楽山の傲慢
 
 
数を書けばいいと思っている楽山の悪あがきです。一日で3つも記事を書いてきました。数を書けば批判しにくいということもないのです。何故なら、楽山の、無反省と無責任だけの文章は、いつどこで見ても、有害性が明らかだからです。
 
 
 高橋昌一郎氏と幸福の科学
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 一部省略
 
HSの教義には関心はありません。楽山の非道だけを追及しています。
 
*驚いた!
ツイッターを眺めていたら、高橋昌一郎氏の文章が流れて来たので読んでみた。
・「高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ」事件の真相!|高橋昌一郎|note
 」
・やや日刊カルト新聞: 哲学者・高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ!=ストーキングや訴訟予告で報復中
 」
いやはや、これが本当なら酷い話である。
 
HSが、恫喝したという話のようですが、楽山は、恫喝ではなく、ひたすら、反省と責任という義務を無視して、見物人として、面白がっている傍迷惑な悪趣味です。上の2者は、互いに批判し合っているようですが、楽山は、丁寧語で無責任をごまかしている偽善者です。
 
楽山の無責任な記事に対しては、当たり前のことですが、批判目的の場合を除いて、他者を無視する楽山の言を、無責任だから無視するということが正しい対処法です。"いやはや" という言葉で、酷い話をしているのは、楽山その人です。私は、そのことだけを言い続けています。
 
*同情の余地
でもよく考えてみれば、彼らが批判者に対して高圧的な態度に出るのも仕方がないかもしれぬ。
たとえば、HSでは人事異動は頻繁にあり、職員の地位は極めて不安定だ。大川家の一員であっても、総裁の意向次第で追放もありえる。とすれば、HSの職員は、総裁のご機嫌を損ねることは何としても避けたかろ。
 
楽山は、高圧的に、また、あけすけに、相手を批判したり、相手の悪口を言うことよりも、悪性度が高いのです。怒る人は見苦しいですが、楽山のように平気で済ましているのは、通らないことをしている無法と非道の者が、善人のふりをすることで、そこでまた重ねて嘘を吐いているのだから、悪よりもさらに悪である極悪の偽善ということになります。大方の凶悪な犯罪者は、しらばっくれて善のふりをするという現実があります。楽山を決して許してはいけません。
 
また総裁は、新聞や雑誌をよく見ているという。それなら総裁から週刊誌対策を命じられた職員は、尻に火がついた状態にならざるをえないだろう。適当な報告で誤魔化しようがないし、総裁が次号を見たときに、そこに批判記事があるかないかによって自分の将来も決定しかねないのだ。わが身を守るために、なりふり構わぬ行動に出てしまうのも仕方ない。
 
凶悪な偽善者である楽山も、いずれ、尻か股間か頭に火が付くでしょう。なりふり構わぬ行動に出るかもしれません。だから、関わっている人は、今すぐ、離れて、難を避けてください。
 
生まれ育って大人になった時には、既に、偽善者であり、反キリストであり、今、既に、無反省と無責任であり自己顕示欲だけの厚顔無恥の言いたがり屋である楽山は、いずれ、制御不能になってゆくでしょう。
 
以上のことはいろいろと見聞きしたことからの想像に過ぎないのではあるが、なにはともあれ一部の職員が批判者に対して高圧的な態度に出がちなのは、それ相応の理由はあるにちがいない。
一般論としては暴君に仕えるならば、その者もまた暴君のようにならざるを得ないものであろうし、<
 
自己愛性パーソナリティ障害で学習ができないために、ああでもないこうでもないボンヤリ言論で、責任を負わない詐欺師体質の楽山を受け入れる人は、同じように、だますことしかできない、人間的良心の感受性を持たない、ごまかしだけの偽善者になってしまうでしょう。
 
高圧的な態度を示す職員は、理想を持って出家したにもかかわらず、心の平安を得られず苦しんでいるのかもしれぬなどと考えてみると、そういう人をあまり厳しく責めるのは可哀想と思う次第ではある。
 
楽山の偽善の騙し文句に侵された者は、理想を持っていたにもかかわらず、心の平安と不感不応を勘違いして、打てど響かない鈍感な者となり、楽山と同じように、嘘と出まかせで誰かをだましていないと心の平安を得られない者となってゆくでしょう。だから、楽山には、罵詈雑言を吐かないからといって、批判を緩めることは決してできないのであります。
 
 
 信者の傲慢さとマインド・コントロール
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の傲慢さとマインドコントロールについて書いてゆきます。
 
*三つの原因
前記事で、一部の職員が高圧的な態度を示す理由についてあれこれ考えて見たのだが、本記事では信者の傲慢さについて書いてみたい。
思うに、これはマインド・コントロールの影響が強いのではなかろうか。具体的には、次の三つだ。
 
楽山が施すマインドコントロールは、中庸に見せかけ、挨拶や社交の世辞などで油断させ、否定を書いて、のちに、肯定を書き、これで、責任を免れようとする嘘っぱち、即ち、詭弁や印象操作であります。体のいいことを書いているように見えても、底を流れているのは、いじって自己満悦する悪ふざけでしかありません。
 
見かけだけの柔和さの裏にあるのは、今まで無反省と無責任を指摘されるなど、何を言われても、平然と無視する厚顔無恥による不感不応であり、これに従う者は、知らず知らずのうちに、感情、特に、高等感情が習慣的に鈍麻してゆくでしょう。楽山に似てくるのです。
 
つまり、罪悪感、後悔の念、などの感受性が働かなくなり、人間の成長に不可欠の学習を不可能にする無視によって、人格破壊に至るのです。表情乏しく、いつも、うすぼんやりとしてニヤニヤ笑っているようになり、人間について実のあることを、感じることも考えることも出来なくなるでしょう。
 
まず一つは、信者は自分は神の側にあると思い込まされているということである。だから、「われわれは、神(大川隆法)の下に集い、その教えを広め、人々を救おうとしている、しかし、悪魔(アンチ)は、この救世活動を邪魔しようとしている。そんな邪悪なアンチには絶対に負けない。正義の鉄槌をくだすべし」という傲慢さが生まれるのだろう。
 
先ず、楽山は自分がまともなことを言っていると思い込んでいます。中立の立場を装って、実は、上から見下ろして、良いとか悪いとか言っているのが気持ちよい、ということだけが、楽山の快楽と生き甲斐なのでしょう。
 
結局は、断定していないからと言い逃れたつもりで責任を負わない楽山なので、中身は何も言わないのと同じ意見の不在になるのですが、結果として、巻き込まれた者に、名状しがたい異常な精神疲労を残します。言論に本気であればあるほど、楽山は凶悪な病原なのです。
 
正常な言論を混乱させ、無責任な善人芝居をし続ける楽山は、公共の精神衛生のために、その言を徹底して排除することが必要です。そのために、強制力が使えないので、楽山の執拗な無駄口に対して、忍耐強い批判の継続が必要なのです。
 
二つ目は、仏陀誹謗、和合僧破壊は大罪だという戒めだ。HSでは、大川隆法を悪く言ったり、信者の信仰心をぐらつかせるようなことを言ったりするのは大罪であり、死後は地獄に堕ちるとしている。だから信者は、自分がその戒めを守ろうとするだけでなく、批判者に対しても、仏陀誹謗、和合僧破壊の罪を犯すよりは、つべこべ言わずに黙ってろと言うことになる。
 
楽山は、知ったかぶりで、HSの理屈に合わせています。楽山は、時々、愚にもつかない幼稚な嫌がらせを書いてくることはありますが、「つべこべ言わずに黙ってろ」ではなく、理解も出来ないために、大方は、無視であります。この無視を、平然と出来て、さらに言い続けるということが、正常な議論や批判から見ると、極めて特異な異常なのです。
 
三つ目は、信者はエリート意識を持たされるということがある。HSでは、HSを信じたということは、本物を見抜く眼力がある霊的エリートだという考え方がある。大川隆法の信者になれたということは、過去世において相応の修行を積んできたおかげだともいう。だから信者とは反対の立場の人たち…非信者・アンチ・退会者などに対しては、本物を見抜けない未熟者、神(大川隆法)に逆らう傲慢な者、信仰を貫けなかった退転者だと見下すことになるわけである。
 
楽山は、肯定と否定を書いてどっちつかずで、それをもって責任をいっさい負わないでいいと思っていて、楽山を信じても不満と不全感が残るだけでしょう。楽山は、自己の利益以外何も考えていないからです。
 
楽山が、はっきりしたことを言わないのは、言えないからであり、楽山の知性と感性が鈍麻して整わないからです。だから、他者のことを、こう言っている、こう言うことになる、といった書き方しかできないわけです。
 
他には「かなあ」「ていうか」「否定できない」「と言えなくもない」という書き方をしますが、これらは、表現を曖昧にしただけで、中身は、ある時点では、肯定か否定かのどちらかなのに、あとで、責任は負わないのです。こういう人と付き合うことだけは、自分のためにも、他者のためにも、やめてほしいです。
 
大概の信者は、自分がマインド・コントロールされていることは認めないけれども、実際のところは上の通り、HSにおだてられ、操られ、自我を肥大化させ、他者を見下し、傲慢発言を繰り返している信者は決して少なくないのが現実だ。
 
楽山のことを、思慮深い、やさしい、バランスが取れている、などと思うのが、一番恐ろしいところの、だまされた経過になります。楽山の心の底にあるのは、我欲と、それが満たされないための深い怨念だけだと思います。
 
当然ながら、大勢いる信者の中には上の指摘には当てはまらない立派な人はいるだろうが、そうでない人は、この点について、ちょっとだけでも自らをよく振り返ってみてはどうかと思う。
 
こういう優しさ芝居が、楽山の得意技のようです。これを、気遣いと受け取ってしまうと、楽山の狡猾な細工の罠にはまることになります。必ず裏切る人、というより、根本的に、最初から、他者のことなど、何も気遣わない自己中の病的ナルシスト、それが、楽山です。近づいてはいけません。
 
 
 「HSの自由論」と「一般的な自由論」
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 一部省略。
 
権利には義務が、自由には責任が、必ず伴います。
 
自分は、何の責任も果たさないまま、他者のことばかり書いている楽山です。
 
*自由とは?
自由について、高橋昌一郎氏は、次のように書いている。
いずれにしても、現代の日本では、仮に誰かが「イワシの頭」を祭り上げて拝んだとしても自由であり、そのために御殿を建てても、信者を拡張するために勧誘活動を行っても構わない。それが「信仰の自由」である。
だが、仮に「イワシの頭」教団が、公序良俗に反する「非論理」的な見解を宣伝し、「反科学」的な思想を信者に植え付け、その社会的影響に対して「無責任」であれば、その理由を問い掛け、分析し、批判することも自由である。これこそが「信念の自由」であり「学問の自由」なのである! 
・「高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ」事件の真相!|高橋昌一郎|note
 」
これは自分にもよく分かるし、納得できる考え方である。
 
自由には、必ず、公共の福祉に反しない、ということが条件となります。
 
ゆえに、楽山の暴走に対して、批判をする事由があります。
 
楽山は「納得できる」と書いていますが、そのための公共に対する責任をいっさい負わないのですから、言論をする資格はないのです。
 
*過去の議論
 ちなみに、自由については、信者とはこんなやり取りをしたことがあった。
・★ 言論の自由について (言論の場の自由など) - 楽山日記(LD)
・発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~ - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
・「発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~」を読んでみた。- 楽山日記(LD)
 」
HS(幸福の科学)では、神である大川隆法を批判するのは、傲慢であり、言論の自由のはきちがえであるということになっているようだが、こういう理屈は教団内では通用しても、一般には受け入れられることはあるまいと思う。
 
明確に言えることとして、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由はありません。
 
自由を、いちばん履き違えているのは、楽山その人であります。
 
 
傲慢の闇2

傲慢の闇
 
 
(2020年11月21日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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