楽山の反キリスト
 
 アンチクライスト(ツイッターより)
 2021年01月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、反キリストだと言われているミュージシャンを引用しているつもりでしょうが、その発言から、楽山とは、まったく正反対の批判的な人だろうと推測します。楽山は、相変わらず無理解です。
 
*アンチクライスト
マリリンマンソンは、名前だけは知っていたが、こういうことを言う人とは知らなかった。
上馬キリスト教会
@kamiumach
【今日は何の日】
1969年1月5日マリリンマンソン生誕
アンチクライスト・スーパースターとして有名な彼ですが「俺は本当の神を恨んだことはない。俺が恨んでいるのは人々が信じる神だ」とコメント 神様に批判的な人の意見が時に神様への理解を深めてくれます。ちなみに彼の曲は意外とポップです
 」
 
(ネットより)
マリリン・マンソンとキリスト教
マンソンには常に反キリスト教のイメージが付きまとう。反キリスト教イメージを持つアーティストは少なからず存在するが、ここまでそのイメージが定着しているアーティストは少ない。それを決定付けたのが、セカンドアルバム『アンチクライスト・スーパースター』の発表である。これ以後マンソンは「アンチクライスト・スーパースター」という別名で呼ばれるようになった。しかしマンソン自身は、単なるキリスト教批判ではないと主張している。「ディスポーザブル・ティーンズ」という楽曲の中で「俺は本当の神を憎んだことは一度もないが、人々が信じる神は大嫌いだ」と歌っているのはその一例である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3

 
マンソンの「単なるキリスト教批判ではない」という主張が書かれています。マンソンは、楽山のような、無反省・無責任・無理解・無情・幼稚の病質的反キリストとは違うと思います。
 
「俺は本当の神を憎んだことは一度もないが、人々が信じる神は大嫌いだ」・・信仰の堕落と偶像化を嘆いているのではないかと思われます。優れた洞察です。それは、忌むべき偶像崇拝や自分信仰のことで、決して楽山の自分信仰そして反キリストと同調するものではないのです。
 
心ある人からの、こういう批判は、必然であり、あってしかるべきであります。そして、それは、良心の無い楽山のような、嘘と詭弁と誘導による卑怯な反キリストとは正反対の批判なのです。またしても、楽山は、自らの芸術的・文学的・思想的無理解から、逆説を洞察できず、おぞましい真逆の勘違いに至っています。
 
楽山は、殆ど動物的に、悪魔や反キリストという評判だけで、自分の味方だと思ってしまうほど、知恵が働かなくなっています。深みとか、洞察とか、逆説ということが、全然、理解できないことが、今までにも、しばしば表れてきました。
 
楽山は、人間についても、言葉についても、宗教・信仰についても、深い理解力が皆無なので、エサと思ったから、すぐ飛びついて、浅ましさを露呈しているだけです。
 
キリスト教に対する、いかなる批判も、真実の良心からの根拠があれば、可であります。
 
それくらい、キリスト信仰は、形骸化しやすいということです。何故なら、良心は、目に見えず、一方、言葉や習慣だけの讃美は、目に見えて、容易いからです。
 
ずっと、いちゃもんをつけるだけで、キリスト教批判の根拠を示せず、正当な批判というものが全くできない楽山は、子供じみた白々しい低次元の嘘と詭弁に走っているから、誰にとっても有害であり、批判対象となるのです。
 
マンソンのような批判的な人物の叫びを、いちばん裏切っているのは、楽山のような偽善者なのです。それが、「俺は本当の神を憎んだことは一度もないが、人々が信じる神は大嫌いだ」という言葉なのです。ここに、真実の神への渇きが表れていることを、楽山は、全く気づかない愚か者です。
 
悪人を演じる偽悪者であるマンソンと、善人ぶる偽善者である楽山の違いです。
 
このように、良心的なキリスト者を無視して、一部に偽善的なキリスト者がいることをネタに、何も分かっていないのに、教会もこう言っているという短絡した言い分で、キリスト教を侮辱してくるのが楽山です。楽山が自分では何も書けないからでしょう。
 
嘘と詭弁の偽善者そして反キリストの楽山とは全く別種の人間であるアーティスト・ヴォーカリストを、楽山の自己顕示欲のために悪用した偽善の罪は測りしれません。楽山は、ますます、一方的、短絡的となってきたようです。欲望に飢えた楽山は、手段を選ばず悪用するので、さらに要注意です。
 
「神様に批判的な人の意見が時に神様への理解を深めてくれます」・・・一方、楽山には、神と人と信仰について、全く理解できていないことが、約2年間の批判において明らかになっています。何も根拠を示せず、説得力がない楽山です。欲望に性懲りがないということだけなのです。
 
楽山は、以前からですが、他者の迷惑を考えることが出来ず、罪悪感を感じることが出来ないのだろうと思います。そういう人は、何をやらかしても平気でいられます。偽善は、パリサイ人においては殺人にまで及んだように、偽りと詭弁をもって、自分を物わかりのよい善人に見せかけようとしますが、それにとどまらず、愚かさから凶暴さに、進行性であります。
 
*似てる
上記スイートのリプからすると、本人は教会に集う人々の偽善を知ってから、「人々が信じる神」と「本当の神」を区別するようになったらしいけれども、この考え方は田川健三の考え方に似てるようだ。
・信仰という偶像崇拝? (『キリスト教思想への招待』田川健三著) - 楽山日記(LD)
神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。
・田川建三
 」
 
私は、既に、批判記事を書いています。楽山は、反論も弁明もできなかったのに、またここで、引用して、信仰をおとしめてくるという卑怯者です。とても、汚い男です。逆説的な批判というものを理解できず、そのまま、否定の意味に取って、逆だからというだけで賛同する楽山の浅ましさです。
 
*器
それにしても、教会の公式ツイッターで、「神様に批判的な人の意見が時に神様への理解を深めてくれます」という発言ができるのはすごいな。
しかもその一方で、こういうツイートもあるという(笑)。
上馬キリスト教会
@kamiumach
#緊急事態宣言でも楽しもう
①ひたすら寝る
②もう寝れなくなる
③聖書を読もうとする
④ぐっすり寝れる
午後8:38 · 2021年1月6日·Twitter for iPhone
 」
こういう発言の幅広さをみてると、上馬キリスト教会のキリスト教全体における位置は知らないけれども、自分のようなにわか者には、よほど器が大きい教会に違いないと思えてくる。
 
組みやすしとばかり楽山に悪用されている教会があるようです。楽山に、器も、器を測る力量もありません。にもかかわらず、高いところに立って、上から、器が大きいなどと、楽山は、高慢な批評家気取りに満悦しているのです。
 
節操も分別もなくなり、自分が、キリスト教についても信仰についても、何も、まともに語っていないことに気づかず、欲望だけでネチネチと書き続けるだけの楽山は、有用な何ものも残せず、楽山の独りだけの思い込みによって、破滅的に無残であります。
 
新コロナも大変でしょうが、古びて進歩の無い楽山という疫病が、また、ブログの記事を書いています。反省せず、いかなる責任も負えず、負わなくていいと思っている輩ですから、決して近づかないでください。発言内容は、進歩の無い幼稚な勘違いか妄想で、取るに足らなくても、楽山の、この厚顔無恥ゆえの執拗さは、近くにいる人すべてにとって、ある意味、恐怖であります。
 
 
恐怖

恐怖
 
 
(2021年01月10日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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