楽山の卑怯
 
 KENTO氏による楽山批判(2)信仰を守るための議論!
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月04日
 
 
HS側の言い分を云々するつもりはありません。ネットにおける公害として、楽山の卑怯さを指摘してゆきます。
 
何かを正そうという意志は、責任を負います。しかし、楽山は、人に優っている自分、という快感を得たいだけなので、いっさい責任を負いません。
 
*反論あり
KENTO氏から、また反論ツイートがあった。
今回は、スクショではなく、文章をコピペしてから、自分の感想を書いてみたい。
(注 ツイートは細切れになっているが、それだと見難いので、ここでは文章をつなげてコピペすることにする。またツイートに引用されていた楽山の文章は、緑色に変えた)
 
楽山は批判に対して感想を書くのだそうです。ふつうは、弁明とか反論とかいうところですが、楽山には、そのような責任に相応しい知性と感性がないので、またしても、感想じゃから・・と、責任を回避するつもりでしょう。
 
*被害者?
>この議論のテーマは、咲也加氏の卒論についてであって、楽山の人品についてではないことを再確認してほしいと思う。
HSアンチ諸氏と対話すれば、
アンチ氏は概ね必ず「人格や性格を非難された」と言って被害者側に回り込もうとします。
 」
私が言っているのは、議論のテーマは盗用問題なのだから、それについて話しましょうということ。
不当に人格批判をされたという意識はない。ぶっちゃけ、こういうことはよくあるので、もう慣れた(笑)。
 
このように、楽山は、笑っています。それで、もうそういうことは言えないんだ、と思ったら、楽山の思うつぼです。楽山の不正は、総て、楽山の人格が原因です。「(笑)」でごまかされずに、徹底して、楽山の欠損人格を追及するべきであります。
 
*見当外れ
HSアンチ諸氏は「心の中」を見られるのが恥ずかしく、 
その「恥ずかしい心」がツイートの原点にある事を指摘されるのが痛いのです。
だから、一生懸命「心」を隠そうとして「人格や性格を非難された」と言い、話題を「心」から遠ざけようとします。
 」
これは見当外れ。
KENTO氏自身がそういう考え方をしているから、他の人もそうだと思い込んでいるのだろう。
 
楽山に限っては、人格から見てゆかねばなりません。人格を批判し、性格を非難するべきであります。別の問題に、逸らそうとする楽山の誘いと挑発に乗らないことが大事です。
 
*繰り返し
さて、繰り返しになりますが、私が主張し続けている事は以下のⅠ~Ⅳです。
Ⅰ.お茶の水大学の広報が出した見解によれば咲也加様に卒論盗用の事実はない事。
Ⅱ.楽山氏は次の理由から本件に関して咲也加様に物申すには役不足である事。
 ・楽山氏は「学術論文とは何なのか」が分かっていない。
 ・だから「論文の引用とは何なのか」が分っていない。
 ・そして「卒業論文とはどのような位置づけの論文なのか」も理解していない。 
 ・だから、卒論指導をする教員の役目も理解していない。
Ⅲ.楽山氏の理屈はHSアンチが多用する次の手法である事。
 ・信憑性が保証されていない様々な情報の中から、
 ・自身に好都合な部分だけを切り出して継ぎはぎし、
 ・無理やり理屈を創り出して、自身に好都合な結論を誘導する。
Ⅳ.信仰を守るのか穢すのか、修行するのか落伍するのかは、個人の心の在り方の問題である事。
 」
これらはすでに議論済みと思うが、一つツッコミを入れるとすると、「楽山氏は次の理由から本件に関して咲也加様に物申すには役不足である事」という文章は間違いだよ。ここは「役不足」ではなく、「力不足」とすべきだ。
 
ものが言えなくなると、小規模?の知識をひけらかして、ごまかそうとする典型です。焦点を逸らす意図が明白で、つまり、何も言えなくなりましたという楽山の自白です。
 
>・「役不足」と「力不足」の違い - 社会人の教科書
 
(ネットより)
役不足(やくぶそく)とは。[名・形動]1 俳優などが割り当てられた役に不満を抱くこと。2 力量に比べて、役目が不相応に軽いこと。
 
*盗用問題の答えは心にある?
当たり前の事ですが「咲也加様の卒論問題の答え」は、
・ネットの中、
・大学の見解、
・大学に問い合わせた時の電話やメールの回答内容、
・私と楽山氏の議論、
にはありません。
その答えは「咲也加様を中心とした当事者の心の中」にあります。
なので、私は始めから「咲也加様の卒論は盗用か否か」という不毛な議論はしていませんし、その必要もありません。
 」
この誤魔化し方は、棒氏(――氏)と同じだ。
棒氏は「アンチはみんな嘘つきだ」と言う。
アンチ諸氏は「どこがどう嘘なのかを具体的に示せ」と求める。
棒氏はのらりくらりと答えをはぐらかし、最後には「アンチは自分の心に嘘をついている」と宣言。
 
楽山は、自我に執着し、自己愛から、自己正当化のために、自分にも、他者にも、平気で、嘘を吐いてきたのです。楽山に、まともな心はないと思います。
 
今回はこうだ。
KENTO氏は「盗用の事実はない。盗用報道に信憑性なし」と言う。
楽山はその根拠の提示を求める。
KENTO氏はのらりくらりと答えをはぐらかし、理屈をこねた後、「この問題のこたえは、当事者の心の中にある」と宣う。
どちらも、事実関係の問題を、心の問題にすりかえてる。
すでに多方面から指摘されているけど、「棒氏=KENTO氏」だね。
 
楽山の最も苦手とするのは、心の問題なのです。楽山には、正常な人間としての、みずみずしい心が無いからです。私は、ずっと、そのことを書いてきました。これからも書いてゆきます。
 
*判断理由
私は以下の①~⑤(+⑥)の理由から咲也加様は盗作・盗用を行なっていないと判断しています。。
①咲也加様ご自身が「私は盗用しました」と懺悔していない事。
②総裁先生から「この程度の引用で怒るのかな?」といった趣旨のご発言があったと記憶する事。
③大学の裁定が、咲也加様には何もなく、指導教官が罰せられた事。
④大学の見解が「無断借用」である事。
⑤新潮の取材に対する大学の回答には○○○〇研究が絡んだ一定の疑問がある事。
⑥大学が公表したとされる書面に対する私個人の見解。※詳細を知りたい信者さんはDMを下さい。
 」
盗作、盗用、パクリを判断する際には、まず現物を見比べた上で判断しようと考えるものだ。
でも、KENTO氏は、現物を比較検証するというもっとも重要なことは避けて、盗用はなかったとするための材料を集め、理屈を積み重ねてる。これじゃ、ダメだよ。
 
私について言えば、キリスト教について、愚にもつかない幼稚な屁理屈を積み上げてきた楽山です。その記録が私の記事にあります。しかも、無反省・無責任で、自らの快楽と、自尊の満悦のために書いているだけだということが明らかになっています。ケチを付けて優越感に浸るのが趣味の楽山です。
 
*目的
楽山氏が力説するように、
・ネットの意見は盗用が多数、
・週刊誌の取材で盗用と記された、
という見方は、 
あくまでも葉末な周辺情報の一部に過ぎないものであり、
こうした事柄だけで物事を論じてはならないと思っています。
但し、そもそも楽山氏は卒論問題を論じたいのではなく、
「HSを貶めることができるなら、その手段を選ぶ必要はない=信仰を穢したい」と考えているだけの事と察します。 
一方、私は「信仰を守りたい」と考えているだけです。
 」
私が、盗用と判断したのは、こちらの比較検証記事を読んだことが決定的だった。この記事を読めば、マスコミ報道も、幸福の科学側の反応も、よく理解できる。
 
楽山は、長い文章を書きますが、他者の長い記事を理解できていないと思います。楽山は、聖書を読んでも、神学書を読んでも、的を外して、けちを付けるか、悪用してきたことが明らかになっています。身の程を知らない背伸びだけの楽山です。
 
(リンクは省略)
 
ただ私は、現物比較をして、この記事が正しいかどうかまでは調べていない。この問題にはそこまでの関心はないので。
 
このように、楽山は、難しいところや複雑なところを、考えることができないのです。それを、関心がない、という言い方でごまかしていますが、批判しておきながら、それでいいのでしょうか。
 
だから、もしKENTO氏でも、他の誰かでも、現物の写真の提示とともに、このブログ記事に間違いがあることを証明するなら、いつでも判断を改める用意はある。
私の第一目的は、「信仰を守りたい」でも、「信仰を穢したい」でもなく、ただ事実を知りたいということにあるから、そういうことになる。
あとは、ツイート中に「あくまでも葉末な周辺情報の一部に過ぎない」というのは、「葉末」ではなく、「些末」の間違いだろう。
 
キリスト教について、事実も真実も信仰も、小学生レベルのいちゃもんをつけて、中心となる問題を、恥ずかしいほど外して、得意になっているのが、楽山その人です。
 
ここで、また、言葉の間違いを指摘して、思いやりを示したつもりで、話を濁しています。ふだんは、思いやりの欠片もない冷淡な詭弁屋の楽山ですから、目先を変えるための、ごまかしに過ぎません。
 
*見たまんま
そして、私から見ればですが、
楽山氏の言い分(=ネットの意見を集約)は「偏りが過ぎるもの」であり、
私の言い分(=上記①~⑤、及び⑥)は「ある程度は妥当」と思う次第です。
また、上記Ⅰ~Ⅳは「本件に関わろうとする者のど真ん中」に刺さります。
つまり、楽山氏が何をどう論じようとも、
私は①~⑥とⅠ~Ⅳを繰り返せば大半の方は付くと思う次第です。
 」
私は大したことは論じていない。パクリはパクリだという見たまんまをいっているだけだよ。
一方、KENTO氏は、信仰を守りたいという自分の目的に都合のいい情報を集め、そのための理屈を積み重ねてる。
 
「いっているだけだよ」と、楽山の言い方が、荒くなっています。キリスト教について、成長しない固定観念の先入観で都合のいい偏見をネタにして、さらに、嘘を吐いて、詭弁を弄して、罵ってきたのが、信仰などどうでもよい楽山であります。
 
楽山は、パクり・パクり・見た、と言っていますが、本を見ても、聖書を見ても、キリスト信仰をけなしたいという自分の目的に都合のいい情報を集め理屈を積んだつもりで、あまりにもお粗末な文章しか書いて来なかったのが楽山です。つまり、見ても、見えていないのが楽山です。
 
*別問題
信仰を守るのか穢すのか、修行するのか落伍するのかは、個人の問題です。
私はHSアンチ諸氏に期待をしてはいません。
しかし、早く気付いて欲しいとは願っています。
 」
信仰を守るか穢すか、修行するかしないかは、盗用があったかなかったかとは別問題だ。
 
楽山は、自分が、批判していることを忘れているようです。そういう立場に立っているという自覚がないのでしょう。自分は中立だという甚だしい勘違いによって、責任逃れをするのは、今に始まったことではありません。
 
無反省・無責任で、楽山は、何の責任を負う意志も持ちません。こういう人は、相手にしないのが一番ですが、人格の問題は、非常に迷惑であるために、私は、批判を続けているわけです。
 
もしこれらを関連づけるとしても、「信仰を守り修行をするためには盗用があったとは認めることはできない」ではなく、「盗用があったとするなら、現実は現実として認めなければならない。その上で、ではどうしたら信仰を守り修行を続けられるか考えよう」とすべきだと思う。
 
楽山は、自分が当然のごとく期待した勝ちに基づいて、相手の返しのお手本をわざわざ書いているようですが、自分が正しいからという前提の慢心が表れています。
 
楽山は、誰もが自分が決めた道徳基準に従うべきだと思っているのでしょう。これは、楽山の総ての言に表れてきたことです。夫婦げんかの仲裁か小学生が我を張るようなものです。
 
自己愛性パーソナリティ障害の特徴であり、議論する気などないのです。自慢したいだけの無反省・無責任の未熟者が、こうあるべきという規範を定めて見せるのは、見苦しい限りです。穏やかな筆致の裏には、ガチガチに凝り固まった訂正不能の岩石のような自己正当の前提があるということです。
 
*問い合わせ
(最期に一言)
私がHSアンチ氏から入手した文書が大学の公式見解であるなら、
これは教授会を経た「組織」としての動かし難い決定事項です。
楽山氏が自信満々で言うように、
 」
(楽山)KENTO氏は、大学は盗用はなかったと認識しているというなら、直接問い合わせをしたら済む話だ。盗用があったとは認識していないという回答メールをもらえたら、KENTO氏の見解の正しさは証明され、決着がつく。
というものではありません。
こんな事は社会の常識と思いますが・・・
 」
文書の末尾には、問い合わせ先が書いてある。文書に解釈が分かれる箇所があったら、問い合わせをするのは当たり前のことだろう。
また文書にある日付と、こちらのブログにある週刊誌記事の発売日とは、ほぼ同じ時期になっている。
 
楽山は、ホラー映画のアニメの感想から宗教を語ったことがあります。そういう楽山なら、週刊誌記事を根拠に批判記事を書くのは、まだ、マシなほうでしょう。・・笑える。
 
(リンク省略)・インチキの系譜 - Algorab archives
 
この二つを合わせて読むならば、大学側は個別の問い合わせには、直截的に「盗用」といい、改まった文書では幾分やわらげて「無断引用」としたのだろうという推測ができる。大雑把に言えば、本音と建前ってこと。
これを否定するには、直接問い合わせをしてみない限りはどうにもならないよ。
 
どうにもならない、という言い方で、自己正当化を図っています。責任を、他者へ、他者へと持ってゆく楽山の責任逃れなのです。いつの日も、反省するのではなく、相手の負荷を増やし、疲れさせることで、言い逃れてきたのでしょう。乗せられないように気をつけるべきところです。
 
楽山と正面から遣り取りをするのは、やたら、異常に、疲れるということです。それを手段とし、相手が疲れるのを待っているのが、楽山という卑怯者です。
 
楽山を説得しようとしたり、楽山と、まともな議論が出来るなどとは思わないでください。楽山は、議論や批判をツールとして、快楽を、満悦を、自分が上だという優越感を、味わいたいだけなのです。
 
*まとめ
今回のツイートを読む限りは、KENTO氏がこの議論をしているのは、信仰を守るためであるらしい。
結局のところ、盗用はあったとする記事は嘘だと言い張っているのは、なんらかの証拠があってのことではなく、信仰を守るためなのだろう。
「ためにする議論」をしているから、盗用の有る無しという事実究明はそっちのけで、信仰がどうした、心がどうしたという風に話をそらすのだろう。
信仰を守るためには、事実と論理に基づく対話をすることができないのだとしたら、気の毒なことだと思う。
 
楽山と対話するのは、非常に危険です。楽山が与える病的疲労は、もはや、精神衛生の問題です。楽山のほうは、ごまかしと責任転嫁だけの詭弁の技を持っています。それは、楽山の、実に傍迷惑な、病質者としての、生き方なのです。
 
誰からも相手にされなくなるであろう楽山は、自らの蟻地獄に嵌ってゆくわけですから、気の毒です。・・もちろん皮肉です。
 
楽山の、同情のような言い方は、総て、嘘です。誰とも、和解できない人だと思います。楽山は、優越を感じて、他者を下に見たいだけの人です。そのための、やさしさ芝居なのです。
 
私としては、いかなる真実も宗教も、ゴシップのような話におとしめる楽山ですから、彼が、撤退するまで、いや、誰からも信頼されなくなるまで、そのいい加減さを批判するのに、遠慮するつもりはありません。
 
もう一度、言いますが、問題は、楽山のパーソナリティ・人格にあるのであって、他の事実とかは、個々の派生に過ぎません。どうか、疲労を避けてください。人格が訂正不能に壊れている楽山に煩わされないでください。まともに相手しないでください。
 
今までと同様、スクショは省略します。私は、病気になりたくはありません。やたら長いのは、楽山の策略なのです。術中にはまらないように、心から願います。
 
楽山の言は、意気とか説得力とか共感とかの深みがありません。せいぜい、通念的で、そこに嘘と詭弁を加えて、めんどくさくして、相手を疲労させてゆきます。
 
恐らく、楽山は、何事にも、実感がないのではないかと思われます。楽山の書いたものに、生き生きしたエネルギーを感じたことがありません。
 
楽山は、ねちねちと執拗に、話の方向を本筋から逸らし、歪めて、クレームまがいのことを言い続けて、相手を疲労させ、その気力を奪う人、いわゆるエナジーバンパイアだと思います。
 
楽山は、十年批判している偽牧師のシャロームの仲間です。シャロームは、神を褒めればいいじゃろ根性でボロを出しました。また、シャロームは、荒らしの易坊と仲間です。この、楽山、シャローム、易坊の三者については、同一人物の成りすましではないかという疑いもあります。いずれにしても、実際には、反キリスト、反宗教、という共通点があります。ネットに巣食うならず者です。
 
 
きたない!

きたない
 
 
 2021年02月05日
 KENTO氏による楽山批判(3)有効な反論なし
 一部抜粋して批判します。
 
抜粋して批判を入れておきます。実感がまるでない観念の遊びに逃げている楽山です。
 
*心と信仰
最後に、ちょっと脱線して、心と信仰について書いてみる。
まず一般論として、信仰を第一にして現実をあとまわしにすると、信仰に合致しない現実は認められなくなったり、そういう現実と信仰を合致させるために屁理屈を重ねるようになるものだ。
 
楽山は、信仰と現実を分けることができるそうです。実際は、分けられず、現実を生かすために信仰があるわけです。宗教を、空想の理屈でしか考えていない楽山らしい詭弁です。
 
その上で、信仰に合致しない現実というものを考えるのだそうです。合致させるために屁理屈を重ねる、と言っています。
 
信仰と現実についての実感もないまま、論理の表面を滑らせているだけなので、実感のない観念的な話に堕ちています。心など、どこにも書かれていません。
 
楽山は、こう言う書き方しか出来なくなっています。時間の無駄なので、理解に努めることはしないほうがいいでしょう。
 
現実が厳しいために、信仰があるのです。屁理屈ではなく、切実な欲求があって、信仰は生まれます。楽山は、何も分からないので、観念をころがして遊ぶしかないのです。実に空疎です。
 
一方、現実を直視した上で信仰を持つ場合は、現実を直視するのを拒否したり、屁理屈を重ねることはある程度回避できる。その結果、心にかかるストレスは軽減され、病まないですむ。
 
現実を直視できない楽山が言っています。そして、相変わらず、屁理屈を回避できるという屁理屈の観念的な言い方に堕ちています。
 
心にかかるストレスについては、経験からの感想が必要ですが、何の具体的なことも語れない楽山は、他人事のように、病まないで済む、などと軽口で済ませます。何を語ったことにもなりません。
 
今回の件でいえば、KENTO氏は前者の立場であり、咲也加様は盗用はしないという信仰から出発し、それに反する現実は、やっきになって否定したり、屁理屈を重ねて信仰に合うように改変しようとしてる。これは現実直視する前に、自分の信仰を絶対化してしまったための悲劇といえるだろうし、この点、KENTO氏は可哀想ではある。
 
躍起になって自己弁護と自己正当化をしている楽山です。「やっきになって」「屁理屈」「絶対化」「悲劇」という決めつけの乱暴な短絡をして、「可哀想」という言葉で、相変わらず、自らの優位を、説得力もなく、言うだけ、言っている感じです。説明・説得のない結論への観念的短絡、こういう人に付き合うと、いつも、見下されることになるでしょう。
 
ちなみに私も、HS信者だったころはこういう落し穴にハマってた。とほほ。
 
トホホ言語について、批判してきましたが、楽山は、よほど気に入っているのか、これで読者を魅了できるとでも思ったのか、また、使ってきます。
 
落とし穴に嵌った経験を持つ人は、立ち直り、生きることに必死だから、嘘と詭弁を使うことはないでしょう。芝居もしないでしょう。つまり、ここは、本当の信仰というものを知らない楽山の大嘘です。白々しいことです。
 
楽山は、説得力のある文章を書けないために、しつこいだけの投稿ストーカーになっているようです。見苦しい限りです。どこにも響くものがありません。決して関わらないでください。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
思い上がっている者は、富んでいる者と同様に、救いを拒むことになります。楽山の言は、ラクダが針の穴を、通ろう、通ろうとしているようなものです。無駄なのです。
 
 
(2021年02月06日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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