楽山の臭み
 
 「すべては神の御心のままに…」という祈り
 2020年12月06日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、二日間の後、また、書いてきました。次の記事も書いています。書くことに、依存症にでもなっているのでしょうか。またしても、他者の言葉を、恐らく無断で引用して、賛否を述べています。賛否を述べるだけで、根拠を書かないのは、前からあったことです。
 
新発見でもしたかのように、楽山は、書いていますが、結局、苦し紛れに、神にゴマを擂り、自己満足しているだけです。相変わらず、教える?態度で。
 
それにしても、楽山は、本当に厚顔なのだと思います。批判記事が、私のブログに山と積まれているのに、トップ記事でなければ気にならないようです。そういう浅い感受性だから、平気で、嘘を吐いても気が咎めないのでしょう。
 
*意味
「すべては神の御心のままに…」という祈りは、よく聞くけれども、その意味はこういうことだろうと思う。
「すべては神の御心のままに…たとえそれが私にとって幸いなものであっても、災いであっても、すべて受け入れます」
 
今ごろ、何を言っているのでしょう。ヨブ記を見れば、分かることです。しかし、誰もが、平気で、耐えられることではないのです。
 
楽山は、嘘を吐いても、罪悪感がないので、平気で、平然と、次の記事を書いてきます。
 
楽山が書くと、けがれると改めて感じるのは、このような神肯定の文章です。肯定するのだから文句はあるめえ、というような笑い顔が目に浮かぶようです。決して真に受けてはいけません。否定も肯定も、好きなように嘘を吐く男です。だから、言います。今さら何を言っている。
 
*テーマ
思うに、これこそが、「ヨブ記」のテーマではなかろうか。
たとえば、岩波文庫の注釈では、このように表現されている。
神のために神を信じきることが可能かということがヨブ記の主題である。
(『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波書店、2017年、p.167)
これはおそらくは、幸いを与えてくれるから神を信じるとか、災いをもたらす神は信じないというのではなく、自己の利害からはすっかり離れて、「すべては神の御心のままに…」という信仰のことをいっているのだろう。
 
ヨブ記が分かったかのような口ぶりですが、大事なところが抜けています。何ゆえ、神を信じ切るのか。そこに信仰の本質があるのです。
 
高等感情のない楽山の、こしらえ物にだまされてはいけません。狼と少年です。嘘を吐き過ぎた者の白々しいごますりの、エヘヘ言葉なのです。楽山は、キリスト教について、宗教について、一切、その初めから、理解が出来ていません。何故なら、今までの記事より、反キリストだからです。
 
*現状
こういう心境は、「神は人に幸いは与えても、災いは与えない。災いは悪魔によるものである」という風に、自己の期待願望によって神の御心を限定するのではなく、「神は人に幸いも、災いも与える」として神の御心に枠をはめることなく、すべてを受け入れる覚悟をしなければ到達不可能なのだが、自分はいまだにそこまで辿り着けていないのが現状ではある。
 
楽山には、到達不可能です。自己の欲望によって、人にも神にも枠をはめて、何も受け容れず、嫌がらせだけを言ってきました。今回も、さんざん悪態をついてきた後の、欲望の表れです。アプローチをちょっと変えてみたつもりでしょう。そこに、あくどさが、表れています。楽山は、詐欺師体質なので、こういう恥ずかしいことも、やってくるということです。
 
「いまだにそこまで辿り着けていないのが現状」・・何度も、何度も、そして、またしても、反省芝居。何ゆえ信じ切るのかを書かないで、分かったことにするのだから、嘘だと、芝居だと分かるのです。決して真に受けてはいけません。
 
こういうことは理屈では分かるけれども、心からそのように思えるところまでは行っていないのだ。こうしてみると、自分は今はまだ招かれてないということなんだろうな。とほほ。
 
「理屈では分かる」・・とんでもない。理屈では分かりません。信仰は理屈ではありません。
 
「心からそのように思えるところまでは行っていないのだ」・・どういうところだ。「心から」と書けば、言い得たことになると思っている。正常な人の悔いは、こういう場合、物が言えなくなるということです。
 
だから、楽山は、「自分は今はまだ招かれてない」などと言って、いったい、どこに招かれる時が来ると思っているのでしょう。
 
まだ招かれていないのではなく、黙らない限り、楽山に手招きしてくるのは、別のものでしょう。既に、受けているとも言えるでしょう。反キリストゆえに。
 
嘘の芝居のトホホ言語のペテン師、まだ、それが通用すると思っている。不感不応の恐怖。
 
 
  2020年12月06日
  自己流解釈(HS信者を見ていて思うこと)
 
 
何を思ったか、信仰の「し」の字もない反キリストの楽山が、聖書の読み方を教えようとしてきます。客観に見せかけた主観~妄想ですから、真に受けると、生涯、消えようのない傷になるでしょう。その傷にも気づかなくなるでしょう。真に受け続けると、楽山に似てくるからです。
 
楽山は、人を聞かないのだから、楽山を、聞かないように、読まないようにしてください。良心をクズのように扱う楽山を拒否してください。楽山の、鼻の曲がりそうな臭い芝居にだまされないように願います。
 
*自己流解釈
「ヨブ記」について、HS信者が感想文を書いていたので読んでみたのだが、正直言って自己流解釈に傾き過ぎているように思えた。
・神への全き信頼を持つ時に、災いをさえ、心静かに受け取るのかもしれない
・私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、
・人は神の前に正しくありえようか。人はその 造り主 の前にきよくありえようか 
 
災いを「心静かに受け取る」のは、一部の聖人か、でなければ、やせ我慢か信仰自慢の見せかけです。
 
楽山が、何の根拠もなく、評論や批判をして、インテリぶる自慢は、見せかけだけの大嘘です。
 
神の前に、正しくあり得る人はいません。ゆえに、キリストが十字架につくのです。過去の歴史ではなく、今も、それぞれの人の罪の故であります。
 
その最悪なる例が、楽山であります。なぜかといえば、神も人も、だましているからです。しかも、楽山は、それを楽しんでいるのです。まるで、聖徒たちの死体をカラスがつつくように。
 
楽山は、罪人にとどまらず、最悪の偽善者なのです。キリストを殺した群れの中で笑っている者の一人です。また、今日、嘘の理解を示して、罪と偽善を重ねています。
 
*基本設定
あれこれツッコミを入れても仕方がないので、論点を三つほどにしぼって書くと、まず一つ目は、災いはサタンの仕業で、神によるのではないとする解釈は無茶だということである。
 
楽山は、災いを神のせいにし、かつ悪魔の味方をしています。なぜでしょう。楽山は、自らに巣食っている悪魔に気づかないからです。無反省・無責任だと、こういう考え方になるのでしょう。
 
楽山に限っては、死ぬまで、悪魔の弁を、即ち、嘘、詭弁、ごますり、エヘヘ、芝居、などを続ける人だということが、これまでの言に、表れてきました。決して、真に受けてはいけません。関わってはいけません。近寄ってはいけません。
 
そもそも、「ヨブ記」の信仰観はこうだろう。
主は与え、主は奪う。
(ヨブ 1-21)
神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。
(ヨブ 2-10) 
 岩波文庫の注釈にはこうある。
ヨブに下される試練はヨブには知られないが神の意思に出たことで、ことに神と「敵対者」の間に賭けられた問題であった。
(『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波書店、2017年、p.166)
 」
一部の表現、言い回しを根拠にして、こういう基本設定を拒否しようとするのは自分勝手解釈といわざるを得ない。
 
闘鶏でも見るかのように、見ている楽山の視点に注目してください。どこまでも傍観者の立場であり、自分の存在のテーマとして見たり考えたりすることが出来ないのです。だから、いつも、言葉の表面を繕うだけになります。
 
「こういう基本設定を拒否しようとするのは自分勝手解釈」・・楽山の基本設定は、自分は、中立で正しい、という訂正不能の自己愛の妄想です。
 
ここで、ケダモノの本性が現れています。自己愛・自己中から、一歩も抜け出すことがなく、自分以外を、劣っているものを見下ろす視線でしか見れないのです。
 
今までの経過といい、何も受け取らず、その場その場で、言い逃れ、自己満足だけで生きてゆける稀有なもの、もはや、人間とは思えません。
 
*HS的な解釈
憑依がどうしたこうしたというのはHSではよく言うことだけども、「ヨブ記」にはそういうことは書いていないだろう。HS教義をつかって「ヨブ記」を読んでも、そこから生まれるのは「ヨブ記」のHS的解釈にすぎず、それは本来の「ヨブ記」とはちがったものだ。
「ヨブ記」は、「ヨブ記」によって読むべきであって、HS教義によって読んでも仕方ない。
 
だったら、書くな、ということです。いつも知ったかぶりの評論家気取りです。内実は、実に安っぽい詐欺師でしかありません。どこまでも嘘でごまかせると思っている、こういう徹底した嘘吐きの偽善者は、聖書の話と比較検討しても稀でしょう。
 
このことは、HS本は、HS教義によって読まないと、本来の意味を読み取れなくなることを思えば容易に理解できるはずだ。
 
本来の意味を読み取るために、HSの本を、HS教義によって読むべきだと言っています。しばしば、批判したいのかどうかが、怪しくなります。
 
ひょっとしたら、楽山の教祖願望が表れているのかもしれません。恐ろしいことです。しかし、楽山を教祖とするくらいなら、死んだほうがましな人間世界というべきでしょう。
 
*友人たちの評価
ヨブの友人を高評価するのは自由ではあろうが、神の評価はこうなっている。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」
(ヨブ 42-7)
 」
神がヨブの友人たちをバツ判定したということは、「ヨブは正しい人だったが、神から試練を与えられ、そのことを理解しない友人たちから、あらぬ非難を受けてさらに苦しんだ」とすれば合点が行くけれども、「ヨブは自分自身の過失によって災いを受け、そのことを友人から指摘されると怒り、神を呪った」とすれば意味が通じなくなるだろうと思う。
 
恐ろしいことです。嘘吐き楽山は、ここで、神の判定を解釈しようとしています。楽山には、そのような器はありません。人も神も、バカにしてきただけの履歴からは、生涯、黙ること以外、人の世において、楽山の何も、正当ではありません。
 
また、だましに来ていると思ってください。楽山は、批判対象とする以外、意味はありません。楽山が、表れたら逃げてください。何か言ったら無視してください。問われても、何も答えないでください。楽山は、人からも神からも、何も受け取る意志がないからです。
 
普通の人ならば、聖書解釈はあってよいことです。考えることで、身につくことがあるからです。しかし、楽山のような、自己顕示欲のみによって、自己主張をする人からは、害毒しか生まれません。
 
また参考として書くと、内村鑑三の「ヨブ記講演」では、苦境にある人に面と向かって、それは罪の報いだというのは人情に反するし、罪の報いとして災いがあるとしても、災いのすべてが罪の報いとは限らないことは、イエス、パウロの例をみればわかるし、ヨブの災いは罪によるのでなく、信仰の試し、試練であろうとしたうえで、ヨブの友人たちには辛い評価をしていた。
 
楽山は、内村鑑三を読んだことにしたいだけです。内村鑑三の信仰を欠片も受け取ってはいません。言葉面を読んだだけでも、こういうことは書けるのです。無責任な野次馬として。
 
人は、しばしば、罪の報いと試練を、区別できません。だから、苦しい中でも祈りがあります。それは、人から神への唯一の音信です。楽山はそのような人間のあり方を全く知りません。
 
どこまでもどこまでも、神と人の上に立って、口の減らない楽山です。その報いは、神の手にありますが、私たちは、関わるべきではありません。楽山の不遇は、罪の報いであり試練であります。そして、それに対して、楽山は、高慢によって裁く者のように書いています。それで、終わりです。
 
誰の友人にもならない楽山、神さえも裁こうとする楽山、口だけは減らないで、ヘラヘラ書いてくる楽山、神を恐れない楽山の言うところ、誰かの言葉の表面を舐めただけの楽山、御心の深みと、心の深みを、全く理解していない楽山、楽山からは、信仰に必要な、いかなる共感も生まれません。決して、楽山の言葉を、批判以外の目的で、見ないように、読まないように、聞かないように、受け取らないようにしてください。
 
*まとめ
自分の直感に従って読むということは、必ずしも否定されるべきことではない。でもその場合であっても、基本設定や定説との距離は自覚しているべきであるし、先人の解釈に対する敬意も必要だ。それがなければ、ただの勝手気ままな自己流解釈とされても仕方がない。ここはよくよく注意すべき点である。
 
自分の直感によって読むということは、私たちは、いつも、やっていることです。さらに、反省することのない楽山が否定肯定を云々することではありません。楽山には、基本設定も距離もありません。全部、自分の汚い便器の中において処理しています。即ち、楽山は捨てるために、そして楽山の結果は捨てられるために、今は、得意になって自慢話をしているだけなのです。
 
楽山は、先人の解釈に対して、微塵の敬意も持っていないことを知ってください。いつも、物であるかのように、もてあそび、いじくり、曲げて、オモチャにしているだけです。
 
楽山は、いつも、勝手気ままな自己流解釈によって、反信仰と反キリストの心で、遊んでいるだけです。よくよく注意して、決して、楽山に近づかないでください。
 
恐怖度が、アップしてきます。信頼度は、ゼロ~マイナスです。何も受け取っていない楽山の自己愛のワールドは、関わる者を滅ぼすでしょう。
 
HSでは、仏典でも、聖書でも、なんでもHS式に解釈してしまいがちだし、仏陀は生まれ変わるものだとして仏教の根本的な設定さえも、ひっくり返してしまっている。だからその信者が同じようなことをするのも止むを得ないことではあろうが、これはある意味、法を曲げることであるし、慎むべきことであると思う。
 
楽山は、何でも、誰の文章でも、自己中ワールドで解釈しています。言葉面の、薄っぺらな辻褄合わせだけであり、心が無いために、教理に沿ったり、外したり、好きなように書いてきます。それを、解説であるかのように、もっともらしい嘘と詭弁で、だまして受け取らせようとしてきます。人をもてあそび、神をもてあそぼうとする報いは、いずれ、神に任せられます。
 
神を否定しているから、楽山は、平気で書いてくるのです。しかし、楽山は、他者の言葉を借りないと、物が言えなくなっています。元々、楽山は、自分の言葉だけでは、理路が成り立たないのでしょう。それが、今まで、明らかになってきたのです。
 
恐らく、あとで、責任を負いたくないからでしょうが、そういう無責任な述べ方は成り立ちません。賛否の意志を持っているから引用するのであって、引用した責任があり、賛否の責任があり、いかなる場合も、言論に、責任がないなどということは決してありえないのです。
 
書いたものから小細工の腐臭が漂ってくることで、楽山は、自らの腐敗を証明しています。
 
 
臭い

くさい
 
 
(2020年12月07日、同日一部修正)
 
 
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