運命論・虚無
 
   自由意志の限界について
    (『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』小林昌平著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41556620.html
 
 
自由意志の限界について、哲学は結論を出していません。楽山の言う哲学は、因果が既に連続して決まっており、どうするかと考えても、どうするかと考えるということも、その因果の一部として決まっており、だから、自由意志ではない、という論理なのでしょう。
 
論理上、それで結論としていますが、答えを出している、と言うに程遠いのは、必須であるところの、人間としてどう向き合い、考えればよいか、という実践的課題を、うやむやにしているので、その結論、人間には何の指針にもならないからです。
 
限界があっても、人間がそれを知りえなければ、限界がないのと同じです。結論は、何かの確からしさを知ることです。知りえない限界をもって答えとするのは、滑稽でしかないのです。そこを無視して、楽山のように、ねちねちとほじくって、いじりまわしても、何も得るものはないのです。
 
何故なら、意志が自由でないと言っても、自由でない成り行きを人間は前もって知ることはないからです。だから、その不明をもって、努力を必要とすることを自由意志と呼んでいても、それこそ必然なのであり、全く不思議はないのです。
 

自由意志がないと納得してしまうのは、人間としての実感を疎かにしているということに他なりません。

このことは、楽山、シャローム、易坊、という成りすましも疑われている者たちに共通しています。
 
理屈だけで、自由意志はないと言う結論を出したつもりになって、こともあろうに、それで満足して、楽山とその仲間は、アドラー心理学→楽山のアドラー教、という、運命論的自己中心の怠慢なカルト宗教を作り出してしまっています。
 
楽山の筆致の大きな特徴は、他者の言説を自分なりにじっくり吟味することが出来ず、安易に利用していることによる何とも漠然とした書き方です。漠然と成り立ちそうなことをあげて、それを個別のケースに当てはめるのです。印象操作であり、刷り込みであり、ボンヤリ言語であり、遠回しの婉曲であり、骨抜きの文脈であり、卑怯です。
 

人はどこまで自由なんだろうと前々から疑問に思ってたけども、本を読んでたらこんな文章を見つけた。
私たちは嫌みを言う上司に対して、つい、「なんであの野郎、もっと人が気持ちよく働けるような言い方でいえないんだろう?」などと考えてしまうわけですが、スピノザはその上司を含めて、だれも、自分で自分を変えることはできない、と言っています。つまり「自由な意志」などというものはないのだと
(『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』小林昌平著、文響社、2018年、p.148)

 
楽山は、自由意志についての、否定的な哲学の文章を、誰も自分で自分を変えることは出来ない、と引用して、呆れたことに、それを、自由意志などはないと、全否定にすり替えています。
 
もし、楽山が、総て承知の上で書いている作為の記事だとしたら、とんでもない悪意で騙そうとしていることになります。
 
哲学的には、人は、様々の内的外的条件に支配されて必然的に生きているから、自分で変えてはいないと言うことだと思いますが、楽山は、それを、一般的な言い方で自由意志はない、と言ってしまうことの弊害を考えていないようです。今回も印象を操作しようとしています。
 
 
楽山の、アドラー心理学からのアドラー教の記事にも似たようなことが書かれていました。
「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html

(ツイッターからの引用)
気に入らない意見は、無視しましょう。
人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。
他人の意見がどうも納得いかないのなら、その人と距離を取るしかありません。
他人の課題に介入できないと割り切って、自分のことに集中しましょう。
https://twitter.com/adler_salon/status/1051230439216562177
(楽山)
一応は、どんな意見も聞いておいた方がいいのではないかという気はするが、やたらと難癖をつけてきくるとか、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷…というものは無視するのが正解だろうとは思う。
どうしてもウマが合わず、相性が悪い相手とは、距離を取るしかないというのもよく分かる。
間違っていることをしている人に対しては、きちんと意見してあげるのが親切だという考え方もあるけれども、その者が子供ならともかく、大人であれば、一、二度意見すれば十分だろう。その後どうするかは本人の課題。

 
人の意見を聞いて考え、返すと言うのは親切ではなく、当然のことなのです。楽山は、それを勝手に相性が悪いと切り捨て、人の意見を、的外れ、嫌味、嘲笑、中傷、と決めつけて、都合が悪いと、無視という距離を取り、だから、全く変わらないので成長も学習もなく、前に言ったことと、同じ浅さを繰り返しているだけになっています。楽山は、破壊が表れていることに気づきません。
 
前にも記事にしたことがあります。
「いびりのような当てつけ」
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111138.html
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20024186.html
https://st5402jp.blog.fc2.com/blog-entry-86.html
3つとも同じ記事です。
 
 「 引用はじめ
 
>気に入らない意見は、無視しましょう。
  
気に入らない意見が人間を育てます。それを無視したら、自己中心に固まってゆく道しかない。
  

人の意見を変えさせようとするのは、無意味です。
他人の考えを変えられる人間は、この世に存在しません。

 
(加筆含む)
これは、人間は変わらない、変えることは出来ない、と言ってるようなものです。楽山は、人の意見によって影響を受けたこと自体が自らを変えさせるところを無視して、変わらないと言い張っているに過ぎません。そして、思考を怠り、刺激を無視して、刹那的な安穏の誘惑に乗り、それを、あたかも、悟りであるかのように、訂正不能の信条としているのです。
 
自分はどうやって成長するのでしょう。この言は成長を否定する言葉です。
自分が気に入るものだけで成長するという考え方は安楽だけを求める偽善です。
 
それに、批判は、批判対象を変える目的だけではなく、当事者以外の読者に警鐘を鳴らすことでもある、ということを前に言ったのですが、忘れているようです。短絡がだんだんひどくなっています。
 
  」引用終わり
 
加えて強調しますが、
 
気に入らない意見を無視すると、社交の世辞や丁寧語だけで生きてゆくことになります。気に入らない意見の中から、思考の糧が生まれてくることを、楽山は知らないか、知ろうとしない。
 
人の意見を変えさせるために聞くのではありません。自分を洞察するため、自分を確認するため、また、自分を成長させるために聞くのです。
 
心を煩(わずら)うほどには、気にしなくていい、ということです。楽山は、解釈を極端に拡大して、どうにも、道理に合わないことを決めつけてアドラー教を作っているだけなのです。
 
こういう批判を、他にもいっぱい書いていますが、楽山は、この極端な、気に入らないことは無視する、というアドラー教によって無視して、訂正不能のカルトになっています。
 
 

たしかに物事はすべて原因結果の連鎖によって成り立っているとすれば、すべては必然であり、ニニが四であり、その枠から出るのは難しそうではある。

 
その原因結果の連鎖の枠の中身を、私たちは知らないのですから、それを、無視する結果にしてしまうと、そのことが、自分を無気力の、それこそ、運命論みたいにしてしまうということに気づかないのでしょうか。楽山には、強情と、無気力の、両方を感じます。こういう記事を書いて、自ら恥ずかしさを覚えない、無頓着~鈍麻を感じます。
 

仮に、人が何かを意志したとしても、それは自発的なものというより、何らかの刺激に対する反応にすぎないとすれば、なんだか馬鹿らしいような気もするけれども、すべてはニニが四であるなら、それを認めないわけにはいかないのだから仕方がない。

 
このような調子です。なんだか馬鹿らしい、そして、仕方ないが、と言って、結論?
・・これが、どっちつかずが柔和だと思っていることの経過と結果の惨状です。
 

ときには、自分を励ますために、「人には自由意志がある。人は、自分の在り方も、生き方も、自由に決定できる」と考えてみるのもいいとは思う。でもそれが現実であると本気で信じ込んでしまうところまで行くとしたら、それは地に足がついているとは言い難い考え方と言わざるを得ないことになるかな、すべては決まっているという考え方からすれば。

 
楽山こそ、全く、地に足がついているとは思えません。楽山は、以前、自由というHNを使っていましたが、楽なお山の大将ではあっても、決して、真の自由を持ちませんし、真の自由を伝えてもいません。それは、自分の都合しか思い及ばない理路の単方向性と、ボンヤリ言語に向かう心性に表れています。
 
楽山の足がついているところは、地ではなく、自由意志が現実に生きてこないところから、決まっているという考え方に帰して、思わせぶりな思春期の思考遊びのような運命論の理解?に短絡しているに過ぎないのです。前に、若くないと書きましたが、逆に、ひょっとして、中学~高校生なのでしょうか。
 
今回は、楽山の、ボンヤリ言語と、虚無と、虚言と、虚偽と、いい加減さ、などの病理の、枠が見えてきた気がします。批判に対する、無視と無為による攻撃者となっているのです。
 
楽山が、このまま変わらなかったとしたら、楽山が何も変わろうとしなかったからだという因果が後で明らかになるんでしょうけれど、最初から決まっていたと後になって言うことに、後になってからしか言えないことに、だからずっと自由意志はないと主張して、何か意味があるでしょうか。
 
ただ、もし、楽山が、総て承知の上で、アドラー教の宣伝のために作為で書いた記事だとしたら、とんでもない悪意が働いていることになります。
 
気に入らないことを無視するアドラー教で、学習も成長も止めてしまうと、一見、安楽に見えても、真実を追求するべきテーマに、社交の言い方を当てはめているうちに、そこだけに言語と理路がとどまってしまって、理解するべき人間の節操や分別や共感性などが損なわれてゆくことを、楽山の文章に感じています。
 
アドラー教の自己中心の、不十分で不可解な理路と感じ方で、判断も結論も、最初のものから身動きが取れなくなって繰り言に近くなってゆくのでしょう。その結果として生じる災いを、次には、人のせいにして、怒りから、怨念に固着してゆくでしょう。
 
自分の欠けているところを認めず、謙虚さを持てず、現実離れした自尊を想定し固定し守ろうとするとき、本来ならば参考になるべき他者が、敵にしか思えなくなる精神となり、ルサンチマンと呼ばれるものになります。それは、弱者に募る怨念とか負け犬根性などと説明されています。シャロームや易坊にも同じ精神が見られると感じています。
 
少なくとも、シャロームと易坊もですが、今の楽山と和解したり、楽山の批判記事を書かないことは、キリスト信仰に反すると判断します。決して、底無しに堕ちてゆきそうな者のボンヤリ言語を真に受けないでください。
 
 
(2019年06月28日、同日一部修正)
 
騙す(だます)騙る(かたる)
 
 
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