信仰の情熱2
 
 を再録+
 
 
既に前に、
信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、
と書きました。
 
では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。
便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。
心がふるえていないからです。
なんとなく辻褄があったような気がしているだけで
感動がないからです。 
 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。
 
 一部の人々は
 聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。
 超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。
 超常が分かる人ではありません。
 超常が分かったことにしたい人々です。
 
 人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。
 他者より神聖になった、
 あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。
 
 そういう人は
 自分が超人になったことを担保したいのです。
 その方向で宗教を考える人には
 日常体験を疎かにする傾向があります。
 
 宗教を超常として教える向きには注意してください。
 そこにあるのは超常ではなく
 他者より上に立ちたがる欲望なのです。
 だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。
 自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は
人間の良心に響く実(じつ)をもって与えられます。
そうでないと人間は動かないからです。
それは欲望の成就ではなく
真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。
 
非人間性に囚われている心が
人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
意外かもしれませんが
それは稀にしか起こらないことです。
 
人間には
良い心である良心と
悪い心である悪意とがあります。
それらは常にありますが
場合によって、どちらかが優位に立つことになります。
それが善行と悪行に結び付きます。
悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され
自分についてもどうなるか分からないと思えば
もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。
 
この世は偶然に支配されているように見えるけれど
その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば
この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは
生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。
そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。
 
そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、
いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人間に頼ることは、誤りというより儚いのです。
自らを見てください。
そんなに立派な頼られ方をされる人間ではありません。
 
その自覚と共感こそが、
人間の側に起こるところの
宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
 
人間は関係の中で生きています。
他者を無視しては生きられません。
 
他者を無視すれば
やがて自分が無視されます。
ひどくなれば人間扱いされなくなるでしょう。
 
どのような関係が
人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。
それは人間ではありません、いやです。
しかし人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を
私個人は慕っております。
その御方は自らの完全の道ではなく
不完全な者に下される致命的な罪の報いの道を
犠牲となって歩まれました。
 
その御方の教えは
そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、
その生涯の目的の主旨として
こうしたら救われるという条件を言いませんでした。
取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。
 
代わりに寛容な愛をもって
多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。
 
 
多くの信仰者と
多くの偽善者が
この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。
 
世の中は偽ものだらけです。
 
 
どうか独り言のように静かに正直に
でもどうか本心で祈ってください。
 
そのような祈りを
誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 
祈りと情熱

祈りと情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
 
 
 
※追加記事、同日一部修正 :
 
  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 
次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。楽山は書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの褒め言葉で、自らの不全を隠しています。
 
この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。
 
楽山は、断定できません。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるでしょうか。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなのです。
 
KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。
 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が言っています。楽山には、誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。楽山に関わり、楽山をまともだと思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
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