楽山の白々しさ
 
 KENTO氏による楽山批判
 2021年02月03日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 楽山が書いている部分を抜粋して批判します。
 
 
また、長々と、ツイッターを引用する楽山です。あちこちに迷惑をかけているようです。楽山だけが、何も気づかないで、しらばっくれているのか、病気の増悪なのか、・・否、楽しんでいるわけです。
 
楽山は、理路が組み立てられない、理路が読み取れない、心が無いから感性がない、自己中の無反省の理路で、責任を負わないでいいと思っている、という、とんでもないブロガーですから、何か言って来ても、問題にしないようにするか、批判するしかない存在です。
 
楽山とシャロームは、だまされて信用した数多き人々によって、責任を問われなくてはなりません。それが無責任男とペテン師が負わされる宿命であります。
 
楽山とシャロームは、一日も早く、宗教・思想などの真実の追求というテーマの言論から、消えなくてはいけない人です。彼ら自身が、身の程を弁えることは、一生ないでしょう。病識のない彼らに対しては相手にしないことしか出来ません。
 
私はキリスト者(クリスチャン)のつもりですが、その立場から見ても、楽山の無反省・無責任は、公害です。キリスト教を侮辱し、のちに、お祈り芝居をするなどは、悪魔性の産物です。楽山の悪趣味にさらされている人々は、犠牲とならないように、楽山を根こそぎ否定してください。
 
もともとは「咲也加氏の卒論は盗用か否か」という議論だったのだが、いつのまにか「楽山の心がけの問題」にすりかわってる。
 
楽山は、自身の心に触れられると困るので、事実関係に絞りたいようですが、誰から言葉が出ているかを考えれば、言論者の心の問題を分けることなど出来るわけがないのです。楽山の策略に乗らないようにしてください。このようなテーマの分け方にも、楽山の根腐れの詭弁が表れています。
 
楽山については、事実関係より、心のほうが、いつの日も、問題としてメインなのです。ずっと心の無い楽山です。楽山の人格は、ホラーです。いつもそこから楽山の言は始まるからです。
 
楽山はHSと咲也加氏に悪感情を持ち、貶めようとして屁理屈をいっている、そんなことは止めて謙虚になって精進しなければならないというお説教。
 
いかなる説諭も、心が無いので無視する楽山に、謙虚と精進を求めるのは無理です。その迷惑な実績だけが、2年間、積まれてきました。
 
楽山は、恐らく、鶏のように、その時その場で発言し、すぐに忘れてしまうのかもしれません。だから、平気で、言い放って、省みず、責任を負わない、という人間離れの技が可能になるのでしょう。良心の欠片でもあれば出来ないことです。
 
信者のなかには、議論で不利になると、とたんに「あなたは心掛けが悪い!」という説教をはじめる人がいるけれども、KENTO氏もそのパターンにはまってる。
 
楽山は議論など出来ません。議論には、知性と感性が必要ですが、楽山は、どちらも持っていません。嘘と詭弁の痴性と不感性の偏見で生きているような人です。
 
また、いちばん、嫌らしくて、相手を疲労させるすべを、楽山は心得ているのです。それに、高等感情が鈍麻しているので、心に、いかなる衝撃も受けません。
 
楽山を人間と思ってはいけません。温もりと潤い、思いやりと悲しみ、という、人間を人間たらしめる人間性を持っていないのです。
 
この議論のテーマは、咲也加氏の卒論についてであって、楽山の人品についてではないことを再確認してほしいと思う。
 
楽山の人品に問題があるからこそ、大いに罪も悪も偽善も働いてきたのだから、ここで、逃してはいけません。分けられないことを、あたかも、別のものであるかのように平気で分けてくる詭弁にだまされないようにしてください。楽山については、いつも、人品・人格が問題を起こします。
 
楽山が何か語るとき、必ず、楽山の人品・人格の問題が前景に出る必然があります。逸らそうとする楽山を、そう言えばもっともだ、問題は別、などと思ったら、だまされている証拠です。楽山の言の、総てにおいて、問題なのは、楽山の人品・人格です。そこを外してはいけません。
 
私は、HS信者が「盗用報道は信じない」というのは理解する。
 
楽山は、何も理解してはいません。理解すると言っているだけです。楽山は、平気で嘘を吐く男ですから、平気で心にもない "理解" を示して、自分の皿に人を載せようとしてきます。
 
「HSは正しく、間違ったことはするわけがない。だからHSを悪くいう報道は信じない」というのも理解できる。何を信じ、何を信じないかは、人それぞれだと思うので。
 
これは、信条を語っているのでしょうか。身びいきではないのでしょうか。ここに、人それぞれを持ちこんでいる楽山ですが、事実関係に関わることではないでしょうか。
 
楽山の、人それぞれ、という意味は、楽山が、嘘も詭弁も平気でやってきたことを正当化するためです。また、自己正当化に他者を利用しています。楽山は、何も信じていないのに。
 
楽山においては、嘘・詭弁・悪いことも、人それぞれ、ということになる正当性を持つのでしょうか。こういうことを平気で書いてくる楽山を許してはいけません。
 
でも、KENTO氏は「盗用はなかった」「盗用報道は嘘だ」という風に、信じる信じないの話ではなく、事実関係について主張している。「盗用はなかった」「盗用報道は嘘だ」というなら、その証拠を提示してほしいと思う。
某アンチ氏の記事は真実を伝えてなかったから、盗用報道も真実を伝えていないというのは理屈にも、証拠にもならない。
 
サディストと言っていい楽山は、このように、人を責めているときが、いちばん快感なのですが、理屈にも証拠にも反応するだけの人間的感性を持っていないのです。楽山の人品に人倫はありません。
 
この件に関してネット検索すれば、盗用はあったとする記事しか出てこないことはすぐ分かる。盗用はなかったとする記事なんて見当たらない。
 
盗用の問題などは、個別の、事実かどうかの問題ですが、楽山の病質の問題は、今まで、そして、これからも、ずっと継続する問題であります。無反省・無責任の楽山に関わってはいけません。このことは敷衍するべきであります。こういう人は、そういう、すり替えで生きているのです。
 
したがって楽山は、自分に都合のよい記事ばかり集めたのでなく、ネット上には盗用はあったとする記事ばかりで、盗用はなかったとする記事は見当たらないというのが真相だ。
 
楽山にとっては、盗用の問題にとどまってくれれば、いちばん、楽なのです。実際は、嘘と詭弁で、人の心を、いためつけるのが快感の、自己愛性パーソナリティ障害、つまり、サイコパスであります。
 
柔和を装う文章にだまされないでください。一生涯、決して、相手にしてはいけない人格です。見つけたら、マークして、警戒を、敷衍するべき病質です。
 
KENTO氏の書き方だと、ネット上には盗用はあったとする記事、なかったとする記事が混在しているにもかかわらず、楽山は盗用はあったとする記事ばかり集めたかのようだけども、これはKENTO氏の思い込みにすぎない。
 
楽山は、話が自分の病質的人格の問題になるのを避けるために、事実関係だけに集中させたいようです。楽山の人格は、遊んでいるだけで、解決しようという気は全くなくて、相手が物を言えなくなるのを待っているだけです。楽山の心底においては、人のことなど、どうでもいいのです。
 
また楽山が紹介した記事には、幸福の科学側の反論コメントも紹介されており、必ずしも一方的なものではない。
 
楽山の言は、自己正当化と保身ですから、いつも、一方的です。言論に登場してはいけない危険人物です。人間をエサにして、釣りをして楽しんでいるのです。趣味なのです。楽山にとっては、いつも、どんなに重い問題も、趣味なのです。中身はありません。自己愛性が、自己愛を満たすために、他者を餌食にしているのです。丁寧語にだまされないでください。
 
信者は、相手方の主張、意見をきちんと読まずに、思い込みであれこれ書くことが目立つけれども、KENTO氏も例外ではない。
 
楽山が、相手の主張を、まともに受け取らないことは、既に、私との遣り取りと批判記事で明らかになっています。楽山は、極めて通念的な思い込みが固定していて、その偏見を超える何ものにも感性も知性も働きません。ゆえに、無反省・無責任で、学習と成長が全くできない異常者です。うそ臭く、生温かく、ぬるりとした退屈な筆致に、だまされないようにしてください。
 
*ヒント
KENTO氏は、大学は盗用はなかったと認識しているというなら、直接問い合わせをしたら済む話だ。盗用があったとは認識していないという回答メールをもらえたら、KENTO氏の見解の正しさは証明され、決着がつく。
また、事実盗用はなかったというなら、資料を集めて調べたらいい。たとえば、下のブログ記事にはページ数も書いてあるので、もし記事に間違いがあるなら、現物の写真を提示して記事は間違ってると証明したらそれで済む。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 」
KENTO氏は、事実盗用はなく、大学もそのように認識していると主張するなら、上のようなひと手間かけないかぎりは、楽山の心がけがどうだとか、アンチがどうだとかいったところで何も変わらないよ。
 
楽山が、何か良い方向に変わるということはあり得ないと言っていいでしょう。その負の実績が、少なくとも2年間にわたって、私のほうにはあります。
 
楽山に対しては、排除して、排除して、決して、関わってはいけない男です。個人カルトの病質者、そして、宗教と信仰を感受する感性を、毛ほども持ち合わせていない男、それが、楽山です。心がけの「心」がない人です。
 
楽山は、いかなる真実追求の場にも、いてはいけない人です。楽山は、追及されるべき対象でしかありません。楽山こそが「何も変わらない」のです。口先にだまされてはいけません。
 
体のいいことを言って、否定したかと思えば、賛同めいたことを書いてきて、結局、断定していないから、責任問題は生じない、などと、平気で言ってくる無反省・無責任ぶりです。
 
問題は、事実がどうこうではありません。問題は、楽山が言っているということです。楽山を相手にすることは、古びたヨレヨレの皺だらけの皮革の臭い切れ端を相手にするようなものです。反応しないのは、楽山に、血も涙も温度もないからです。
 
しかも、どこまでも、思い上がる訂正不能の自尊を持っています。したがって、何を言っても正当な反応は返ってきません。しかも、この臭いは、慣れてしまうと、伝染します。
 
楽山の言を、なんとなく、理屈が通っている、と感じたら、伝染している症状です。楽山の言を、一日も早く、見なくて済む日が来ますように、祈っています。
 
 
冷血

冷血
 
 
(2021年02月05日、同日一部修正)
 
 
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