罪人に注ぐ光
 
 2018年11月14日「神か人か」を加筆修正して再録。
 
 
キリストは神か人か
ということがキリスト教を考えるうえで話題となり
論争にさえなるでしょう。
 
私は、基本、決めつけない立場で
事実かどうかは保留しています。
 
しかしキリストが
イエスという名の人だとしても、
福音書を見れば分かるように
物や肉体の奇跡を抜きにしても
イエスは
人を見抜く優れた洞察力と
人の悲しみに寄り添う共感力と
命を賭するほどの愛を持っておられたのです。
 
この御方を、人でした
ということで済ませられるでしょうか。
私には、とても出来ません。
 
二千年前に
悪が善の振りをするという偽善が
悪よりも悪質な
最悪であることを洞察し
厳しく批判し
罪深い人に深く共感して
罪人を救おうとして
承知の上で犠牲となって
殺された御方を
どうして
人でしたと言って済ませて
忘れられるでしょう。
 
 人でしたと済ませて忘れられるのは
 超常奇跡や机上の空論だけで考えて
 心に潤いと温もりのない人だと思います。
 
つまり
神か人かに関わらず
私の心を揺さぶり
大きく変えたイエスという御方は
私の救い主なのです。
すなわち
ただの人では決して済まない御方なのです。
 
私にとって
人間として可能で必要な神認識は
それだけで十分なのです。
 
その告白の時
イエスは、私にとって、
主イエスでありキリストなのです。
 
何故それ以上を
神聖について分かっているふりをするのでしょう。
 
キリスト信仰者の宝は
神の前に、人が無知であること、
つまり
神の完全とは比べ物にならないところの
人の不完全という罪性の自覚であるのに。
 
それゆえにキリストは
今も聖書を通じて総ての人に
正直な罪人が救われることを
宣べ伝えているのです。
 
 
キリストが物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
好事家の議論に過ぎません。
何故なら、現代、あるいは、
あるとき、自分の都合の良いように、
物や肉体に、奇跡は、
少なくとも滅多に起こらないと言えるからです。
 
キリストが二千年前
物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
終末まで保留してよいと思います。
 
人生の成り行きにおいて
奇跡体験を持っている人は
神の導きがあったかもしれない。
 
しかし
その時の奇跡が
都合よく繰り返されるとは限りません。
 
神に祈り願うことと違って、
神が自分の期待通りに奇跡を起こすと信じることは
信仰とは、逆方向であります。
 
後者は神の行為を決めつけて思い込む傲慢です。
期待通りという条件は人の作りもの
すなわち偶像に他なりません。
 
信仰は神への無条件の信頼です。
何も持たずに神の懐に飛び込むことです。
キリスト者をそうさせるのは
キリストからの愛とキリストへの愛であり
それ以外にはありません。
 
神は便利屋ではありません。
個人を守る氏神でもありません。
 
神は神の基準によって人を導きます。
その基準は神の秘密です。
私たちが折々の判断によって動くとき
どこに神の導きがあるかも神秘であります。
 
神が、人の都合に合わせて
人を守るから信じるのではありません。
 
生きているとき
さらに死に臨むとき
人の考え行なえることが尽きたときに
神の導きのみが希望ゆえに
神にお任せするのであります。
 
 
罪人に注ぐ光

罪人に注ぐ光
 
 
 ※
 
 自分は奇跡に守られているという信仰?が
 いかに身勝手で自己中心的で破壊的な人格を作ってしまうかを
 私は、嫌というほど
 ずっと見続ける羽目になっています。(嘆)
 
 
(2018年11月14日アップ)
(2020年11月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
好事家(こうずか)≒物好き
 ・・知らなかった。「こうじか」と読んでいました(汗)
羽目(はめ、破目)
 
 
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