無神論と有神論2
   過去記事の再録+加筆修正
 
 
神は、道理を通すが、概念ではない。
ゆえに、人の理屈によって語れる御方ではない。
神は、希望であるが、人は、神によるものを区別できず確定できない。
 
語れるのは
人の側における現象からの推測の域を出ない。
 
私たちは、憧れの救い主を想うことによって救われている。
そこは、概念よりも理屈よりも、共感が捉えて放さない関係性である。
 
(ネットより)
有神論(ゆうしんろん、theism)は、「神は存在する」という主張のこと。 名付け親は『橋本和哉』である。 対義語は無神論。 多くの宗教は、その教義の中に有神論を含んでおり、その宗教が信仰する神が唯一なのか複数なのかによって一神教、多神教などに分けられる。
 
 
神は、人による存在証明も不在証明も明確に拒否する立場におられ、人の、いかなる知恵も視野も、神の領域に届くことはなく、神を対象にすることは出来ない。
 
神の、全知全能・絶対完全・永遠不変は、人の理解を超えており、人の視野に決して納まることはない。旧約は、神と人の決定的な違いを伝えており、新約は、ならばどうすれば救われるかを、キリストを通して、改めて告げている。
 
無神論は成り立たない理屈であり、また、有神論が理屈なら有神論は成り立たない。
在って在る者である神を、人の論理や学問で語ることは出来ない。
経験上、人が、神を否定できなくなるのが、信仰である。
 
 
無神論が成り立たないのは人間の理屈だからである。
無神論の状況証拠は、人のわざを根拠としているだけである。
 
有神論が成り立たないのは有神を前提として
神を概念の理屈にしているからである。
有神の状況証拠は、信仰を暗示するのみである。
 
以上より、人間にとって、神の存在は、理屈にはなりえない。
神を、演繹の論理によって論じることは出来ない。
 
人は、神よりも人が不完全であることを知っているだけである。
 
人にとって、神は、いかなる概念にもなりえない。
 
人があてがう神の概念は、神ではなく、藁人形のようなものである。
 
 
無神論は、嫌悪感によって、理路の領分を逸脱する。
有神論は、贔屓の引き倒しによって、理路を領分を逸脱する。
どちらも頑固であるところが共通している。
 
だから、科学と論理に見せかけたカルトになると
そこが、ただの頑固に留まらず
結局、感情的になり先鋭化して危険になるのだろう。
 
神の存在を強く絶対否定して問い詰めてあざ笑う者と
神の存在を強く絶対肯定して笑って侮辱してくる者は
なぜか、似てくる。
 
 
客観的事実と言われるものから
無神論は証明できない。
 
客観的事実と言われるものから
有神論は証明できない。
 
神を、論理によって論じることは出来ない。
 
地上の事実は
神を暗示することはあっても
神の存在も風情も証明することは不可能である。
 
証明できなくても信仰は可能だからである。
 
ゆえに、神に対しては、信仰が可能であり
人の、いかなる知恵によっても、証明は不可能である。
人は人の身の程を知るべきである。
 
信仰は信仰対象を証明する必要はない。
 
信仰は信仰対象すなわち神の
地上における影響を人を通して表すのが務めと努めである。
 
 
人は、神の意志を表すことがあるだろう。
ここに既に信仰が機能しているが
それは神のわざを含むので確定することはない。
 
信仰対象である完全の神によってもたらされる救いの
人における不完全の必然ゆえの人の弁えを考えない信仰はあり得ない。
 
したがって
人の自尊を肯定し続けるだけの信仰はあり得ない。
うち続く自尊は、いずれ、神と人に対する高慢~傲慢に通じてゆく。
 
ゆえに、不完全な信仰者にとって
不変の自尊が信仰によって肯定されるものではない。
 
信仰による人の自尊の担保は
神と人の区別を弁えない無節操である。
 
したがって自尊を肯定し続けるだけの信仰は
無理な思い込みを前提としてしまう。
思いこみ信じ込むことは意志が無理をすることであり
心は無理をすると次第に壊れてゆく。
 
信仰は一途であってよいが
信仰は盲目であってはいけない。
 
信仰は人の目を開くものだからである。
 
一途は心を支える感動が動機であるが
盲目は目と心を閉ざすことである。
 
 
感動は永続しない。
人間は感動の影響を残せるが
同じ感動を保つことはできない。
 
あるとき感動しても
次のときには感動したという記憶になっている。
 
人間は、ほぼ恒常的だが
神と同じ不変になることはない。
 
人間は、振り向くたびに時空の
違う風景が見えているから思慮と情感と意志が成長するのであって
目と心を閉ざすところに新しい世界はない。
 
閉ざされた目と心は
いつも同じ良いものがあると思い込み慢心して石になるだけだ。
 
人は、良きものを手に入れると、
それを永続するものと思い込みがちだが
神の与える平安は、変化しない世界のものではない。
 
不変は目覚めも期待できないから
不完全な存在である人には不向きである。
 
不完全だから人は変わり得るものとして成長するしかない。
 
 
神は
危機に際して慰めと励ましを与えるが、
常時快適な揺り籠を与えない。
 
神は
人の超人願望や完全欲に答えることはない。
そこには、どこまでも、沈黙の神がおられるだろう。
 
信仰は、
人間が成長するための必然的遭遇に際して
思い込みを豪語する狂気に陥らないために与えられており
 
神は、信仰を通して
思いわずらいに支配されることのないために
無神の絶対孤独につぶされることのないために
癒しと赦しと導きを与えるのである。
 
 
楽山やシャロームのような、神を偽り、神に偽る者は、
人に対しても偽りをもって、あざむき、だまし、
日々滅びを積み、滅びを礼賛している者たちである。
 
 
私たち信仰者は、
ただ、神という、正直に告白し乞い願う相手を、知っている人である。
人の不完全な善悪や正邪と、その判断は、信仰の救いを左右しない。
 
神に対しては、正直さ以外、何も通用しない。
 
 
神

 
 
(2020年02月04日)
(2021年02月10日)
 
 
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