神と偶像2
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであって
正直な告白を
神は待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
嘘を吐くことですから
神を偽ることです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
むしろ自由意志によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
この正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエスは
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書から学んでいるからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
 
 
信仰・希望

信仰・希望
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 
8:3
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 
8:10
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 
8:11
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書)
 
この聖句について、説明らしいことが書かれています。
 
(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
キリストにまつわる美しい話だけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·9時間
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。
 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えていることには、一切触れずに、「後で挿入されたもの」ということだけを取り上げています。つまり、楽山は、中身を読み取ることなく、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような人でしょう。否定するためにだけに読んでいる、ケチを付けるためにだけに他者のコメントを引用する、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめるためにだけ自分を出して、チクリ刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、という楽山は、つまり、楽山のような人には、聖書を読むために必要な感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いを受け取っていない、ということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはない、ということを、聖書が表し、楽山が、その見本となっているということなのです。
 
聖書を読めない愚か者が、定められていたかのように引っかかって、聖句を無駄にしている様子が表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、それを、言いふらして、信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その有害性は明らかであり、反キリストが、自分は反キリストだと宣言していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しているだけで、聖書の大事なところを理解しようともせず、ただただ、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、小石を投げて、ペッペと唾を吐いてきます。
 
 
※ 
 
あとからの加筆を、楽山もしているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。
 
なお、中身の重要性について、楽山は、書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのでしょう。
 
 
(2021年02月16日、同日一部加筆修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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