楽山の不細工
 
 ひさしぶりに、信者ブログを見てみたのだが…
 2020年11月23日 楽山日記(LD)
 一部引用省略。
 
 
楽山の連投です。野球と違って、楽しみにならず、何かのためにもならず、常識というルール違反のボークばかり投げてきます。とても醜い悪あがきです。
 
この性懲りの無さは、楽山の目的が、正気を失って、自尊過大にのぼせて、常識的判断力を失う段階にあるからです。
 
飢えた動物の貪欲だけがあり、恥を感じず、失敗を認めず、物事の薄皮だけを投げてくるのも、自分を見ておらず、自分の醜さを、まともだと思い込んでいるからなのです。
 
ふつう良い意味で使われる言葉を、向けられた批判をかわすための芝居に使い、その結果、良い意味を台無しにして悪用する楽山の狡猾さが表れています。
 
それは、"反省" など、今までもありましたが、恐らく体質的なもので、深みがないから、そのたびに、見抜かれて、的外れの文脈となり、その都度、前後関係から否定されてゆく楽山の悪趣味です。
 
良い言葉を、けなし言葉、および、自己正当化の手段として悪用して、けがしてゆく楽山の底意地の悪さが表れています。言葉を選んで細工しては失敗し、不細工の度合いが増してゆきます。
 
*アテツケ
 LEO氏は、相変わらず、アテツケ記事を連発してるようだ。
・自分を変えること 人間関係力の重要性
・洞察力を身に着けるには
・ジョン・レノンの霊言、文学者たちの霊言、を読む
・屁理屈を言う人間について
 」
 
キリスト教など宗教に、有名人の名をあげて、その発言の都合の良いところだけを引用して、いちばん、タチの悪い当てつけをずっとしてきたのは、楽山その人です。
 
*ブーメラン
記事をざっと眺めたところでは、自爆、ブーメランになっているところも相変わらずだ。
 
今まで、楽山が言ってきた、おとしめ言葉が、楽山その人に当てはまって、ブーメランとなってきて、楽山が書くことで、楽山の欠陥を証明してきた、という自爆が起こってきました。
 
まだ、楽山を相手にしている人がいるのでしょうか。詐欺師から、早く離れたほうがいいです。
 
たとえば、ずいぶん前からよくあるHS批判として、「大川隆法は霊とはたくさん話しているが、現実の他者との交わりは、ほぼゼロだ。教団外の他者とは全然交流できていない。教団も他の団体との交流はできてない。世界宗教者会議のようなものに参加したという話も聞かない」というものがある。
信者についても、信者同士でかたまってばかりだというのも、よく言われている。先日のHSUにおける島田裕巳氏の講演の前には、教団側の人物が、HSUの学生には教団の外のことを知る機会が乏しいことを心配する話をしていたともいう。
またHSでは、総裁は神であり、霊言は本物であるとするために、たくさんの言い訳、屁理屈を積み重ねているし、それをそのまま真に受けている人物が、洞察力について云々するというのもおかしなことだ。
 
楽山は、悪口をいっぱい書いています。楽山は、まともな自分の言葉を持っていないので、誰かが言ってたことを引用することになります。また、洞察力が皆無なのをごまかすために、言い訳と屁理屈は、楽山の生業です。そういうことしか書けないのです。
 
これだけ崩れて、これだけ言われても、また書いてくる楽山の精神には、人を寄せ付けない固陋(ころう)の時空があって、訂正不能になったまま、人との関わりなど何も考えず、そこで、偏屈に独り言をして、人をけなし、笑っている楽山の、暗くて陰気な顔があるのでしょう。
 
楽山は、誰からも本気で褒められることはないので、自分で自分を褒める以外なくなり、自分で自分の立ち位置を決めて、立派に見せかけているのです。褒めてくれる人は、皆、楽山に、だまされた人で、そういう人も、実際は、殆どいないのではないだろうか。
 
*自由
あとは…記事の更新日時から行けば、こういう流れはありそうだ。
2020年11月20日
・「HSの自由論」と「一般的な自由論」|楽山日記(LD)
 
既に批判しています。
 
私の批判記事「楽山の傲慢」の後半のほうです。
 
もう一度、私の発言だけ載せておきます。
 
 「
 
自由には、必ず、公共の福祉に反しない、ということが条件となります。
 
ゆえに、楽山の暴走に対して、批判をする事由があります。
 
楽山は「納得できる」と書いていますが、そのための公共に対する責任をいっさい負わないのですから、言論をする資格はないのです。
 
明確に言えることとして、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由はありません。
 
自由を、いちばん履き違えているのは、楽山その人であります。
 
  」
 
2020年11月21日
・ジョン・レノンの霊言、文学者たちの霊言、を読む|LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 」
これはタイトルからすると、霊言の感想記事で、楽山とは関係ないかと思ったが、記事本文は自由をテーマとしてるようだし、たぶん上の流れなんだろう。
でもそれはそれとして、世間的にはカルト呼ばわりされているHSの信者が、天国的な生き方と、地獄的な生き方を見極めて、「本当の意味での自由をつかむことが、大切」というのは、壮大なブーメラン、自虐になってるといえそうだ。
 
自身に返ってくるブーメランにだけは気づかない楽山です。楽山の書いてくる悪口は、大方、楽山に当てはまるという皮肉が成り立ってくるのです。
 
楽山は「本当の意味での自由をつかむ」どころか、我執の自己顕示欲だけで、人をあざけることしか出来ません。楽山は、詭弁と誘導によって、「自由」を、むしろ、人々から奪って逝く体質の持ち主です。相手にしないでください。
 
ここでの、「自虐」は、意味不明です。ブーメランだから自分に返ってきて自分が苦しむ、ということでしょうか。自虐というのは、自分で自分をいじめる意味で使います。
 
自虐の根拠が、ブーメランなら、ブーメランの根拠を示しておらず、根拠を根拠としている不成立の矛盾であります。ブーメランの物理的?論理?だけで、物を言ったつもりの楽山です。
 
こういう、嫌らしいだけの、いい加減な、文章が、楽山ブログなのです。真実の追求からは、ほど遠いところで、独り芝居をしている楽山です。
 
*HSにおける自由
ついでに書くと、記事で紹介されている霊言本は、ツイッター上で笑いの種にされていたので、書店に行ってチラ見したことがあるけれど、太宰治霊はある女優について、脱ぎっぷりがよい、おっぱい揉み揉み、やらせてくれそうと言ってたし、オノ・ヨーコ守護霊はHSの世界観に基づく話は雄弁に語っても、自身の作品、パフォーマンスなどについては語れていないようだった。
 
私は、HSが正しいとも間違っているとも書いたことはないと思いますが、それは、HSについては、私が、よく知らないからです。
 
私の批判の対象の楽山については、約1年半の批判の経過で、だいたい、その悪行と偽善の文章での表れを知っているので、楽山に誰かを批判する資格などない、ということを書いています。
 
HSの霊言は、概して、HSの世界観による話はたくさんしても、霊人本人の専門についてはあまり語れないものだけど、オノ・ヨーコ守護霊も例外ではなかった。
こういう霊言を本物だと信じることが、HSでいう信教の自由であり、「本当の意味での自由」であるというならば、それに同意することができるのは熱心な信者以外にはいないだろうと思う。
 
楽山の言に従って「本当の意味での」奴隷的な心になっている人たちが、一日も早く解放されることを願ってやみません。人生を破壊されたくないのなら、罪悪感も羞恥心も感じることのできない楽山という病質者に近づいてはいけません。楽山というHNを覚えてください。
 
*ズレ
さらについでに、よくあるズレについても書いておこう。信者とアンチの間では、こういう認識のズレがよくある。
アンチ「このHS批判は正当な批判であり、正当な批判は言論の自由である」
信者「それは正当な批判ではなく、誹謗中傷である。アンチは誹謗中傷を言論の自由としている。それは自由のはき違えだ」
アンチ「大川隆法のここはおかしい。大川隆法は神ではない。こんな神がいるわけない」
信者「大川隆法総裁は地球神エル・カンターレである。これを信じないアンチは神を冒涜し、信仰を否定している」
アンチ「霊言のここはおかしい。この霊言は本物ではないだろう」
信者「霊言は宗教的な秘儀である。アンチは宗教を冒涜している。霊を信じない唯物論者だ」
アンチ「大川隆法の話は、ここもあそこも辻褄があわない。論理的におかしい」
信者「些末なことをあげつらって屁理屈をいうものではない」
アンチ「ORは神ではないし、間違ってると納得したので退会した」
信者「ORのせいにしてるが、ようは神を信じ、正しい道を歩むことができず、自己変革を放棄して、退転したということだろう」
アンチ「マインド・コントロールから抜け出し、自分を取り戻し、自由に生きたい」
信者「正しい真理に従わず、エゴのままに、わがまま勝手に生きようとするのか」
アンチ「HSはカルトだ。カルト被害者を少しでも減らしたいので、HSの危険性について警鐘を鳴らしたい」
信者「確信犯的に、地球神エル・カンターレとその団体を攻撃し、救世活動を邪魔するのは悪魔の所業だ」
 」
 
水掛け論のようですね。これをあげて、楽山は、何を言いたいのでしょう。それとも、楽山が、また恣意的に、けなしやすいものを選んで、引用しているのでしょうか。ひょっとして、楽山が、改めて、編集しているのではないかとさえ思えるほど、噛み合っていません。
 
こんな風に、信者とアンチには認識のズレがたくさんあるが、それにも関わらず一部の信者は、アンチの意見を省略して、自分の意見だけを書き連ねることがある。たとえばこんな風に。
「アンチは自由の何たるかを知らず、誹謗中傷を言論の自由だと言い張り、神、宗教、信仰を冒涜し、屁理屈屋で、エゴイストで、わがまま勝手で、真理を解せず、それに従うことを放棄した退転者で、確信犯的に悪を為す邪悪な存在だ」うんぬん。
信者とアンチの議論を知らない一般人が、これを読んだらアンチに対してどういう印象を持つかは容易に想像がつくし、そのことからいえばこれは悪質な印象操作といえるだろう。
 
こういうところです。楽山は、印象操作と思われることを指摘しているつもりでしょうが、もっと、さらに、無反省に、無責任に、印象操作を刷り込んできたのは、楽山その人です。盗人猛々しい。自らを省みない楽山の厚顔無恥が、また、楽山自身によって加速されて明らかになっています。
 
そして自分の見るところでは、LEO氏の他者批判は、こういうやり方になっていることが多いし、どうやらこれを改めるつもりはないらしい。
 
盗人猛々しい厚顔無恥は、楽山の、いつもの、印象操作、詭弁、事実の選択、刷り込み、そして、無反省と無責任、という、体質からは、手が込んできたようでも、言葉の皮相だけを集めて、並べるだけというやり方は、いつも単調で、「本当」と「自由」を書かない、書けない、という、致命的な欠陥については、改まったことがないのです。
 
善意の第三者が騙されることのないように、この点、注意喚起しておきたいと思う。
 
楽山は、"注意喚起" という言葉さえ、だますために使うのですね。今まで、どれだけの人が、だまされてきたかについて、私は知りませんが、すべての善意の言葉を、偽善への誘導の、だまし言葉に変えて準備しているのだろうか。荒みきった人格・・恐ろしい気がします。
 
◇◆ 追記 2020.11.23 ◆◇
*参考
丁度、今ツイッター上にて、上で示したパターンの議論があるので、参考として貼っておきたい。
信者(KENTO氏)はアンチは悪口をいったとし、アンチ(月影氏)は私は悪口はいっていない、あなたは私のどの言葉を悪口と判断したのかと問いかけるも、信者はそれには答えず、悪口をいった、悪口をいったと繰り返し、すべてアンチが悪いと言わんばかり…という流れ。
 
楽山は、いかなる批判も、聞く耳を持たないように、読む目と心を持たず、悪口や、荒らしと見なして、当てつけてきます。いったい、どの口で悪口のことを言っているのでしょう。
 
批判も支援もする資格のない者が、記事の量で勝負するかのように、減らず口の記事を書き続けています。こういうどうしようもない男は、いかなる真実にも、かかわる資格はないと思います。
 
私見ながら、この陥穽に落ち込む信者は、物事を客観的、多角的に考察することが不得手で、自分の主観を即、真実だと思い込みがちな人が多いように思う。
 
楽山こそ、「この陥穽に落ち込む」自己愛自己中なのです。まさに、楽山こそ、「物事を客観的、多角的に考察することが不得手で、自分の主観を即、真実だと思い込みがちな人」なのです。
 
だから、弁明も反論も、全く成り立たず、にもかかわらず、同じ悪口を書き続けています。特に、最近は、人のことを言うと、必ずといっていいくらい、楽山が、自身の崩れ方を書く始末になっています。自分を見ることのできない人格が辿る宿命なのでしょう。
 
だから、反論されればされるほど、「私が悪口と判断したらそれは悪口だ、私が屁理屈と判断したら屁理屈だ、あなたがそうでないとするのは言い訳だ、ごまかしだ、自己正当化だ」と意固地になってゆく。恐らくは、大川隆法は神だとか、霊言は真実だとか信じ込み、どんな批判、忠告も受け付けないのも、こういう性質が影響しているのだろう。気の毒なことである。
 
楽山の場合は、批判されればされるほど、当てつけ、悪口、読者への印象操作、詭弁、そして嘘を吐くことで、反論したかのような体裁を捏造しています。何も成り立たなくなると、虚偽に走るしかなくなる、恐らく、人生そのものも、同様になる、という見本でしょう。
 
まさに、楽山は、言われたことを理解できないので、無視して、こうして、他者に言っているように見せかけて、間接的に「言い訳だ、ごまかしだ、自己正当化だ」と言われていることを、むしろ、楽山が、愚にもつかぬ言い訳、言い逃れにして、虚しい保身をしてくるのです。
 
つまり、性懲りもなく言い張っているだけなのは、楽山であります。これだけ、他者の意見に不感不応の無視で、嘘ツッパリしていると、高等感情の鈍麻のために、顔貌も、それに合わせて、表情の乏しい、うっすら冷たいボンヤリ顔になってゆくでしょう。
 
楽山は、気の毒以上に、邪悪です。さらに、荒(すさ)んでゆくでしょう。
 
"楽山" というHNをメモして、覚えて、近づかないように、注意・警戒してください。
 
 
すさむ

すさむ
 
 
(2020年11月24日)
 
固陋(ころう)=古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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