情欲の聖句(2)
 
 
何度か、引用してきた情欲の聖句であります。情欲にとどまらず、キリストの洞察と立場に深くかかわる問題であることを知ってほしいと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
これが、守れ、という教えでないことは明らかであります。
 
性欲は湧いてくるものであって、異性への性欲については、ホルモン系の病気の人や、趣味の違う人以外では、男は、必ず情欲をいだいて女を見るのであって、それがなくなったら、セックスという不潔で面倒臭い行為など、誰もしないでしょう。つまり、この聖句を、文字通り守ったら、人類は滅びるという矛盾律なのです。ですから勘違いしてはいけません。
 
つまり、ここでは、異性愛について言っておられますが、異性・同性を問わず、みだらな思いを戒めながら、その思いが、断ちきれない人間の性についても、キリストは、当然、洞察し、理解し、大きく包み込んで、言っておられるわけです。
 
この教えを、間違っても、女というのは人妻のことだから、人妻を色の目で見ないようにしましょう。あるいは、できるだけ、控えるようにしましょうね、などというような、安っぽい道徳に、おとしめることのないようにしてください。キリスト信仰は、人の通念的な道徳で説明できるようなものではありません。
 
キリストは、神を信じて御心通り守っているから正しくなる、あるいは、正しくある、と言っている者たちを、敵対者として、強く意識しているということです。それは、パリサイ人や律法学者や祭司、またその信奉者に他なりません。
 
つまり、前にも書きましたが、この教えは、情欲をいだかずにおれないのだから、罪は、まぬかれない。ゆえに、総ての人は、罪人であり、正直な祈りによって、俗のほうから、神のほうへ、方向転換することが必要だと言っているのです。
 
神に、罪人であることを認めて正直な祈りを捧げる人は、行為を正当化するのではなく、性のことも、快感を求めるだけでなく、愛情表現のほうに、移り変わってゆくことになるでしょう。 
 
さらに、厳しい、というより、守るのは不可能、と思われる教えが続いています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:29
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 
5:31
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 
5:32
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
 (マタイ5:29-32、新約聖書)
 
この厳しさも、そのまま、守れという教えではありません。ただの誇張でもありません。キリストは、人が、教えを守って完全になるなど、決してできないことを、既に、ご存知であります。
 
ここにおいて、キリストが、強く意識しているのは、こういうことをしているから罪はない、こういうことをしていないから、罪はない、という行為義認への痛烈な批判であります。
 
その批判は、パリサイ人などの戒律主義の偽善者に向けられていることを理解するべきです。
 
人間が、ちょっとばかり、形だけ、善を行い、悪を避けたつもりでいることなど、全く、正義などと神の前で言えるようなものではない。つまり、人間は、罪を犯さないようにして罪なき者になることなど決して出来ない、ということを前提に言っておられるのです。
 
 
宗教と信仰を、道徳と同じように考えて、正義の神はなぜ悪を放っておくのか、などという理屈で、神を、机上で神を否定して、中庸のつもりで、宗教を信じ過ぎないほうがいいみたいなことを書いている反キリストの陰謀家がいるので、この問題が情欲に納まらないことをヒントとして、また、書いています。
 
私たちは、筋が通っているから、矛盾がないから、正義だから、神を信じているのではありません。
 
人が、神を理解することは不可能です。神の筋道も、神の整合性も、神の正義も、私たちは、地上で理解することはありません。完全ではなくても理解できることはあるだろう、という主張は、それ自体が、不完全な理解による正義であり、神の正義に遠く及ばないものです。
 
人間は、たかだか易い道徳を守ろうとする程度ですが、しばしば、善と悪を間違えて、偽善で納得したり、合理化したり、言い訳したりもするわけだから、その善悪の認識と判断など、殆ど、生きる支えにはならないこと知った人が、信仰を求めるのだろうと思います。
 
私たちは、イエス・キリストという仲保者によって導かれています。信仰は、道徳ではありません。だから、道徳と正義の視点から、神とキリストを否定することは不可能です。同時に、また、肯定することも不可能です。つまり、私たちは、正義によって、信じるのではないということです。
 
キリスト者は、キリストに絆(ほだ)された者、言い換えると、キリストに絆されることで自由を得た経験がある者であります。大事なことは、理屈ではなく、心の直感として、与えられているわけです。キリストの慈愛を知った人は、それを忘れることが出来ないために、同伴者、そして、唯一の希望として、仰ぎ続けているということです。
 
それゆえに、信仰者は、ごまかしや、勘違いや、安い道徳や、安易な理屈に、落ち着いてはいけないのであります。信仰は、正義の人になるためではなく、正義を求める人として、活性を失わないために、その活性が何であるかを知るために、与えられます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
 (ヨハネ書21:15、新約聖書)
 
キリストは、ペテロに、三度、同じことを問うています。ペテロは、一度、裏切っています。
 
私たちキリスト者は、何度、問われるでしょう。私たちは、何度、裏切っているのでしょう。
 
 
裏切りと孤独の中で

裏切りと孤独の中で
 
 
(2020年12月09日、同日一部修正)
(2020年12月10日、さらに加筆)
 
 
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