楽山の滅び
 
 「第十一講 エリパズ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年12月19日 楽山日記(LD)
 
 
真理や真実に対しては、何らかの畏敬を感じて、迂闊に口に出来ないものです。その謙譲の姿勢を弁えている人には、誰でも、人間らしい真実の追求が可能になります。
 
楽山にとって、真実も真理も、言葉だけのオモチャなので、楽山は、平気で、知らないのに知っているかのように見せかけて、宗教と信仰についても書いてきます。真実というものを嘲笑っている態度です。真実に一歩も近づけない者の所業です。
 
「第十一講 エリパズ再び語る」を読んだので、要点をメモしておきたい。
「第十五章の研究」
ヨブと友人たちとの議論の主題は、「患難はすべて罪悪の結果なるか如何、義しき者に患難の下る理由如何の問題である」
 
メモならば、人に見せないでください。既に、私が書いていることには答えられないのに、罪悪の結果について、最も義人から遠く、義人を滅ぼすだけの楽山は、また世迷言を書かないではおれないのです。
 
楽山の悪と偽善は、既に約2年分の資料となっています。楽山が、良さそうなことを書いて、自己満足しても、資料がそれを否定し、みんな嘘、出まかせ、ということを明らかにしてくれます。言い訳が通用するためには、楽山は、嘘を吐き過ぎたのです。
 
「第一回戦においては、彼らはなるべく穏かなる語を以てヨブを責め、彼らに責めらるるヨブはかえって真理の閃光を発しつつ、徐々として光明の域に向って進むのである」
「心霊のことにおいては人は一人一人独立である。神と彼と二者相対の上に心霊問題は生起する。年齢の権威も地位の権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない」として、宗教問題における平等、公平を徹底している。
 
ここを勘違いしてはいけません。心霊が一人一人独立と書いていますが、神と人の関係は個別であることを意味しています。何故なら、共通の願いや祈りというのはありますが、個人的には、一人一人、祈ることは異なるからです。それを、神は聞いておられます。
 
祈りもしない楽山の独り言は、神の憐れみの御心に真っ向から反しているので、滅亡に向かって虚空をさまよい、堕ち続けるだけです。然りは然り、否は否であり、嘘は嘘、詭弁は詭弁、悪は悪、偽善は偽善なのです。
 
神は絶対ですが、人は頼りない相対の存在なので、神と人の関係は、人にとって、相対的にならざるを得ません。このような相対の関係に生きている信仰者は、決して、否定もも肯定も、楽山のように、絶対の立場に立ってはいけません。
 
出来ることをする、そして、絶対ではないから、経過と結果を、祈りを通して、神に告白します。楽山のように、経過も結果も、人も神も、無視して、執拗に、嘘を吐き続けるならば、年齢や権威に関係なく、神からも、真実からも、見捨てられ、反キリストとして、自ら選んだ滅びの道を進んでゆくことになります。
 
誰も、楽山の巻き添えになってはいけません。楽山は、人間離れして、さらに、だんだん、魔物になり、鬼になり、滅されるのを待っているだけであります。楽山の大好きな「鬼滅の刃」は、宗教の話ではありませんが、鬼の性根の悪さについてはビジュアルにビビッドに伝えているということです。
 
因果応報という考え方に対する強い拒否感を露わにして、「要するにこれ悪人必衰必滅という陳腐なる教義の主張に過ぎぬのである」「すなわち悪人は苦悶を以て一生を終え、困窮失敗の中に世を去り、その家族もまた零落すというのである。同時にこの語は苦悶、困窮、失敗、零落はすべて罪悪の結果であるとの意味を含んでおるのである」としている。
 
楽山の、悪の運命を表しているようです。しかし、困窮失敗を、楽山は、自覚しないので、あらゆる排せつ物を垂れ流しながらも、笑い続けるかもしれません。総て罪悪の結果でしょうか。そうではなく、総ての人は罪悪にいます。しかし、自覚し、悔い、祈り、赦される道があります。
 
ただただ、楽山は、罪悪を自覚せず、自覚する道をおとしめたがゆえに、笑い続ける地獄へ落ちるのであります。文章が、くずれているのは、その表れかもしれません。
 
悪人と善人の違いは境遇にあるのでなく、その心(罪の意識?)にあるという。「神を嘲る悪人にして成功また成功の一路を昇る者は決して少なくない。神を畏れず人を敬わざる不逞の徒にして、何らの恐怖煩悶なくして一生を終る者はむしろ甚だ多い。罪を犯し悪の莚に坐して平然たるがすなわち悪人の悪人たるゆえんである。悪人の特徴は煩悶恐怖を感ぜざる所に在る」「恐怖苦悶はその人の心霊的に目ざめたるを示すものである。神を知らざる時我らに真の恐怖なく、痛烈なる煩悶はない。怖るる事、悶ゆる事、それは神に捉えられた証拠である。そして救拯と光明へ向ての中道の峠である」
 
罪の意識を全く持っていないのが、楽山です。楽山の学者・評論家気取りは、あらゆる気づきを不能にしています。ゆえに、本を読んでも、自分の言葉にすることが出来ず、そのまま引用することしかできないのです。楽山の、未熟と腐敗、どちらも、よく表れています。哀れです。
 
ヨブの友人たちについては、「我らはくれぐれもエリパズら三人の心を学んではならない」と注意喚起している。
 
ああだから、こうだからと、因果を捏造したり、作話したり、辻褄合わせをしたりするような、幼稚で、教条主義的で、言葉面だけの説得は、結局、実質がなく、自己正当化に至るので、無効です。そういう有り様は、まさに、楽山という反キリストにおいて、救いがたく、醜く、明らかであります。
 
私見ながら、こういう文章を読むと、因果応報という考え方は、現実に合わないのはもちろん、非常に不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくないものだと改めて思う。
 
因果応報が、意味を持つのは、楽山のように、おかしいと明らかな行為を、即ち、埒(らち)もなく書き続けるような行為の罪悪を、明らかにするときであります。警察が、動機と経過を重視することなどに表れています。正直でなく、嘘吐きの、犯罪者には、それを突き付けることになります。そして、批判も、言論において、同じようなプロセスはあると言えるでしょう。
 
楽山が、因果応報について「不公平、理不尽なものであり、道義的にもよくない」と言っているのは、楽山の悪と偽善の因果が、恐ろしく明らかになってきたからであります。宗教云々ではなく、楽山の傲慢と貪欲と偽善の罪は、現時点で、どうしようもなく救い難いのです。
 
こう書くと、「因果応報は、この世だけで見るのでなく、過去世、今世、来世を通して見なければ分からないものだ」という反対意見もあるだろうが、それにしたって、因果応報を真としているかぎりは、それに輪廻転生をくわえても、くわえなくとも、逆境にある人に対して「艱難は罪悪の結果だ」として責める構造に変化はないのだから、ヨブ記の議論の繰り返しにしかならないし、
 
楽山の罪と偽善は、嘘吐き、無反省、無責任、無理解、無視、訂正不能、詭弁、という、最悪の手段のオンパレードですから、いくらでも、繰り返し、糾弾されるべきものです。ヨブとは、全然、違うのです。これも書いたのですが、楽山は無視して、内村鑑三を、自己正当化に悪用しています。
 
ヨブ記の議論では神の絶対性を信じるときに因果応報はナンセンスなものになるという結論が出ているのだから仕方がない。日が昇れば朝露は消えるように、神の絶対性を信じれば因果応報にしろ何にしろ神以外のものはすべて空しいものにならざるを得ないのである。
 
どれだけ、楽山が、自己正当化の言葉面や詭弁を弄しても無駄です。ここでは、聖書のヨブ記を悪用して、因果応報はナンセンスだから、オレは無罪じゃ、とでも言いたいのでしょう。とんでもない。楽山の、神も聖書も悪用して自己弁護する醜さは、随所に表れてきたのであり、まさに、目を覆わんばかりであります。
 
ましてや、「仕方ない」「神以外のものはすべて空しい」などと、神と神の大切な被造物を巻き込んで、おのれの空しさの巻き添えにするなど、以ての外であります。楽山の理路は、楽山の良心は、既に、滅びています。その証拠が、今回の記事に、集約されています。今後も、同様でしょう。
 
楽山は、なおも、気取って、既に否定され成り立たない発言をすることで、かえって、自らを滅びに定めてゆきます。もはや、詭弁を弄して自慰にふけっている楽山に、決して、影響されないように、関わらないように、近づかないようにしてください。いつもですが、今回も、くれぐれも、お願いいたします。
 
 
堕ち行くもの

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(2020年12月20日、同日一部修正)
 
 
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