楽山の印籠?
 
 「ヨブ記」(wikiの解説を読んでみた)
 2020年12月13日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、ウィキペディアを持ち出してきました。ウィキを権威だと思っているようです。しかし、権威を持ち出すことは、自分の言い分が、だらしなく、頼りないことを認めたことになるでしょう。権威を持ち出せば正しいと思っているようです。水戸黄門の印籠?のつもりでしょうか。
 
何を引用しても、人が書いたものですし、さらに、楽山が引用して、何かを述べれば、そこに、楽山の恣意は、恥とともに、表れてくるのです。
 
*遅ればせながら
「ヨブ記」について、Wikipediaの解説を読んでみた。もしかしたら前記事で書いたことを修正しなければならないかもと心配したが、どうやらその必要はなさそうだ。ひと安心。
・ヨブ記 - Wikipedia
 」
以下に、論点を三つにしぼって、自分なりの感想を書いてみる。
*テーマ
 まず「ヨブ記」のテーマについては、Wikipediaには次のように記されていた。
正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。 
 」
これは前々から聞いていた話ではあるが、迂闊ながら、「義人の苦難」という言葉は知らなかった。この言葉は覚えておきたい。
別の注釈では、『ヨブ記』は勧善懲悪の問題に対する解答をはぐらかしているのではなく、神の権威を示すことこそが同書の本義なのであり、その思想は後半部の自然界、動物界に関する描写に反映されていると述べている。また、人間同士の議論を経たところで神の営みを理解することは不可能であり、とにかく人間は、神の崇高さを前にしては謙虚に振舞い、些細な事にも気を配らねばならないと説いている。 
 」
前記事で、「ヨブ記」は神の絶対を描こうとしているのではないかと書いたが、やはりすでにそういう解釈はあるようだ。自分が思いつくようなことは、とっくの昔に誰かが考えているということなんだろうな…。
 
ヨブが、神に対して罪のない人ならば、神の与えた試練に、自己正当化はしないのです。その時点で、ヨブは神に対して罪があるのです。そして、このことは、善人だから罪はないという命題を覆します。
 
神は、善人と言われているヨブに、罪深い人間にとって、人間の思う善など遥かに凌駕するところの、本当に必要な、神への恐れを教えるために、ヨブに試練を与え、かつ、救い、祝福を与えた、というのが、ヨブ記であります。
  
人は、神レベルの善を見極めることは出来ません。ゆえに、実際、間違いを犯し、罪を犯すのです。そこに、神の慈愛によって赦されるという道があるのですし、ヨブは、最終的に、その道にたどり着きました。ヨブ記は、そういう話です。
 
楽山は、そこを、人間レベルの、いや、楽山レベルの善の、いかがわしい話にすり替えて、ケチをつけ、ヨブとWikiを利用して、自分の言を通そうとする陰謀屋です。
 
楽山は、ヨブを自らに喩えたいのでしょうか。とんでもない。少なくとも、ヨブは、偽善者ではありません。楽山は、明らかな最悪の偽善者です。天と地の違いです。
 
楽山が言うまでもなく、神の絶対は当たり前のことですが、人は、決して絶対ではありません。そこに、人の、神に対する節操が生まれます。楽山を除いて。
 
特に、楽山については、前から、無反省・無責任の卑怯者だと書いてきました。今度は、権威らしきものに縋りつく楽山です。恐らく、似たようなことは、今までも、してきたのでしょう。
 
個人の責任において堂々と主張する、ということが、全くできない楽山なのです。堂々とではなく、ネチネチと、楽山は書くしかないのでしょう。楽山が思いつくようなことは、誰も書いていないと思います。楽山が、勝手に、引き寄せて満悦しているだけです。楽山は、最初から、前提となる受け取り方において、既に、破綻しているのです。
 
楽山が、絶対の神、と言い張っても、それは、聖書の神ではありません。
 
「やはりすでにそういう解釈はあるようだ」・・笑止であります。楽山のような解釈は、偽善者が言うだけであり、正当には、どこにもありません。今に始まったことではなく、思い込みは楽山の体質であり、性癖なのです。
 
神の絶対を、実に幼稚に、ホラー小説を読むように、力だけで考えている楽山は、一方で、力だけでなく、慈愛によって包んでいる神を、まるで理解できていません。そこに、高等感情の鈍麻という、深みを受け取る感受性の欠落が見えています。だから、なおさら、絶対、絶対と、単純に言い張って、自分を正しく見せようとします。
 
楽山は、神を否定してきました。というより、自分以外を重要視する視点を、楽山は持っていません。肯定のように見せかけても、今までの言において、楽山の悪意は、明らかなのです。
 
反キリストとして、どうしても、神を、否定したい楽山の狙いは、楽山が否定されるという結果に結び付くでしょう。無反省と無責任は、言論から、明確に排除されるべきです。
 
ただちょっと気になるのは、神は不可知で、その神を前にしたとき、人は頭を垂れるしかないというのは分かるとしても、その前段階についてはどうすべきかということだ。
自分としては、人は神の前に頭を垂れることしかできないのは当然としても、はじめから神は不可知だとあきらめて、ただただ頭を下げればいいというわけではなくて、神を知ろうと精一杯に努力したあとでそうすべきだと思う。「人事を尽くして天命を待つ」というように、「人知を尽くして天命を待つ」ことが大切ではないかと。
 
楽山が「神を知ろうと精一杯に努力した」結果は、神否定、もしくは、神を信じない、あるいは、神などどうでもいい、そして、そういう自分は、中立で、正しい、という妄想です。
 
尽くせる人事を持っていない者が、さらにその自覚さえない者が、努力しようとすれば、努力したという自覚だけの、心も頭も共感性もないような、自画自賛の妄想と自己満悦境地しか生まれません。それが、非常に、異常に、災いであるのに、楽山は、気づかず、分からず、言い張っているのです。とても、悲惨です。
 
神を恐れ、神を信じ、神に頼る者にとってだけ、神は存在します。それが信仰であり宗教なのです。
 
楽山のような反キリストが、神について、しつこく唾を飛ばして語っても、楽山は、楽山にとってだけ存在しない神?を語っていることになるのです。これほど、空しい作業はないのです。
 
それを、どこにでも通用するかのような、一般的な書き方で書いてくるのは、評論家気取りの自己愛の症状でしかありません。
 
ヨブはこれを実践したあとで、神の前に頭を垂れているから立派であるが、もしはじめから神の前にひれ伏していたなら、それは謙虚ではなく、卑屈であり、神を喜ばすことにはならなかったのではなかろうか。
 
そういう、卑屈な態度は、この記事で、楽山が、都合のよさそうなWikiに対して行っていることであります。何でも、都合よく利用・悪用できたら、悦び、賛同し、同じことを「誰かが考えている」と、べた褒めして、即ち、またしても自らを高め、悦に入り、引き続き、勘違いも妄想も、止めない理由付けを独りでやってゆく、という、偽善者の独り言と独り遊びの宿命なのでしょう。
 
*サタンと因果応報  
三人の友人はエリファズを筆頭に、慰めを兼ねて因果律を説く。三人の友人の主張は、前述のサタンの主張と関連[13]しており、神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。)を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものであった。
 」
因果応報という考え方は、弱者に対しては冷酷なものになるというのはその通りだ。自己責任という考え方もそうだ。
因果応報は自分に対する戒めとしてはよいこともあるが、三人の友がヨブにしたように、他者を裁く道具として使った場合は酷いことになる。
 
楽山が、因果応報にも自業自得にも気づかない原因が、ここにあります。楽山は、自分に対して、不都合を当てはめることが出来ないのです。人に対してだけ、良いとか、悪いとか、言いますが、自分に対して全肯定で無反省な人が言っても、説得力はゼロです。
 
仮にヨブが罪を認めて元の境遇に戻してもらうよう祈った場合、利益のための信仰でありサタンが勝利する。
 」
これは一理ある。
三人の友のいうことは御利益信仰に通ずるし、ヨブがこれを受け入れたら、サタンの見立ては正しかったことになる。
三人の友の主張と、サタンの主張とを関連付けて考えたことはなかったけど、それと指摘されれば、たしかに両者には相通ずるものがある。
エリファズは、塵から災いは出てこないとヨブの主張を否定して[41]、地上的な願望のために神との和解を求めている。
 」
「地上的な願望のために神との和解を求めている」というのは、あきらかに御利益信仰であろうし、純粋な信仰とはいえまい。
そういえば、仏典には、ブッダが悪魔に次のように言う場面があったのだった。
四三一 わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、1985年、p.88)
 」
宗教のなかには、これを信じれば功徳がある、こうすれば天国に行ける、地獄に堕ちないためにはそれはしてはいけない…云々ということを説くところもあるが、ヨブも、ブッダも、これに賛成することはなさそうである。
 
そう言っている楽山は、まさに、この地上の、善と悪を、自己中に勝手に、決めつけて、いかなる不都合も、人のせいにしてきたのです。この記事の動機も、そういうところから出ているのでしょう。
 
だから、批判を、いちいち、貼り付けてゆく必要があります。楽山が言うことは著しい偽善であると言い続ける必要があるのです。
 
*感謝
古典を読むときによく感じることだけども、先人たちの研究は本当にありがたいものだ。お陰様で自分のようなものでも、古典の奥深さに気づくことができる。もし先人たちの研究がなかったら、迂闊者の自分は、古典の価値は少しも気づけなかっただろう。この点は心から感謝したいと思う。
 
ですから、楽山は、古典を、何一つ理解していません。楽山が物を言うたびに顔を出すのは、古典ではなく、今まで、そして、いつも、楽山の自己愛と自己中と無反省と無責任でしかないのです。
 
楽山は、自分に感謝していることになります。というより、恐らく、誰への感謝も、嘘でしょう。自分を褒めるために、他者を褒める楽山、あざとい芝居が臭くて、もはや、うんざりします。
 
先人たちの研究を、戦術的に悪用し、けがし続けているだけの、お山の大将気取りの、楽山です。
 
奥深さから、最も遠く、浅く、総てを自己正当の絶対から悪用し、そこから、いちゃもんだけを、悪口だけを、詭弁だけを、言ってきたのが、楽山その人であります。批判者は、やむを得ず批判しますが、一般の人は、破壊される恐れがあるので、決して関わってはいけません、近づいてはいけません。
 
 
咲くものを枯らす者

咲くものを枯らす者
 
 
(2020年12月15日、同日一部修正)
 
印籠(いんろう)
 
 
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