人からの自由2
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においても、人からの自由という大きな恵みがあります。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、一種のカルトであります。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰になりやすいと思います。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、
 
他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。
 
この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。
 
この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その者は、
罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていいと言い、
 それを、キリスト信仰ではないと批判すると、
今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与えるからだと言い、
 そのようなキリスト信仰はどこにも存在しない、
 まず最初に自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりで、
 悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと、
生まれながらの自由意志ではなく
御言葉と御霊による自由意思などと言い出し
 思いつきで中身のない理解不能の造語的組み合わせを平気でしてきます。
 その場で繕っただけの言葉遊びを
 自動的に聖霊によって正当化したつもりなのです。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、
人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり
自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ
人間らしい自由意志を嫌い
人間を嫌って否定しているいる証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど
理解力が欠け落ちている者がいるということです。
 
人間が、人間離れしたら、人格の破壊と喪失によるところの、カルト的狂気しかありません。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、御託を並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られていますと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っておらず、まともに人の話も理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を真逆の方向に振り回して、悦に入っている人格破壊の姿であります。
 
それが、その者の中だけで終わってしまえばよいものを、そういう者ほど、その妄想を、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、もちろん、超人になることではなく、また、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、それゆえ他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うするために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対して正直となるためであります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神の絶対を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることであり、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味です。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを、信仰生活とすることです。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、それゆえに、主の慈しみを知るために、神への信仰があるとも言えるのです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることなく、あらゆる形式に時に従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともならず、打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とならず、悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、誤りのない生き方の境地ではなく、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
むしろ、人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
ゆえに、キリスト信仰の、人からの自由は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。
 
 
人からの自由

人からの自由
 
 
(2019年12月10日)
(2020年12月29日、加筆して再録)
 
 
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