神の与える益2
 
 神の与える益 2019-11-27 00:03:11
 加筆して再録。
 
 
〇 加筆した部分もありますが、徹底してはいないかもしれませんが、加筆・修正・挿入したところには「〇」印を付けています。
 
〇 約十年の間、批判してきたシャロームを批判する去年の私の記事を、再録+しておきます。偽善者の典型でもありますし、宗教詐欺の見本ともなるでしょう。
 
シャロームという偽善者の最悪の実例を見てきたことから、信仰というものを、よくよく考えてみる必要があります。
 
〇 去年の記事の引用は、かなり省略しています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ3:28、新約聖書)
 
このことについて、シャロームは、次のように書いています。
「かつてはその弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していたのですが、しかし、信仰によってその弱さが神の愛と力があらわされる恵みの水路となるのです。神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方であると聖書に書かれているとおりです。」
 
シャロームは何をしてきたかと言うと、
1.罪と認めず、悔い改めをしない、という、キリスト信仰とは真逆な信条、
2.1を批判し、おかしいと指摘すると、悔い改めは神が与える(だから今はしない)などと言う言い訳。
3.さらには、人間の自由意志を、聖霊による自由意志とは違うという詭弁。聖霊を知っているかのように、自分を神格化しているだけです。
4.おびただしい嘘の解釈と、詭弁だけでなく、平気で嘘を吐く、でっち上げの作り話で、批判者をおとしめる、など、悪意だけが明らかになってきたのです。
いったいどこが、神によって益とされたと言うのでしょう。人にとって害となることだけなのです。
 
つまり、シャロームは、聖句の益ということを、自分に好都合の益だと思い込んでいるのです。だから、何を仕出かしても、神が与えた益だからありがたやと、反省しないのでしょう。
 
神が「万事を益となるようにしてくださる」とは、「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」と書いてあるように、人と神の共同作業であり、信仰の恵みを受けて答える双方向であり、導きの願いと、行いと悔い改めの祈りの、信仰生活そのものなのです。
 
〇 それを、曲解して、シャロームは、神が益としてくださったのだからと、何でも正しいと思い込んで、反省もしなくいいかのように、好きなように、自分の身勝手を通す理由にしているのです。
 
信仰には、勘違いしやすいことがありますが、さらに妄想化したのがシャロームです。
 
カルト的な偽の説教というのは、救いは具体的な奇跡が起こること、恵みと益は自分の身勝手の実現、罪に死んだから無罪になった、神の平安と言って自らの無為と怠慢の安穏の正当化、二千年前の肉体の復活を根拠にして信仰の心に根拠を求めなくなる、聖霊、異言、預言などの異常体験、神は絶対だから信仰も絶対とばかり豪語して自らを絶対化する、自己正当化の絶対化、等々。
これは、おぞましき背教であり、シャロームは、このほとんどが当てはまるのです。
 
これらの悪い見本を、否定してゆくことで、望ましい信仰を、浮き彫りにすることが、ある程度、可能です。
 
 
〇 悪があるのは、対極にある善を知らせるため、善を際立たせるため、という、僅かなように見えて、皮肉のように思われて、実は貴重な意義があります。
 
〇 神がいるなら、なぜ、悪があるのか、なぜ、神は悪を退治してくれないのか、という疑問を、神否定の根拠にしている楽山という醜い反キリストもいます。
 
〇 楽山は、何もしなくても、苦しまなくても、ハッピーにしてくれる神でないと信じないわけです。楽山は、そのような成長の実感のない快楽だけを求めているのでしょう。いつも哺乳瓶を加えているような人生が理想なのでしょう。
 
〇 推測ですが、理由としては、人間が、自由意志を持つ存在として造られたから、ということは言えるでしょう。つまり、自由には責任が伴います。
 
〇 自由であるから、いつも、よい結果とは限りません。人間が責任を負うべき生涯でもあるということです。いつも楽なだけでは、自由を、神が、人に、教えることにはならないわけです。
 
〇 つまり、何でも、よいことしか起こらない世界を、楽山は、神が作るべきだと言っているわけですが、そのような世界は、神のロボットが経過する世界であり、つまり、世界に組み込まれた辻褄の合う世界になります。それは、自由意志で選択をする人間がいない世界です。
 
〇 苦難に遭った人が、そのまま、死んでしまうなら、教育も何もあったものではない、という言い分もあるでしょう。そこは、分かりません。死は、総ての人に、一回、起こること、といっても、それが、最悪な死に方なら、納得は行かないでしょう。
 
 
〇 また、分からないけれど、分からないことを共有することは、信仰者と非信仰者の間でも可能であります。神のなさることには、分からないことがある、というのは、真実でしょう。神は全能、人は不完全、ということは、私は経験から実感があります。多くの人は同様であろうと思います。
 
〇 キリスト信仰の世界は、いつも平安のうちに過ごすことが出来て、総てが安心事に変わる世界ではありません。人間の世界が、天国のようになることは、終末までありません。そのほうが面白いと言うことでは済まされないことも多いです。
 
〇 人生が楽しむためだけではなく、悲しみや苦しみがあること、それを乗り越えるために、人間の自由意志によって生きることと併せて、信仰ゆえに、生きてみようと思い直したり、積極的に受け取って人生を生き直す人もいるわけです。私は、せいぜい前者なので申し訳ないです。
 
〇 むしろ、上記のような苦難があるから、それでも生きてゆくために、信仰はあるのです。楽山の主張は、欲望から出ているので、真逆になっているのです。欲望から出ているので、神と信仰の与える恵みにも救いにも感受性がなくなっているのです。
 
〇 つまり、欲望から、思うとおりに成っていないと、言いふらしたり、それがキリスト教だと、神もキリストもキリスト教も、欲望から、けなし続けるような輩のためには、信仰は用意されていない、と言えるでしょう。楽山は、それが気持ちよいのでしょうか、反キリストであり続けています。
 
 
〇 むしろ、シャロームが唱える偽善を取り除くと、また、その対極を考えることで、真実の糸口になってゆくのです。以下、まとめ。
 
1.神の与える恵みや益は、人にとって、いつも分かりやすいわけではなく、人の都合の良いものとも限らないこと。
 
2.物や肉体の奇跡は、少なくとも現代では、めったに起こっていないこと。
 
3.神の与える平安は、癒しであり、信仰という道の途上で、悲しみに対して与えられるものであり、信仰者が何時も味わえるようなお気楽な安穏の境地ではないこと。
 
4.信仰の根拠は、心の癒された体験と、キリストを忘れられない気持ちがあり、キリストの同伴を祈る気持ちであります。人間の良心と心から離れたところに信仰はありません。
 
5.聖霊体験や、異言や預言は、それが神からのものか、人の自己顕示欲など欲望によるものか、見分ける必要がありますが、見分けるのは必ずしも容易くはなく、これはどっち、などと、いつも分かることではありません。即ち、このことから、神の意志と行為を決めつけてはいけないということが言えるのです。
 
6.神は絶対ですが、人は絶対ではない、ゆえに、人の信仰も絶対とは成りえません。人には、絶対という神の属性は分からないこと、即ち、神秘であります。
 
私たちの信仰は、赦し、癒し、慰め、導きを与えられるために、神に憐れまれることを求めることであり、それは、魂の奇跡として、人の心に与えられるものです。
 
祈りも悔い改めも、信仰生活も、そのためにあり、物や肉体の奇跡は、人の手に負えるものではなく、神に任されることであります。即ち、人が、あれは奇跡だったと、声高に言うのは、信仰自慢や、信仰の安っぽい宣伝になりやすいので、控えめにして、口を慎み、神を恐れるべきであります。
 
絶対ではない人間は、絶対である神に対して、祈ることをもって双方向となり、信仰者となった後も、正直な祈りをもって神に仕え、神の民としての人生を送ることを唯一の信仰の目的としています。
 
 
 悪意による破壊:コメント欄
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、性懲りもなく、またコメントを書いてきました。
いつものように、あざといことです。
 
1. st5402さん お久しぶりです。
 2019年11月21日 09:20
「山本太郎は・・、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。」
 「イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです」
(恐らく私)送り込んだ、遣わされた、対応させたとみるのが自然だと思いますよ。書き方の不備だと思います。上の「わからい」も、よくあることですが、じっくり読み直してみてください。
 」
おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です。
10数年前と相も変わらず、ご親切に、
文字や文章を修正、校正することがお上手ですね。
ありがとうございます!
 
わからないですか。本心で「お上手ですね。ありがとうございます!」と言う人は、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉は言わないんです。あなたシャロームの、軽蔑の笑いが表れています。
 
つまり、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉の後に、褒めて、世辞と礼を言う、ということから、あなたの悪意の笑いがイメージされてしまうわけです。
 
いつまでも、執拗に、意地悪コメント書いてきているのは、あなたシャロームのほうです。
 
「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」・・ずっとこんな調子で通ると思っているのが、不感不応・学習不能の経過と結果なのでしょう。私が、あなたシャロームの褒め言葉を真に受けることはないと分かり切っているのに、また書いてくる。
 
〇 あなたシャロームのコメントには中身がないから、考える材料にもならず、こちらは、またか、という気持ちだけで、返しを書くことになります。
 
書くたびに、恥ずかしいことになっていると、あなたシャロームだけが、気づかない。
 
 
あなたシャロームの信仰は、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という発言と訂正不能によって、全否定されています。誰にとっても、益にならず、害にしかならない、自己中の妄想です。
 
私の批判コメントに対して、あなたシャロームは、削除、コメント欄閉鎖、未承認としました。つまり、隠蔽し、無視しました。私はあなたシャロームの嫌がらせコメントに対して、いちいちレスして批判しています。この違いは明らかです。
 
私は、あなたシャロームが、実に白々しく嫌な丁寧語の書き方で、前と同じような嘘っぱちを、独り得々として、だらだら書いてきても、無視するのではなく、コメントの質が悪くても、あなたシャロームが下劣な悪意の表れでしかなくても、どんなに、つまらない、何の糧にもならないコメントでも、受け取ったのち、批判を書いて晒し、かつ、記事にしています。
 
そうする私の意図は、汚い言い方ですが、
シャロームの言を指して、これがクソです、ということを示すことで、クソでないものを大切にしたいからです。
 
私は、最初から捨てることで解決することなどないことくらいは知っており、ゆえに、読んで、考えて、返して、保存して、記事にするのです。
 
〇 そして、正味ではないが、十年分の、大きな、偽善者の資料となっています。
 
あなたシャロームは、捨て去ることによって経過するので、捨て去ったものに気づかず、いつか、捨て去ったものに、忘れたものに、捨て去られてゆきます。
 
〇 こうやって、過去記事とコメントを見てゆくと、シャロームのしてきたことと、楽山のしてきたことが、多く共通しており、この二人をもって、現代のパリサイ人的な、偽善者の典型という暫定的結論になってゆきます。
 
 
偽善の与える害

偽善の与える害
 
 
(2019年11月27日、同日一部修正)
(2020年12月12日、加筆して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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