人間は、しばしば、悪意をいだき、悪意によって行動しています。日常的に、それは起こっています。反省力があるから、人間でいられるのです。
 
悪魔を、ホラーで考えることしかできないのは、既に、殆ど、だます悪意のみによって動いている楽山のような人間でしょう。さて、悪魔とは、どういう存在でしょう。楽山を動かしているのは何なのでしょう。
 
*見どころ
作中では、序盤において、「神は存在するか?」というテーマで、熱い議論がかわされる場面があるのだが、ここでの主人公の主張にはなかなかの説得力がある。
宗教には、とても神が存在するとは思えないような汚辱にまみれた歴史があるので、主人公がしているように、聖職者らの不品行の例をつぎつぎに挙げられると、「ああ、神はいないんだなあ」という感慨を抱かないではいられなくなるのだ。
 
宗教を敵とし、自身が宗教の敵でもある楽山が、この映画を取り上げる明確な理由が「ああ、神はいないんだなあ」であることに暗示されています。
 
確かに、楽山には、神の恵みは分からないかもしれません。無反省で、はぐらかすように、ああでもないこうでもないと、好きなように、宗教などを、愚痴のようにしつこくけなして、責任を負わない楽山に、神の恵みが伝わるとは思えません。
 
無責任という不品行の源泉が、不品行について語っています。
 
理屈としては、聖職者がどんな罪を犯そうとも、それは人は不完全だということの証明にはなっても、神は存在しないことを直接に証明することにはならないのだけれども、それはそれとして神の陰に隠れて悪行を続ける聖職者の存在は、自分の信仰心に何らの影響も与えないというわけにはいかないのだから仕方がない。
 
宗教を揶揄して、嘘を吐き、だまして、後悔せず、反省せず、おのれに慢心して、なおも、宗教にケチを付けながら、言いたい放題で、責任を負わないことが、楽山の精神内界に、原因となり、結果となっているのは、火を見るより明らかです。
 
今回も、大好きなホラー映画で、ケチの語源である怪事(けじ)を付けてくる楽山です。楽山には、宗教は、フィクションでしかないからでしょう。分からないなら、何も言わなければいいのに。
 
*なぜ?
とはいえ、このテーマの議論では、神の存在を信じる側も、信じない側も、確たる証拠もなしに、自分の意見を相手に押し付けようとするのは、どうしてなのだろうと思う。
現実には、神は存在するという証拠も、神は存在しないという証拠もないのだ。それだったら、「私は神は存在すると信じる」とか、「私は神は存在しないと信じる」などと言うことはできても、「神は存在する」と断言して、それを相手に押し付けることも、「神は存在しない」と断言して、それを相手に押し付けることもできないはずだ。
 
このように、言論の自由と勝手を混同して、責任を負わない楽山のような愚か者は、平気で、神はいないとブログで主張しておきながら、批判されると、何も反論・弁明できず、断定できないことをもって、自己正当化をしてくるのです。
 
常識が欠如すると、こういう、おかしな屁理屈の理路になります。いったい誰が、神の存在を、他者に押し付けられるというのでしょう。読者にはすみませんが、・・バカか・・。
 
はっきり強く主張することより怖いのは、いつのまにか肯定するように、暗示的に、刷り込もうとすることです。楽山は、殆ど、記事を書くたびにやっていることです。丁寧語の恐怖なのです。
 
初歩的なことさえ何も理解していない楽山が、そういう刷り込みを常習的にやって、キリスト教をおとしめてくるから、読者が誤解してはいけないので、批判して、楽山を否定しているわけです。これからも続きます。
 
したがって、楽山は、あらゆる思想の交流は、丁寧語と、冗談と、楽山特有の曖昧なボンヤリ言語以外では不可能、と言っているようなものであります。
 
ゆえに、こちらは、賛否の議論・考察・弁明・批判があることを認めず、明確な責任ある意見に、反論するでも弁明するでもなく、無責任ないちゃもんをつけて、ただただ、おのれの慢心だけを膨らませてゆく楽山の性癖を、継続的に全否定してゆきます。
 
ですから、楽山の発言は、全部、曖昧であるか冗談かのどちらかということになります。つまり、まともに相手にしてはいけない人なのです。真に受けると酷い目に遭うとは、このことです。だから、精神の詐欺師なのです。
 
でもどちらの側も、平気で自分の意見を相手に押し付けようとすることが多い。こういうことは実にばかばかしいことだと思う。
 
はっきり意見を述べるのと、楽山のように詭弁や暗示で刷り込むのと、どちらが卑怯でしょう、どちらがバカバカしいでしょう。本当に、楽山は、交流とか、人間関係とかが、まるで、出来ない人だということが表れています。
 
また、宇宙や人類の起源について、神を持ち出すことなく、説明することができたとしても、それはあくまで「宇宙や人類の起源は、神を持ち出すことなく説明できる」ということではあっても、神は存在しないことを証明したわけではないだろう。
 
このように、人間同士の主張に、いちいち、ボンヤリ言語としての「説明できる」という字面の語尾を付けることなどに、異常に、こだわるのが、楽山の特徴です。しかし、楽山自身は、今まで、実に臭い詭弁を弄し、嘘を吐き、破たんした理路をばらまいてきた張本人です。しらばっくれるとは、このことなのです。
 
これについて創世記の記述に反するというならまだ理解できるけれども、神は存在しないという主張だと解して反発するのはおかしなことだ。
 
まだ、創世記の記述を、キリスト者はそのまま史実として受け取っているという固定観念で話をしています。つまり、楽山の理解は、創世記に達していないのだろうと思います。何度も書いてきたのに、読まないで、あるいは、読んでも、同じことを書いてくるわけですから、楽山は、まだ、人間になっていないのでしょうか。だから、同じことを書いて満悦するのでしょうか。
 
創世記の史実性は不明です。神話かもしれないという解釈は、神が万物と人を造ったという実存性のほうが、史実と考えるよりも、よほど、意義があるからです。実存というのは、今の人間も、神に造られた被造物だという考え方です。創世神話と呼ばれることもあるわけです。
 
このように、解釈の分かれているところを、キリスト教では文字通りに受け取っている、という決めつけでしか語れないところに、楽山の恣意的な策略の、貧弱さが表れているということです。まったく、笑止であり、批判を経ても成長がない、という特徴が表れているのです。
 
ちなみに、カルト的精神というのは、そういう訂正不能に固着したところから始まります。だから、楽山は、安易にキリスト教を決めつけているカルトなのです。しかも、自己愛からの自我崇拝のカルトなのです。さらに、無反省と無責任に、悪魔的に結実してしまっています。
 
シャロームは約十年の批判を無視しています。楽山は、約1年半の批判を無視しています。いかなる刺激に対しても、決して学習せず成長しないで、同じことを言って、けなしてくるだけ、という、救い難い堂々巡りに陥っているシャロームと、その仲間である楽山なのです。病質的カルトという以外にないでしょう。
 
巷には、宗教絡みの議論だと、すぐに極論にはしる輩がいるし、本作でもそういう登場人物ばかりだけど、なんでそんなふうになってしまうのか、自分には謎である。
 
言論の自由をもてあそんで、根拠もなく神を否定し、一方で祈り芝居をしておきながら、極論に走るのはよくないとばかり、言論の責任を感じないでいられる楽山は、これからも、言論において、多大な迷惑をかけ続けるであろう変質者なのです。
 
*本音
本作は、表向きは「無神論の背後には悪魔がいる」というメッセージ色が強いが、人物描写に限って言えば、無神論者以上に、聖職者や信仰者の方が醜悪に描かれているようでもある。はっきりいえば、本作の聖職者や信仰者は、傲慢で強権的だったり、妄信に陥っているようだったりで、カルトっぽく表現されている。
この点からすると、本作の目的は、無神論を批判するためという単純なものではなさそうであるし、製作者はなかなかの策士かも…。
 
人物描写にかこつけて、聖職者と信仰者を醜悪だという印象を吹き込もうとしています。「聖職者や信仰者は、傲慢で強権的だったり、妄信に陥っている」も同様です。これが、楽山のやり方です。
 
語尾にこだわるとか断定とかを問題にしながら、やわらか刷り込みのつもりで、ガラスの破片ような否定で、血のりを付けてくるのが高慢な楽山のやり方です。「…」は、その一種でしょう。
 
楽山は、根っからの詭弁屋そして陰謀屋なのです。そして、いつも、自らの安物を売りに来ます。悪魔はどういう人間の振りをするか、考えてください。そして、気を付けてください。
 
悪魔は、必ずしも、超常の生きものではありません。しばしば人間に巣食っています。悪性度の高い悪は、必ずと言ってよいほど、善の仮面を身に着けています。そして、人間の心を支配して、否定も肯定もしにくいような、そう言えばそうかなあ、と思わせるような言い方で、すり寄ってきます。
 
そういう、人間の悪意というものを見てきた人が、悪魔、という存在を想定したのだろうと思います。悪魔は、人間の悪意がモデルなのです。時に、恒常的に、悪意をいだく病質者がいます。
 
そして、罪悪感も反省力も責任感も持たない楽山のような者が、人間集団の中にいて、オモチャのように、神も人間も自由自在に扱うことを欲して、詭弁や誘導や印象操作によって、遊んでいるのです。
 
これは、思った以上に、大いなる災いであります。楽山には、良いところが、どこにも、見い出せないからです。どうか、楽山に近寄らないでください。楽山の餌食にならないでください。
 
 
えじき
えじき
 
 
(2020年10月30日)
 
 
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