信仰の道
 
 
キリスト信仰は、学習の道であります。信じたから総てOKではありません。聖書と人生経験から、祈りと導きから、学んでゆく道であります。洗礼を受けたからOKではありません。
 
神の意志と行為は、神秘、即ち、神の秘密でありますから、儀式は、人にとって、保証ではなく、人からの決意表明であるに過ぎません。
 
キリストを十字架につけて殺したのは誰か。聖書の記事から、それは、パリサイ人、律法学者、祭司、という旧勢力の者たち・・正しいが、不十分であります。
 
キリストを十字架につけて殺したのは、時を超えて、私たちであります。戒律主義・教条主義によるのか、安い道徳、あるいは、勘違いによるのか、さまざまですが、キリストを十字架につけて殺すのは、私たちであります。復活の主でなければ信仰はあり得ないということです。
 
このことから救いがないと言いたいのではなく、キリスト信仰は、決して、悟りの不変の平安の境地ではなく、信じて完全になることでもなく、信じた後も、反省と成長の道であるということです。即ち、教えを守って、正しくなるから救われるのではないということです。
 
信仰は、罪の贖いによる生命保険ではありません。私たちに払える掛け金などありません。ただ正直な祈りだけが、私たちを、神様につないでくれる唯一の音信であります。
 
自分が頼りなくて、自分にうんざりして、自分の欠点や罪を自覚している人に、信仰は救いとなります。宗教や思想にうんざりした人にも、信仰の救いは与えられるということです。
 
自分の欠点や罪を自覚できず認めない者にとっては、信仰は無意味でしょう。そういう者が、あの手この手で、人を惑わしに来ているようです。黙っておれば、結果は、自分のものだけであるのに、人を巻き込もうとするので、要注意、要警戒となっています。
 
 
大仰に、神を讃え、それこそ、命懸け、命を捨てても・・みたいなことを言う者がいますが、そのような信仰のあり方は、既に、ペテロにおいて、失敗しています。神秘の前には、自らの罪と願いを正直に告白し、あとは、恐れて黙する以外にはないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:33-35、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:69
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:70
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 
26:71
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:72
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 
26:73
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 
26:74
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 
26:75
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 (マタイ26:69-75、新約聖書)
 
私たちには、神の前に誇れるものなど、豪語できることなど、何一つありません。であるのに、人の前に、誇り、勝ちを狙い、豪語するなど、以ての外であります。
 
私たちは、ただ、できることをしているに過ぎないのです。そこには、多くのあやまちや罪もあるでしょう。それでも、できることをする、そして、正直に祈る、これだけしか、信仰によってすることはありません。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
「いちばん大切なもの」
「マリヤとマルタの愛」
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 
26:9
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (ルカ26:7-10、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。
 (マタイ9:20-22、新約聖書)
 
神が、人を計るのに、結果の出来ではなく、効率でもなく、善悪の人の基準でもなく、その信仰のみを見ておられることが分かります。
 
キリスト信仰においては、必ずしも、善行を積むこと=救われることとは限らないという、かなり違った意味を持っています。
 
充分に考えたと判断して、効率もよくても、それで、善を施したと思い込んで慢心しては、信仰は台無しになるでしょう。神の完全な善悪の判断と、人の不完全な判断は、大きく異なることを弁えておくべきなのです。
 
神に比べて、不完全な私たちの善行は、高が知れており、ゆえに、信仰においては、できることする、そして正直に祈る、ということを超えるものはないのです。神は、人の信仰のみによって判断されるゆえに、道がハッキリ見えないときでも、できることはあるということです。
 
 
道

 
 
(2021年01月08日、同日一部修正)
 
 
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