楽山のブーメラン症候群
 
 ひさしぶりに、信者ブログを見てみたのだが…(2)
 2020年11月25日 楽山日記(LD)
 (リンク、画像など、省略)
 
 
楽山は、自らの罪と偽善と思い込みと的外れをキリスト教に向けたことを、何も反省することなく、無責任に、今回も、HS批判を書いてくるのですが、もはや、ヒステリックに転換して、怒りをHSに向けています。ブーメラン症候群は、造語です。失礼。
 
言うまでもなくキリスト教とHSは違いますが、前にも書いたように、私は、信仰の最悪の敵である楽山を批判しています。したがって、この記事では、HSの言い分ではなく、楽山の解釈を批判しています。何故なら、楽山には、他者を批判する資格など、全くない偽善者だからです。
 
*いつも通り
LEO氏は、またもやアテツケ記事みたいのを書いてる。そして今回もブーメランになってる。
・そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない
・わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならない
・責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ち
・光を選び取れ(1) 月刊「幸福の科学」より
*ブーメラン
まず、ここは特大ブーメランになってる。
キリスト教系を称する邪教というのは、十中八九、聖書のことばを自分流に勝手に解釈して、本来の教えとはかけはなれた、正反対のことを主張していることが多いのではないか。
 
ブーメランは、楽山が投げ、楽山に返ってゆくことを、前から言っていますが、お構いなしのようです。以下の多くの批判の主張は、楽山に返ってゆくのです。
 
そのキリスト教を、神が存在するなら悲劇は起こらないじゃろと、小学校レベルの幼稚な理屈で決めつけ、文句を言ってきたのは、楽山その人であります。
 
そのことから、楽山には、深い思慮もなく、深い共感性もなく、神を安い机上の屁理屈で、おとぎ話かオモチャのように扱い、不在と決めつけてくる、という、寒気のするような壊れた解釈と、楽山の人格障害が明らかになっています。
 
聖書を勝手解釈しているという点については、HSがまさにそれだろう。たとえばHSの聖書理解はこういうものだったかと。
聖書の神…エロヒムとは大川隆法のことである。大川隆法は天上界から地上のイエスを指導し、イエスからは「我が父」と呼ばれた。
聖書には神以外の言葉も混じっている。預言者は啓示を送ってくる霊存在の正体をはっきりわからなかった。よって地下の者の言葉も一部に混じっている。
聖書の欠点として、霊界の様相や転生輪廻の仕組みについて詳しくないことがある。
 
聖書を勝手に幼稚に、解釈というより、決めつけているのは、楽山です。聖書についても、深いところは何も分かっていません。神を、人か物のように扱う者に、聖書を語る資格はありません。
 
そして、そのような欠陥を持つ楽山には、他者を批判する資格もありません。楽山は、誰の意見も聞かず、今後も続くであろうところの、自己顕示欲と、まとも芝居~妄想によって、宗教と思想を侮辱し、おとしめるだけの、元々破れた安物のホースから辺り構わぬ迷惑を噴射しているに至っているに過ぎません。ヒステリックに書きなぐるパニックのようです。
 
イエスの再臨とは、イエスが大川隆法を通じて霊言をすることだった。大川隆法の霊言によって、イエスは再臨した。
パウロは親鸞として生まれ変わった。十二弟子は浄土宗系の僧侶として多く生まれ変わった。矢内原忠雄は十二弟子の生まれ変わりで、内村鑑三、カントなどは旧約の預言者の生まれ変わりである。
イエスの過去世はアトランティス大陸のアガシャー、エジプトのクラリオなどであり、いずれも悲惨な最期であったが、それはイエス自身がそのようなことにひかれる自虐的精神を持っていたためである。一方、大川隆法の過去世は、仏陀、ヘルメス、リエントアールクラウド、ムーなどであり、いずれも悲劇に見舞われることなく、成功をおさめている。
若干、聖書以外にも話は広がってしまったが、こんなことを主張するHSの信者が、邪教は聖書を勝手解釈する云々といってもブーメランになるだけだ。
 
今回は、HS批判をすることで、楽山自身への批判にブレーキがかかるとでも思っているのでしょうか。実際は、楽山批判を加速しているわけですから、楽山の言が、楽山を責めることになっています。これも、批判の、ブーメランです。
 
楽山に、聖書解釈を語る資格も知性も感性もありません。もっとらしく、批判しているつもりのようだが、決して、受け取らないでください。楽山は、自分を低みに下ろすことのできない人です。今まで隠していた高慢が表れつつあるようです。
 
批判するための節操を、まるで持たない楽山が、唾を飛ばして、「邪教は聖書を勝手解釈する云々といってもブーメランになるだけ」なのだと言っても、ブーメランになって、楽山自身を表すだけなのです。
 
*HS的な解釈
ここは、いかにもHS的な勝手解釈になってる。
幸福の科学では、キリスト教系の作家の霊言というのが、すでに何冊か出ていますが、三浦綾子さんの霊言はまだ出ていません。
なので、いったいどういう立ち位置に立たれている方なのかは、定かではないのですが、
とある作家は、三浦綾子さんと同じようなところにいますか? といった問いに対して、
 … みたいな返事をしていたので、同じくクリスチャン作家といっても、その信仰心の深さと、あの世で住まう境涯はやはり違うんだな、と感じた次第です。
わたしはきっと、光の天使の世界にこの方は帰っていると信じている者ですが、
 」
HS信者が、三浦綾子のことをHSの世界観に当てはめて、七次元以上だとか何とかいうのは、三浦綾子本人やキリスト教からみたら勝手解釈以外のなにものでもないだろう。
ちなみに、ずいぶん前にHS職員が、「三浦綾子氏はいろいろ言っているようだが、きちんと説明すれば分かってもらえるはず…」と言っていたのを聞いた記憶がある。全集か何かで調べようと思いつつも放置したまんまだけど、もしHSに批判的なことを言っていたのだとしたら、光の天使認定には、霊界に還ってから改心したとか理屈が必要かもね。
 
霊が分かるっぽい自覚から、霊言など、超常のことを語り、キリスト教を侮辱して、のちに、クリスチャン芝居をして、それで中和したかのように、責任問題は発生しないと言ったのは、楽山その人であります。
 
そういう、常識的思考から外れて、すっ飛んだ自己愛の屁理屈で、楽山は、書きまくっているのです。楽山が、自分の言うことによって、自分が斬られるのも、当然であります。
 
*読解力
これは誰のことを言ってるのか分からないが、もし楽山のことを言っているのであれば、勝手解釈ということになる。
神とはこれこれ、こういうものではないか。神は何々であるか、どうのこうの、といって、神を理屈でもって論じて、わかった気になって勘違いする人間もあらわれてきかねませんし、現にいるでしょう、そういう人。
これは、認識の対象、あるいは、知識的な、知的なる分析や論理でもって、神を解明し得るという、知に偏った見方ですね。それに陥っていることに、当人がおそらくは気づいていないのでしょう。
知だけでは、神はわかりませんよ。認識の対象としてのみ、理解できると思ったら大間違いだと、わたしは思います。
 」
自分は、基本的には、人には神のことは分からないという不可知論的な立場だ。
 
楽山の大嘘です。今さら、何を言っているのでしょう。明らかに神の存在を否定したくせに、分からない?・・というのとは、全然違うのです。
 
こういう発言は、楽山の詐欺師的な体質が明らかになります。吐き放題の嘘です。だますために、詭弁を企んで言う、困ったら、嘘でごまかす、この楽山においては、発言が、好きなように変わり、好きなように言って、責任を取らないのです。
 
だから、神はこうだとすれば、こういうことになるだろうという仮定の話をしたり、自分の宗教感覚からいえばこう感じるということをいうくらいで、最終的な結論は、やっぱり神のことは分からないということになる。
 
ここにきて、神否定を、仮定の話と言いだしました。神は分からないと言いだしました。嘘吐き楽山です。こうなれば、こうなるだろう、などと言うことが、神について、判断できると思っているのは、理路を学習していない未熟と、思考の、自己愛による破壊であります。
 
楽山は、あらゆる信仰と宗教と思想の敵です。あからさまに嘘を吐いています。
 
だから、ぽん吉氏から「君は理屈をこねるだけで結論はないのか。はっきりしろ」とツッコミを入れられたりする。
もし楽山の文章を読んで、理屈で神が分かると考えてる人だと解釈するなら、その人の読解力は、ぽん吉氏に劣るということだ。
 
理屈で、神が分かっているかのように、神の辻褄をけなして、否定したのは、楽山その人であります。また、今さらのように、白々しい嘘を吐いています。こういうことを何とも思っていない、平気で言ってくる、どうしようもないワルだから、できることです。
 
*すり替え
ここは、すり替えになってる。  
「君よ、涙の河を渡れ」(幸福の科学の会内経典)でも、上にあげたような心のありようの大切さを、項目別に教わることが出来ますが、従順、という気持ちがとても重要なんですよね。
これに反発するようであっては、神仏の教えに素直にしたがう気持ちがあるとは言えないな、とわたしは思うんですけどね。
自分の自我を優先して、反発する心があると、従順にはなれないし、従順かどうか、というチェックポイントで赤点になることでしょう。
だからこの、従順さ、というのは、とても大事なポイントかと思います。
 」
「君よ、涙の河を渡れ」の現物は確認していないので断定はしないが、これは噂に聞くところによれば、何も考えず、判断せず、大川隆法を信じてついて行くべきことを説いているものだという。
「君よ、涙の谷を渡れ」(画像なので省略)
 」
HS的には、「神=大川隆法」だろうから、「大川隆法に従順であれ」といっても、「神に従順であれ」といっても、どちらもさして違わないかもしれない。
でもキリスト教的には、大川隆法は神ではないから、「神に従順であれ」とはいっても、「大川隆法に従順であれ」とは言わないだろう。それどころか、大川隆法は神でも救世主でもなく、従ってはならないと説くだろう。
にもかかわらず、LEO氏の書きぶりだと、HSも、三浦綾子も、キリスト教も同じことを説いているかのような口ぶりだ。
これはすり替え、捏造、誤魔化しであり、よくないことだ。
 
今まで書いてきたように、「すり替え、捏造、誤魔化し」だけでなく、詭弁、刷り込み、印象操作など、邪悪の限りを尽くしてきたのが、無反省無責任の楽山その人であります。
 
もはや、楽山には、肯定してはいけないだけでなく、あわれみも掛けてはいけないと思います。
 
*偽装
ついでに書くと、今度の記事タイトルは上のようなすり替えが酷い。
まずHSの定義は、およそ次のようなものだろう。
真理→仏法真理
神→大川隆法総裁(主エル・カンターレ)
これに基づいてタイトルを決めれば、こうなる。
そこにふくまれている宝石のような「仏法真理」を見つけなければ、意味がない
わたしたちは 謙遜に、創造者なる「主エル・カンターレ」の前に、頭を下げねばならない
責任を他の誰かのせいにしようとか、「主エル・カンターレ」のせいにしようとかいう気持ち
でも実際のタイトルでは、HS用語ではなく、より一般的な言葉にしてある。
そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない
わたしたちは 謙遜に、創造者なる神の前に、頭を下げねばならない
責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ち
という風に。
ようするに、意図的かどうかは分からないが、タイトルでは、HS色が薄めてあるということ。厳しい言い方をすると、HS用語を使わないことで、一般的な宗教について語っているかのように偽装してあるということ。
対機説法として、そのような言い換えをしていいるのかもしれないが、見方によっては、正体を隠して近付いてくるカルトのやり口と同じであるし、これはよくない。
 
楽山は、詭弁色を薄めて、嘘をまことに見せかけてきました。今もそうです。そんな細工が、言論においては成り立たないことを、楽山には、どこまでも、突きつけなければいけません。まさに、「正体を隠して近付いてくるカルトのやり口と同じ」だった楽山が、ぐちゃぐちゃに、ボロを出しまくっています。
 
*傲慢
これは宗教信者にありがちな傲慢さだ。
悔い改めなくば、許されることはない。神の許しも得られない。
これはあの世における、天国と地獄の世界分けを見ても、確かにそうなっていることですね。
悔い改めがなくとも、どんな人でも神は許してくださる、救ってくださる、というのは間違いですね。霊的世界の実相を知ってみれば――地獄の存在と、地獄で苦しむ不成仏霊たちの姿を見れば――そんな安易な許しと救いの世界になどはなっていないことがわかります。
神さまが人間に与えた自由と責任の法則のもとに、許しの前には、反省と悔い改めが要るのです。 
 」
神は絶対で、超越した存在であるとするならば、ゆるすかどうかは神が決めることであって、その御心は人には分からないことだ。それにもかかわらず、「神はこのような基準によって、このような判断をする」と断言するのは傲慢でしかない。
 
この記事で、楽山は、神のことは何にも分からないという主張のようです。神をおもちゃのように扱い、いじって、否定してきた以前とは、ずいぶん、変わってきています。しかし、楽山ならではのことでもあります。
 
つまり、自他の発言というものを、悪用はしても、無反省・無責任に表れているように、人の意見にも、自分の発言にも、何も重みなど感じていない軽薄者であることが、ここで、楽山によって証明されていることになります。ならば、ブログの言論の場に出てくるな、としか言いようがないのです。
 
こうなると、楽山は、ネットの、ワーム、バグ、ウイルス、修復不能なエラー相当の、根性が悪いというより、人間の根性を持っていない有害物でしかないということです。
 
人にできるのは、「〇〇教の教義では、神はこれこれこのような判断をすることになっている」とか、「誰それがいうには、神はこのような考えを持っているそうだ」とか、「自分にはどうも、この話が本当らしく思われる」という程度のことだ。
 
論理的思考に見せかける楽山の詭弁で、「ことになっている」「考えを持っているそうだ」「らしく思われる」よって、他人事のように、責任を負わないという理屈なのです。
 
実に、楽山自身が、楽山の詭弁の主軸であるボンヤリ言語の曖昧表現によって、いかに、無責任に、放言してきたかを、説明しています。
 
しかし、「という程度のことだ」という認識に、楽山の無責任の本質が表れています。楽山は、元々、言論に、何の重きも置いていないのです。そういう無責任男は、結果として、何もヒントになることすら示せず、他者を疲れさせる "という程度のこと" しか言えませんから、言論をする資格はありません。
 
でも特定の宗教を信じすぎると、「神はこのような基準によって、このような判断をする」という風に、平気で神のことを決めつけがちだ。これは宗教を信じることで、神から遠退くということであり、ここに宗教の弊害がある。
 
これが、楽山の従来の決めつけに近いものです。決めつけがちだと決めつけています。つまり、決めつけるな、さらに、所詮、宗教は、決めつけに過ぎないと言いたいのでしょうが、こういう、軽々しい結論になるのは、楽山には、宗教と信仰がもたらす恩恵が、まるで、理解できないからです。
 
人が信仰から受け取ることさえ分からないなら、黙っておれということです。
 
これは霊界認識についても同様だ。霊界は心の世界のことだとすれば、心というものは「~という傾向がある」「~という場合が多い」とはいえても、「こうすればこうなる」と断言できるものではなかろうし、それなら霊界も「こうすればこうなる」とは言い切れぬものだろう。
にもかかわらず、特定宗教の教義を信じてしまえば、「霊界にはこういう法則がある。だから、こうすればこうなる」と安易な考え方に陥りがちだ。ここは注意すべき。 
 
また、愚にもつかぬボンヤリ言語を、曖昧表現の語尾を、ネチネチ印象を、宣伝をしています。神が全能なら悲劇は起こらないはずだと神を否定したのは、楽山その人であります。
 
信仰は、個人の体験と共感性から生まれてきます。その体験がなく、その共感がない楽山には、もはや、何も言ってほしくないのです。どうか近づかないでください。
 
*無慈悲
月刊誌の記事を読んだが、どうやら神義論に関連した話のようだ。
スケールの大きな視点からの、この世界の現状、日本と世界、それから、この世の不幸、不合理に見える様々なことも、仏教的立場から見たら、よくあること、というお話は、目から鱗です。 
 」
悲しみや、苦しみに意味を見出せば、それを乗り換えやすくなるというのはいえる。「これは~のためだったのだ」みたいな考え方は、心の癒しになりえる。
 
癒されているなら、このような記事は書かないでしょう。「悲しみや、苦しみに意味を見出せば、それを乗り換え(乗り越え?)やすくなる」などと、よく言えたものです。楽山は、悲しみの感情はなく、自分が気持ちよくなることしか考えていないと思います。
 
しかし、楽山は、『「これは~のためだったのだ」みたいな考え方は、心の癒しになりえる』と言っています。自分で、因果を、「だったのだ」で、決めつけることを肯定しています。何を言っているのでしょう。ここにきて、ひどく単純すぎる理路しか組み立てられない楽山であります。
 
歴史は繰り返すというのもその通り。でも一人一人の人間にとっては、自分が体験することはすべて一回きりだし、「よくあること」では済まないものだ。
だから悲劇に見舞われた人に対して、第三者が「それはよくあることです」というのは、無慈悲なことだ。「それには深い意味があるんです」というのも出過ぎたことだ。
 
「それはよくあることです」みたいな、的外れの慰めは、高等感情の鈍麻している楽山が言ってしまいそうだと感じます。「それには深い意味があるんです」と言って、その意味を語れないで、ボンヤリ言語で逃げ出す楽山を、かなり明瞭にイメージできそうです。
 
どうやら大川隆法は、原爆投下は神の計画だったというようなことをいって、田原総一朗からそんなのは被害者一人一人からしたらたまったもんじゃないと呆れられたときから少しも変わっていないらしいし、愛弟子を亡くしたときに、「天は私をほろぼした。天は私をほろぼした」と慟哭した孔子とは全然違うようだ。大川隆法は愛に欠けるという指摘があるけど、どうもこれは必ずしも見当違いというわけではなさそうだ。
 
楽山は、愛に欠けているので、共感性がなく、洞察力がなく、温もりも潤いもなく、悲しむことも思いやることも出来ず、ゆえに、良さそうな言葉だけを、滑らせています。
 
そのように、楽山の書く文章には、乾燥した言葉の、すり切れそうな羅列であり、それゆえに、説明が出来ず、納得させることが出来ず、代わりに、無反省と無責任と無視で、楽を確保しているだけなのです。
 
実際には、楽山の文章は、自己顕示欲と自己中心から出た有害な排出物なのです。どうか、決して、楽山に関わらないでください。
 
 
はいせつ

泥状の排泄
 
 
 
  「もしも天があるなら、」(『黄昏の岸 暁の天』小野不由美著)
  2020年11月25日 楽山日記(LD)
 
 
悪口を惜しまない楽山です。狂ったように書いています。もはや、亡者から鬼になっています。
 
*神の完全性と神義論
「十二国記」を読んでいたら、神義論(弁神論)に関連してる台詞があったので、メモしておきたい。不条理に悩み、天帝を疑う李斎に、慶王が語った言葉。
もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」
〈省略〉
「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば、必ず過ちを犯す」
〈省略〉
「人は自らを救うしかない、ということなんだ――李斎」 
(『黄昏の岸 暁の天』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.390)
 」
こうしてみると、神は不完全だとすると、この世の悲惨を理解し、受け入れやすくなるが、神は完全だとすると、途端に、なぜこんなにも悲惨があるのだと疑問を持たざるを得なくなることがよく分かる。
 
楽山の、天狗鼻は、天井知らずのようです。神が不完全なら、受け入れやすいと言っています。神を思いやるような高いところに、彼の自覚がのぼせ上がり、もはや、信仰は、信仰でなく、楽山の友情に支えられるとでも言いたいのでしょうか。楽山の思い上がりの天井?は、地獄のようです。
 
宗教も信仰も知らぬまま天井知らずに思い上がり、自棄(やけ)になり、ついに、狂ったようです。言葉のブレーキをかける節操がないのです。これも、裁きの成り行きかもしれません。楽山が、楽山の正体を現し始めました。
 
神が、不完全なら、人を救うことが出来ないでしょう。楽山のような偽善者を見分けて、裁いて、除くには、人間よりも、はるかに優れた洞察力が必要です。
 
神を知るための情緒も持ち合わせていないのに、神を知ったつもりで思い込み、そして、決めつけ、そして、暴言の数々を放ち、それは、何よりも、人間としての弁えを失ってゆくプロセスなのです。
 
しかも上に提示されている疑問は、既に、こちらが批判して、楽山が返せなかったことです。何度も、何度も、同じことを書いてきます。何も言えなくなるとワーワー大声を繰り返すのと同じです。
 
例えば、疑問がない、全部分かる、思い込む、辻褄が合う、・・こういう基準で、神の合格不合格を決めているような楽山には、神も信仰も、何のかかわりもないのです。宗教とは、はっきり無縁の楽山です。
 
悲劇があるから、めげずに生き続けるために、信仰が必要なのです。キリスト信仰の救いは、そういう救いであり、何もかも楽しいだけの天国ではないのです。楽山のような嘘吐きの気取りだけの半端者が、遊び半分で云々できるような話ではないのです。
 
キリスト教の神学があれほど巨大なのも、こういうことも影響しているのだろうか…。
それにしても、「十二国記」は面白いな。噂には聞いてたけど、今回読んでみて、大人気の理由がよく分かった。慶王は格好良い。
 
神学が巨大だと言っていますが、楽山の嘘と詭弁と暴言は、人の心の隙間に入って、人を腐らせる疫病のようなものです。
 
「十二国記」は、異世界、つまり、おとぎ話、怪奇物語、妖怪物語、ファンタジー小説であり、エンタであり、神について真剣に考える所ではありません。つまり、楽山は、エンタで、趣味で、神と信仰を考えているのです。話が通るわけがありません。
 
「格好良い」「面白いな」に、楽山の幼児性が表れています。前から言ってきたことが、間違いではなかったと思います。楽山は、遊び半分で、まるで真剣味がないことを、今、表しました。楽山に、決して、関わってはいけません。近づいてはいけません。
 
 
(2020年11月26日、同日一部修正、さらに記事追加)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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