楽山の身の程知らず
 
 「身の丈論争」を読む
 2020年12月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、また、とんでもなく長い記事を、ほぼ他者の引用だけで、書いてきました。まるで、高みの見物でもしているかのように、楽山は、ところどころボヤキ程度にポショポショ語っているだけです。それによって、楽山は、自分の責任から目を背けたいようです。
 
ここのところ、批判ばかり書くことになっています。全部引用する気には、到底なれませんので、かなり省略して、抜粋して、おもに楽山の書いた僅かな文章を中心に批判します。しかし、楽山は、ほとんど中身のある文章を書いていません。
 
*ブーメラン
こういう構造は、ますます酷くなっていると思う。
KKってさあ、世間への提言・批判を自分とこの教団に置き換えて 
考え直してみたらいいのにと思うことばかりなんだよね。 
内部は北朝鮮さながらなのに、欧米的な洗練が身についてると勝手に思い込んでる。
 」
*深いお考え
次は後編から要点抽出してみる。
これは自分にも、身に覚えがある思考法だ。
総裁が常々おっしゃっていることは
「疑うな」「小ざかしい人間頭で理解できると思うな」ですから 
つまり幸福の科学でいう確固たる信仰とは「疑うな、考えるな」ということです 
一体一万票のはずが全敗でも、考えちゃだめ、疑ったらだめ 
もう、おっしゃることや方向がコロコロと変節しても考えちゃダメ 
まぁそんな感じですよね 
まさに人間やめますか?と言われているようなもので、
わたしには無理というものです 
自分の我といわれればそのとおりですけれど、わたしには譲れない一線がありますから 
カトリックが変なことしだしたらやっぱりわたしはヤメますね
 」
そういえば、選挙の時は、1000万円のエルカンターレ像一体購入で、一万票入るという話を聞いたのだった。総裁が立候補する、やっぱり撤退する、でもやっぱり撤退を撤回するというすったもんだもあったのだった。
 
楽山は、自分の身の丈を考えずに、高みの見物です。HSでの過去の体験を語っていますが、HSが、いろいろな齟齬を来たしているのに、楽山は、自らには瑕疵がないかのように、ふんぞり返って、前から言っているように、評論家気取りなのです。この楽山が、腐った根性だけでコピペしながら、軽々しく口を挿むなどは、全く、宗教の敵としての振る舞いなのです。
 
*確固たる信仰心と道徳的行為
これは聖杯と剣氏の発言。まさに正論だ。
確固たる信仰心って何なのだろうか。それって盲信・狂信と何か違うのだろうか? 
少なくとも神学的な伝統から言えば「確固たる信仰心」とやらには盲信・狂信・ 
イデオロギーの物神化を疑うのが普通ですね。物理的属性を備えていない神の 
存在を人が感得できない、その存在を信じられないのは当たり前ですね。 
神の存在を疑う事と、神を畏れてよき人になる事は全く矛盾しません。 
よって思考や心情が逡巡するのはある意味当たり前なんですよ。 
それはその人が神についてしっかりと考えている事を意味します。 
 」
 
信仰は有無であります。信仰の中に、敬虔、謙虚、謙譲が含まれており、それは、不完全な人間が、完全な神を信ずるがゆえのことです。
 
信仰ゆえに、神を決めつけないことが、最低限必要とされますが、キリスト信仰における確固たる信仰は、そういう、人間としての身の程を知ることを意味しています。
 
ゆえに、確固たる信仰というのは、神の前に、正直以外、持たないことです。
 
言っておきますが、楽山の賛同して引用している『「確固たる信仰心」とやらには盲信・狂信・ イデオロギーの物神化を疑うのが普通』というのは、著しい偏見であり、そういうことになったら、もはや信仰ではないのです。
 
楽山という知恵足らずの勉強不足は、得意気に、キリスト教を偏見で語り、かつ、貶めてきます。
 
神と信仰について、自分はここは理解できるが、こちらはできない、ここは共感できるが、こちらはできないという具合に分けて考える性質で、それに対してLEO氏は傲慢だとか何とか立腹しているようでわけが分からなかったのであるが、聖杯と剣氏の書き込みを読んで合点が行った。ようは、LEO氏は神と信仰を丸呑みするかしないかという危うい断定に陥ってるということなんだろうな。
 
信仰は有無であります。それを、断定できるのは、神だけです。すなわち、人が、正しい信仰を持っているかどうかは、人は判断にとどまります。裁くのは、神だけです。
 
そういえば以前、ツイッター上にて、信者氏が「信仰がないのは動物と同じだ」と言い放って、ぷち炎上になっていたこともあった。これも危うい断定に陥っている例だろうな。
 
人間としての良心がないのは、動物と同じです。楽山は、自分では整ったことを書けないので、動物のように、都合の良い言を求めて、荒い息を吐き、よだれを垂らしながら、人の意見を貪り、また、人の意見を捨ててゆくのです。
 
*100パーセントの信仰
これは舞華氏の発言。こちらも正論。
大川隆法は神だと100パーセント信じて疑わないということは、見方を変えれば、「自分は神を認識できる。神かどうかを判断できる」ということであって傲慢なことだ。
 
楽山が、楽山の理屈で、神を否定するのも、傲慢以外の何ものでもありません。先入観だらけで、理路も整わないのに、神を否定したのは、楽山であります。さらに、それと相容れない、お祈り芝居をしたのも、楽山であります。実に、いい加減、というより、むしろ、何も理解していないのが、楽山なのです。決して、近づかないでください。最悪なのは、楽山です。
 
また、大川隆法を神だとすることは、「神とは大川隆法のような存在だ」と断言することでもあり、これは神に対する冒涜だろう。HS信者からしたら大川隆法は神々しく見えているのかもしれないが、傍からみたら「大川隆法と神様をいっしょにしたら、いかんだろう」ということになるのだからそういうことになる。
それから、100パーセントの信仰とは、言い換えれば完全な信仰ということであろうし、完全は神の属性で、人にはできないことなんだ。もしそれができるというなら、傲慢ということになるだろう。
100パーセントの信仰というのは、考えれば考えるほどおかしな考え方であって、ただのハッタリ、元気づけの言葉でしかないように思う。
 
楽山の悪質な言い分は、神の絶対を否定して、いい加減で済ませるのが、正しい信仰だという雑言であり、ゆえに、楽山には、何よりも信仰に必要な、神に比べて、不完全な人間の経験・謙虚・謙譲が全く育っていないのです。まさに、人間のレベルで、無反省で無責任な楽山は、既に、人間失格なのです。そのような楽山に、宗教を云々する資格も器量もありません。
 
*信仰とエゴイズム
これは聖杯と剣氏の言葉。
疑わずに100%の信仰を求めるのは
キリスト教圏ではカルトだけだ。 
 
キリスト教も一枚岩ではありません。キリスト信仰となると、人ごとに違うところもあるでしょう。しかし、キリスト信仰は、罪の性質、即ち、不完全な罪人である、という自覚がなければ、決して成立しません。これは、ある意味、試金石になるでしょう。
 
その自覚のない者は、不完全だが神が教えてくれる、などという者は、さらに、それを自慢する者は、キリスト信仰のベースにおいて、既に、キリスト者ではないのです。
 
こんな事はキリスト教圏の知識層では当然の議論だ。 
少なくとも今日宗教について学ぼうとする人間でおよそ疑える要素満載の 
神の存在をどうして前提とするのかは各自しっかりと考えておかねば 
ならない宿題なんだよ。神は存在する事に賛成するのか反対するのか、 
意見としては賛成・反対するが、科学的には不可知とするのか。 
君達はこういう知的伝統にも全く無知だから「信仰」ってのが根本的に 
分かっていないんだ。絶対的確信は狂信に過ぎない。
信仰とはもっと知的な精神態度なんだよ。
 」
 
神は、不可知とするとかではなく、不可知であります。何故なら、私たち人間は不完全で罪を犯す性質を持っていますが、神は、完全な存在として、人にとって仰ぐ存在だからです。
 
であれば、神を、その意志と行為を知っているなどというのは、恐れを知らないのであって、信仰者の発言ではありません。狂信というなら、そういう傲慢な信じ込みのことです。伝統がどうとか、という問題ではありません。信仰は、いつも、今、存在しなくては意味がありません。
 
神を思い信じるがゆえの言動においても、人は不完全であり、罪の性質があります。ゆえに、折に触れて、罪人には、正直な告白と祈りが必要です。
 
神を疑ってもなお神の 示したモラルに従って生きる事を自由意志に基いて選択した時、この世界に 
おける倫理的公準は向上したと言えるのではないかな。だからこそ神は神はこの世界を倫理的に完成させる作業を人に委ねられたと言えるんだ。 
 」
 
信仰は、倫理的言動を伴うけれど、倫理そのものではありません。また、歴史的にはキリスト教集団が促した戦争もあります。間違えば、人の確信が、人と世界を滅ぼすので、楽山のような、いい加減な許容の狭量で信仰は語れないのです。
 
即ち、疑いつつもなお、
倫理的に生きる事が重要なんだ。 
そして宗教の歴史が示すように、宗教の示すモラルに従って倫理的に 
生きていく中で、人は神の存在をあらゆる高邁なる価値の源泉の存在として 
感得する事に不自由さを感じなくなるんだよ。 
 」
 
「感得する事に不自由さを感じなくなる」・・神の御心を、不自由なく、感得することが出来ると思ってはいけません。それは、不可能だと考えるべきです。確認のしようがないからです。ゆえに、折々に人間に出来ることは、その時の判断に過ぎないので、正直な祈りと赦しが必要なのです。
 
信仰とはそうした知的作業が伴うものでモーセでもイエスでも大川さんでも 
いいが、誰かが言った事に飛びついて「おら信じるだ」とその人のいう事を 
無思慮に受け入れる事を信仰と言わないんだよ。第一それは 
①自分の信じたい事を言ってくれたから信じている可能性 
②それを信じることで自分に何らかの利得が生じる可能性 
をまるで否定しきれないんだから。 
すなわち自分のエゴイズムの投影を
「信仰」と称している可能性をちゃんと検証しなきゃだめなんだ。
 」
 
検証は出来ないと思います。ゆえに、神への唯一の音信である祈りと、神の赦しが必要なのです。
 
カルト的な人は、神の結論を知りたがります。それは、神の秘密、神秘なのです。
 
また、信仰は、神聖になるために必要なのではなく、人間の唯一の使命であるところの、まともな信仰者という人間になるために必要なものです。
 
ちなみに私は「神が存在すると考える」と問われれば「分からない」と答えるし「神を信じているか」と問われれば「思う」と答える。倫理的に向上を志して生きている人は価値の源泉としての神を受け入れる事はむしろ自然な事だと思うが、自然だからといってそれで「存在すると考える」根拠にする事はできない。
 」
 
人は、神の前に、倫理的に向上することが目的ではなく、不完全でも信仰が成長することを志します。信仰者になっても、罪人であることに変わりはありません。
 
だから、キリスト教系といわれるカルトは、道徳律を守っていると思われても、キリスト者とは言えないのです。どこかに、偽善が潜んでくるからです。
 
信仰に最も近い、人間の心のメソッドは、共感です。信仰を、理屈で語るのは、ある意味、危険であります。また、共感を捨ててしまった者は、信仰を理解できないでしょう。
 
存在の証明ができない以上神の存在の賛否はいつまでたっても不可知なままだが、
不可知な中にこそ
倫理的に神を選び取る事がクリティカルに重要で、
その倫理に賭ける態度を「信仰」と呼ぶのだ。 
そして「不合理なれども我信ず」という言葉はこういう不可知な中から 
信仰を選び取る煩悶が理解できないと分からない言葉なんだ。君らは 
一生わかんないんじゃないか。
 」
 
神を、この地上で、理解することは不可能です。そこで、信仰と、カルトの違いが表れるでしょう。
 
神の良さとか整合性を理解したと思い込んで信じ込むのがカルトです。
 
神は全知で全能で絶対で完全で永遠で不変だということを理解できなくても、イエス・キリストゆえに、合意し、希望をゆだねて、信じ、仰ぎ、祈りにおいて神の前に正直であることに努めるのがキリスト信仰です。
 
自分の見分の範囲でも、熱心な信仰者が、極端にエゴイストである場合は少なくないな。自分を正義の位置において、他人を悪者と決めつけて叩くことに躊躇しないとか。
 
皮肉のつもりのようだが、楽山が不誠実であるために、無反省であるために、無責任であるために、さらに、そのことについて、何の弁明も出来ないのに、何の成長もないために、楽山の記事に、私のブログで、根拠とともに、批判を貼りつけてゆくわけです。楽山は、根拠を示したことがありません。
 
「不合理なれども我信ず」というのは、不合理を承知の上で信じるという選択をしているのだから立派だ。これと比べて、HS信者の場合は、HSの教えは整合性があり、合理的なものだとしたうえで信じている人が多いのは残念。
 
ここで、「不合理を承知」を立派だと、楽山が言っているのは、宗教を、いい加減にしか考えないし、理解しようともしない楽山に、ただ、都合がよいからです。
 
正確に言うと、神は、人間から見ると、不合理に見えることがある、ということです。
 
極めて悪質な楽山の無理解が、気安く、神に、不合理というレッテルを貼ろうとするのを、見逃すことは出来ません。無理解な上に尊大なのが、救いがたい楽山です。
 
HSには議論ができる人が少ないのも、たぶんこれが一因だろう。エルカンターレ信仰の不合理性を自覚しないから、トンデモ論理をまっとうな理論だと思い込んで語り、大恥をかくことになる。もっと信仰について真剣に考えればいいのにと思う。
 
楽山は、信仰を真剣に考えたことなど、一度も、ありません。楽山の文章には、宗教など、いい加減で、どうでもいい、という考えしか、表れてきとことはありません。このように、楽山が、忠告めいたことを言うとき、それに、いちばん背いているのは、楽山その人なのであります。
 
*緘口令
これは信者氏と舞華氏の会話。
個人的に疑の心があってもいいが、それを公に言ったらダメなんだよ。 
それでは、人の信を奪うことになる。 
 」
そんなことないですよ 
あなたたちの信仰を奪うつもりはないし、そんな力ももちろんありませんけど 
おかしいことはおかしいと判断する部分は大事と言っているだけです 
100%疑いなしじゃ、そういう検証すら放棄じゃないですか 
 」
HSは自由を尊ぶ団体だということになっているけれども、それは建前にすぎず、実際には、疑問を持つことは禁じられているし、それを口に出すこともできない。
 
楽山には、いかなる宗教も、批判する資格はないと思います。楽山が最悪なのです。
 
楽山は、深みを感受することが出来ず、先入観的な概念しか持っていないので、こちらの批判にも、疑問にも、真っ当に答えたことは、一度もありません。学習によって訂正する気もなく、いつも、同じことを書いて、キリスト教と信仰を、揶揄するか、否定してきます。
 
もし口に出して、他の信者にも疑問を持たせることになったら、それは和合僧破壊という重い罪であり、地獄に堕ちるとされているからだ。だから、もし疑問に思うことがあったとしても、それは口に出すことなく、黙ったまま身を引いて、一人静かに反省せよということになる。
信者氏はこういうことを念頭において話しているのだろう。
 
楽山に意見を言っても、楽山には届きません。楽山は、無視と不感不応の石のような精神でありながら、分かったふうな丁寧そうに見える言葉づかいで、ネチネチと遠回しに侮辱するか、他者の言を借りるか、批判者を疲れさせるために、同じことを繰り返します。
 
両者は全然違うと思うけど、もっとも違うのは、イエスは十字架にかけられたときに、人々のために祈ったというところだね。
そのとき、イエスは言われた。「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(ルカ 23.34)
 」
これと比べたら、大川隆法はいつも人のせいにしてばかりだ。高橋信次霊のせいで法を曲げられたとか。きょう子夫人のせいで救世活動ができなかったとか。きょう子夫人は口が臭かった、結婚したくないのに無理矢理に結婚させられたとか、恥知らずなことばかり言ってる。
こういうところは、両者はまったく違う。というか、両者を比べること自体が不遜であり、おかしなことだ。
 
楽山こそ、詭弁と嘘で、総ての不都合を、他者のせいにしてきました。うっかり、楽山を信頼してしまうと、楽山は、結局、総ての不都合を、信頼した人のせいにして、逃げるでしょう。責任を持つということが、まるで出来ない人なのです。
 
*HSを退会する人、しない人
・・
支部に通わず、活動に参加せず、HSとは無関係な一般人との交流も少なく、HS本を読むだけの信者は、自分の世界にどっぷりつかりきっていて、他からの影響は受けないわけだから、ずうっとそのまんまでいることが多いという印象はある。
 
楽山は、独りで、本を読んだことにして、意見を持っているかのように装い、分かっているかのような評論家気取りで、無反省に、無責任に、神と人のことを、自己顕示欲で侮辱してきたのです。また言いますが、最悪なのは、傍観者気取りの楽山その人なのです。
 
これに比べたら、支部に通い、活動に参加していれば、HS本に書いてあることと、HSの実態との乖離に気づかざるを得ないし、教団外部の人との付き合いがあり、率直な意見を聞かせてもらう機会があるなら、教団のおかしさに気づきやすいだろう。
 
楽山は、活動に参加すれば、教団のおかしさに気づくと、言っていますが、楽山は、一切の気づきを放棄した人だと思います。だから、楽山は、自身の、霊が分かるっぽい自覚?以外、どの宗教も、バカにしているのでしょう。宗教の味方などと、また、脱会者の味方などと、決して思わないでください。疲労と絶望が待っているだけです。
 
すべての日本国民を会員にしてみせると豪語したり、幸福実現党が選挙で圧勝するようなことを断言したり、地球規模の天変地異が来ると騒いだり…そういえば皇室は文化的存在としてなら残してもいいでしょうというような不敬発言をして、チャンネル桜で不興を買っていたこともあった。
霊言という形式をとると、一夫多妻とか、豊胸手術とか、放言といってもいいようなこともある。この無責任さは、まさに怖いもの知らずだ。
 
かっこつけた放言ばかりで、楽山の無責任さは、まさに怖いもの知らずです。楽山は、信頼に足る発言など、一つも出来ない人です。
 
楽山は、情緒も思考も育っておらず、批判した後、賛同めいたことを語って、それでチャラと思っているような、理路の初歩さえも理解できていない人です。それを補うかのように詭弁だらけになっていますが、そのせいで、記事の悪質さが酷いことになります。
 
大きなテーマについて、何かを言ったあとで、反省して訂正して改めるのではなくて、同じ流れの中で逆のことを言えば、どちらかが嘘、または、どちらも嘘、ということになるという常識が分からない人なのです。楽山は、発言の信頼度ゼロ、言論の世界に居てはいけない人です。
 
*的外れ
随分前のことだけど、匿名掲示板で信者と話すのに疲れてしまって、愚痴ったことがあった。「信者はいっつも的外れな反論ばかりしてくる。自分の真意はこれこれこういうことですよと繰り返し説明しても、さっぱり話は通じない。でもじきに、ようやく通じたという感触があると、信者は途端に黙って何もいわなくなる。でも少しするとまた同一人物らしき信者が、的外れな反論をしはじめる…。もう、やだ…」と。
すべての信者がこうではないのだろうけれども、言葉が通じにくい人は、ほんとやっかいだ。合わない人とは距離をおくべしという考え方があるけど、ネット上では多分これが正解だ。
 
的外れな応答は、楽山の常習であり、むしろ、故意に的を外して、はぐらかしたり、言い逃れしたりすることもあります。言論の責任、つまり、文責など、全く、考えていません。アニメや怪奇小説を読むのと同じで、遊びなのです。楽山から離れてください。
 
頼りがいのありそうな、物わかりのよさそうな、婉曲と詭弁の言い回しに、都合の良い人の言を出してべた褒めする楽山に、だまされないでください。無反省と無責任な体質のため、恐らく、何かを真剣に考えたことなど、一度もない人です。
 
 
身の程知らず2

身の程知らず
 
 
(2020年12月05日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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