楽山の欺瞞(ぎまん)
 
 「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年01月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、性懲りもなく書いてくるのは、批判を無視してのことです。だから、だいたい、同じようなことを書いてきます。無反省で無責任な楽山は学習し成長するということがないからです。
 
それにしても、この楽山の不感不応の執拗な書き方は、本能しかない実験動物のようです。かつ、何の貢献にも糧にもなりえない、ただの迷惑であります。
 
そして、楽山は、自己正当化という自堕落に満悦するのでしょう。自堕落に満悦するところと、嘘と詭弁を平気で書いてくるところが、信仰者ヨブとの決定的な違いです。
 
「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十六章の研究
「「汝らは皆人を慰めんとてかえって人を煩わすものなり」は原語を直訳すれば「汝らは人を苦しむる慰者なり」となる。慰者とは名のみで実は人を苦め煩わす者であるとの意、強き嘲りの語である」
 
友人たちは、慰めようとして、教条を振りかざし、ヨブの心に触れることができませんでした。ゆえに、ヨブの心を煩わせるだけになります。
 
批判でもなく、嘘と詭弁で、人をだまし、キリスト教についての、幼稚な固定観念を植え付けて、反キリストらしい文章を書いているのが楽山です。
 
慰めようとして、結果が逆で、煩わすのではありません。楽山は、最初から、悪意をもって図り、キリスト教についての悪い印象を吹き込んでゆく反キリストですから、容認されることはありません。
 
楽山のことを柔和な人と思えば、その時点で、罠にかかっているということです。私も、数か月、だまされていました。
 
そういう履歴だけを、ブログを書くことで残してきたのが楽山です。楽山は、教条ではなく、もっともらしい言葉を選んで来ては、悪い印象だけを吹き込んでくる精神の詐欺師であります。
 
「この怨語を聴きたる三友は、ヨブを以て神を謗る不信の徒となしたのである」「しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦みである。神を離れし者または神に背ける者は神を忘れ去る者であって、神を怨み得ないのである」
 
ヨブは、自己正当化をしましたが、神が表れることで、衝撃をもって、悔い改め、その信仰を回復しました。恨んでも、神に背き得ないのは、神を恐れる故であり、信仰の回復の兆しではあります。
 
そして、信仰と呼べるのは、悔い改めたからです。それは、ヨブが、楽山と違って、神を恐れる人であり、終始、真剣だったからでしょう。
 
そのようなヨブと違って、逆恨みで、いつまでも、いつまでも、神を、呪い続けているのが楽山です。信仰がないなら、とやかく言う資格もないのに、根っこに怨念だけを持って、信仰の兆しもないために、同類を増やしたくて、だますことしか思いつかないのが楽山です。
 
楽山は、ヨブとは全く逆であり、無反省・無責任・無理解・訂正不能の反キリストだと思います。どうか近づかないでください。楽山には、信仰もなく、信仰についての興味もなく、信仰につながる可能性も感じられません。
 
根拠は、今までの記事であり、信仰の「し」の字も理解していないのに、知ったかぶりで、低劣な理屈を捏ねて、神を否定し、かつ、その責任を負わず、かつ、反省もせずに、書き続けていることです。
 
この記事も、恨むのは忘れ得えないから、という逆説を利用して、楽山が自己正当化することが狙いなのでしょう。それによって、自己顕示欲を満たし、自分が高められることだけを求めるのです。
 
「神に対する怨言は、懊悩絶望の極にある心霊の乱奏曲である。かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づくのである。これ心霊実験上の事実である。この実験なき浅薄者流はこれを解し得ずして、エリパズらの過誤を繰返すのである」
 
楽山は、悲痛を経験していません。経験していたら、嘘と詭弁を弄したりしないからです。楽山は、少しも神と真理に近づいていません。繰り言のような、いちゃもんを書いて自己満悦を繰り返しています。この記事もそうです。心の底まで、狡猾な、反キリストです。
 
心霊実験とは何でしょう。心霊って実験できるものなのでしょうか。少なくとも、信仰において、心霊を振り回す人は、信用できないと思います。大事なのは、人間らしい心であって、霊でも、心霊でも、ないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の、信仰についても、何事についても、超常のことばかりで片づけようとするような、おふざけ評論家気取りの楽山が、自分と似たような文言を探しては引用して、文言だけで賛同芝居をして、あとは、神と人を揶揄して、遊んでいるだけです。
 
「人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は、大地に向って訴え、わが血に向って我の証人たれと願うほどに至るのである」
 
神に捨てられたと思うなら、何に向かっても、証人など求めたりしないはずです。ヨブは、神に捨てらたような気持ちになって、自己正当化によって失いそうになった信仰を、神によって取り戻します。
 
楽山は、元々、信仰の欠片も持っていないので、証人も、証拠も、根拠も必要なく、また、神など、どうでもよく、自己を飾りたいだけです。総ては、楽山の自己正当化のためでしょう。それ以外は、どうでもよいから、平気で、オモチャにして、平気で、嘘を吐くのです。
 
「二十節に言う「わが友は我を嘲る、されどもわが目は神に向いて涙を注ぐ」と」
 
 (ヨブ記、口語訳)16:20
わたしの友はわたしをあざける、
しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
 (ヨブ16:20、旧約聖書)
 
友人たちは、信仰の理屈を語っているだけだったので、ヨブへは、あざけりになります。ヨブは、自己正当化を図って、神と議論をしようと言いました。その本心に涙があったとしても、神と議論できる人間などいないのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、新約聖書)
 
楽山は、そういう信仰のこと、神と人の関係が、聖書からも、全く理解できないので、涙をもって悲しむこともなく、そのポーズだけを真似て、「反省、トホホ」などと書いて、逆に、得意になっても、決して、神に向いて、涙を流すことなどないことが明らかになっています。
 
楽山の言は、乾燥大麻のようなものです。吸い込んで気持ちよくなると、癖になり、やがて、人格を破壊されるでしょう。心が無く、高等感情が鈍麻して、共感も持ち得ないために、芝居と嘘と詭弁で、だまして、つないでゆく蟻地獄にいて、人に対しても、蟻地獄となっています。
 
「友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々たる宇宙ただ神と我のみあるの実感に入りて、初て神と真の関係に入り得るのである。しかして後また友誼を恢復して、これを潔め得るのである」
 
このような大仰な書き方をする必要はありません。このような書き方を好むのは、ホラーや超常現象や心霊現象が大好きな楽山の趣味であり、あくまで趣味であり、そこに中身は、まるでないのです。
 
信仰は、宇宙的境地の神の実感を与えられることではありません。人間に可能な共感を与えるものです。これら大仰な超常のことは、楽山やシャロームのようなカルト的反キリストが求めるものです。
 
キリスト者は、ただ、敬虔という身の低さをもって、神の憐れみを待ち望みます。楽山は、好みも、志向も、全く逆です。つまり、カルトが好んでやまない、自己優越感だけを求めているのです。特別の存在になって、注目を浴びたい、これだけが、楽山の無謀な野心であります。
 
「人は己の無力を覚るとき、強くして力ある我の代弁者を求めざるを得ないのである」
羽仁もと子がヨブは神を信じているからこそ恨み言を述べているとしていて、はっとさせられたのだが、この点についてはこの講を読んでさらに納得できた。
 
楽山は、己の無力を認めないからこそ、嘘を吐き続け、詭弁を弄し続けています。健常人には考えられないことで、病質的異常者であろうと思っています。
 
楽山は、己の無力を知ることも、神のほうを向くことも、祈ることも、芝居以上にならず、それでも自己顕示欲を抑制できないために、なお、恥ずかしげもなく書き続けて、結果として、己についての見苦しさの資料を増やしているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。
 
そういえば以前、キリスト教批判の是非について、とあるクリスチャンに問うたら、批判するということは関心があるということだから無関心よりずっとよいとしていたのだった。
 
楽山は、悪口を刷り込んできます。ゆえに、楽山に対しては、全否定のためだけに批判しています。楽山のあり方は、信仰において、容認できる要素が、皆無であります。
 
楽山には、キリスト教に関心があるのではなく、嘘と詭弁によってキリスト教と信仰をおとしめる意図が、約2年にわたって、表れています。
 
熱心な信仰者のなかには、宗教批判したら、即、不信仰者だと決めつける人もいるが、事実はそれほど単純ではないということだろう。 
 
私も、キリスト教批判をすることはあります。キリスト教内外に、カビのように蔓延る教条主義や悪しき慣習や自己満足や固定観念に対してであります。しかし、楽山は、全く違います。約2年にわたる楽山の嘘と詭弁が証拠です。
 
楽山は、キリスト教を批判しているのではなく、侮辱しているだけです。楽山は、信仰者でもなく、不信仰者でもなく、恨みと嫌悪と自己満足のための反キリストです。
 
信仰は、命がテーマですから、楽山が、勧善懲悪のホラー映画につける感想のレベルの、みすぼらしい屁理屈で語るような、善と悪とか辻褄が合うとか合わないとかいった単純なものではないのです。分かったふうな、楽山の評論家気取りに、だまされないでください。
 
楽山は、厚顔無恥で薄っぺらな印象を吹き込む煽動者です。いずれ、大好きなホラーの世界に沈んでゆくでしょう。沈黙する神は、また、いつまでも黙っている神ではないのです。
 
 
欺瞞

ぎまん
 
 
(2021年01月31日、同日一部修正)
 
 
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