楽な芝居2
 
 2020年01月25日
 「わたしの心は恐れない」(詩編27)
  楽山日記(LD) → 批判を再録+加筆。
  
 
シャロームの仲間であり、カルト宣伝者として、ねちねち書いてきた楽山ですが、しばらく、黙っていたかと思ったら、まとめて書いてきました。自分の悪をすっかり棚に上げて。
 
どんなときも、何を言われても、自分を真善美の立場に置くナルシストの典型的な自己宣伝の文章です。数々の失言とカルト贔屓(ひいき)を明らかにされても、なお、自己顕示欲が働いて、謙譲芝居付きの、詭弁と印象操作の、人生に何の実りももたらさない作文です。
 
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
聖書の詩編を通読したいと思いつつ、近頃は他のことばかりして読書を中断していたのではあるが、再び頁を開いてみたらすぐに良い言葉に出会えた。
ヤハウェはわが光、わが救い。
わたしは誰をか恐れよう。
ヤハウェはわが命の砦、
わたしは誰をかおじ恐れよう。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、pp.61-62)
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
自分はクリスチャンではないし、聖書の神を信仰しているのでもないが、それでもこの言葉を読むと心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する。
ノンクリの自分でもこうなるということは、聖書には宗教の壁を超えた何かがあるということなのだろうか。こういうことをすぐに神の実在に結び付けることは躊躇されるけれども、自分とは全然関係ないだろう数千年前の外国で書かれた言葉が心にしみるというのは不思議と言えば不思議ではある。
 
以前から、無神論の本などで、キリスト教を揶揄し否定してきたのが楽山ですから、
 
心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する
 
・・これだけ、わざとらしい歯の浮くようなセリフを、平気で並べてくる楽山なのです。
 
真っ赤な嘘だと思います。あざとい・・。
 
楽山の文章は、いろいろ読んできましたが、楽山に、少年のような清々しさは皆無です。
 
 
 2020年01月25日
 キリスト教では輸血を禁ずることはない? (異端とカルト)
 
その宗教がカルトかどうかは、異端、異教かどうかで判定されないというのはよく分かる。もしそれが是とされるなら、A教の教義によって「B教は異端、異教であってカルトだ」といえば、B教の教義によって「A教は異端、異教であってカルトだ」ということも可能となる。
 
詭弁です。算術的論理による詭弁です。両方言うじゃないか、という言い分は、全く、どっちが正しいかを考えない理屈です。これを空論と言います。心ない者の言論の特徴なのです。
 
多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えれば、明らかなことがあります。反社会に結び付く思想が信条になっておれば、カルトとして批判するべきなのです。
 
そもそも、言論の自由には、責任が伴います。楽山は、自分の言ったことの責任を取ったことがありません。批判を無視して、さも道理であるように、楽山が書くことには、大方、的外れと嘘が付きまとってきました。
 
それを、私は今まで書いてきましたが、楽山には、"仏様の気持ちが分かるっぽい" 霊感?の自覚のわりに、人間としての感性がないので、組み立てられないのです。そして短絡した幼稚で単純な理屈を出して、結論を下しています。
 
そうなれば、各宗教がたがいにカルトと呼び合うことにもなり、そういう状況を一般からみたら宗教はすべてカルトだということにもなってしまいかねない。
 
楽山の言い分は、こういうことで終わるのです。では、楽山は、どうやってカルトかどうかを決めるのでしょう。楽山自身が、カルトだから、自己弁護しているに過ぎません。つまり、言い合いになるから、どれもカルトとは言えない、という幼稚に短絡した詭弁なのです。
 
やはりカルトかどうかは、特定の宗教教義による正邪判断ではなく、人権という視点から判断するのがもっとも公平であり、客観的だろう。個人的には人権なるものも一種の思想であり、宗教でもあると感ずるところもなきにしもあらずではあるが、少なくとも、特定の宗教教義による判断よりも普遍性、客観性どちらの面でも上であるのは間違いなかろう。
 
このことについては、前に、何度か、書いてきたのですが、読んでいないのでしょうか、それとも、気に入らないことは無視するというアドラー教にしたがっているのでしょうか、また、同じことを書いています。宗教気取りで、内容を見ないで、犯罪行為に及ぶまで待てと言うのでしょうか。
 
もう一度、上に書いたこと、反社会に結び付く思想が信条になっておればカルトなのです。
 
実際問題としては、自分の常識感覚や一般社会の基準から見て、異様な風袋、言動をする宗教団体をみれば、カルトだと感じてしまうわけではあるが、そこは相手の信教、表現の自由を尊重することとして、その団体がカルトかどうかの判断は、人権侵害や違法行為のあるなしを確認してからにすべきなのだろう。
 
人権侵害や違法行為のあるなし、というのは、逮捕できるか、裁判できるか、という基準であり、カルトの定義でも基準でもありません。
 
社会悪につながる邪悪な思想や言動を勧める教えはカルトです。つまり逮捕は出来ないが、批判は出来るということです。
 
このように、弁明できないのに、同じことを言ってくるのが、カルトの特徴であり、カルトである状況証拠となり、批判の動機を強める原因になってきたのです。楽山の体質は、紛れもなく、カルトです。ゆえに、カルトを擁護しているのです。
 
いつ読んでも恣意的な作為であり、清々しいところが、まるで感じられない楽山の作文です。
 
この手続きを怠ってしまうと、人権侵害をするカルトを批判しようとして人権侵害を犯してしまうという、まさにミイラ取りがミイラになったと言われるような事態に陥らないとも限らないし、ここはぜひとも注意が必要ではある。
 
人権侵害を犯してしまう、つまり、強制力のことでしょう。一見、道理のようなことを何度も言って刷り込もうとするのが、これも、カルトの特徴です。警察を見れば分かるように、反社会的行為に及ぶならば、人権は制限されて当たり前です。
 
シャロームは、明らかなカルトですし、最近は、"名無し"と名乗るようになって、荒らしの本性を表し、嫌がらせばかりして、馬脚を隠さなくなりました。
 
カルトは、違法行為に走る前日まで、カルトではなかったのでしょうか。楽山は、前から、カルトが、物を盗むか、だますか、人を殺してから、カルトと呼べと言っているのです。
 
反論も出来ないのに、また同じことを書いてくる楽山こそ、歩き出したカルトの亡霊であります。
 
楽山は、作為に満ちており、微塵の清々しさもありません。
 
 
 2020年01月26日
 心を悩ますな(詩編37)
 
 
*悩まず、苛々せずにいること
最近は、カルトについてあれこれ書くことが増えていたのだが、詩編を読んでいたら、こんな言葉があった。
悪をなす者のために心を悩ましたり、
不義を行う者のためにいらだったりしないように。
その人たちは草のようにたちまち枯れ
青草のようにしおれてしまうのだから。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.87)
読書をしているとき、自分の抱えている問題に対して、ドンピシャの答えと出会うというのは間々あることではあるが、今回もそうなったようだ。
 
 (詩篇、口語訳)
37:1
悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2
彼らはやがて草のように衰え、
青菜のようにしおれるからである。
 (詩篇37:1-2、旧約聖書)
 
悪を為す者、不義を行う者として、誰を決めつけているか、草のように枯れ、しおれてしまう、という聖句を誰に当てつけているかを考えると、呪いをかけているようで、身の毛が弥立つほど気色の悪い楽山の体質です。
 
ふつう、こういう切り返しのある言葉については、自分の悪はどうかと考えるものですが、楽山は、ドンピシャとの答えとばかり、のぼせ上がって、内省もせず、載せてしまうのです。
 
嘘と詭弁で悪をなし不義を行うのは、楽山です。早く、衰え、しおれてほしいのです。
 
楽山は、幼稚であり、単純に短絡する無思慮であり、清々しさの欠片もありません。
 
そういえば西洋の小説で、聖書占いについて読んだことがあった。悩みがあるとき、聖書を無作為に開けば、そこに答えがあるという話だ。自分は聖書占いをしたわけではないけれども、カルトについてあれこれ考え、書いていたときに、聖書を読み、上のような言葉と出会うと、アドバイスをもらったような気にもなるし、偶然以上の何かを感じないでもない。もちろんそんなのは妄想だとはわかってはいるけれど、根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ。
 
「根が迷信深いのでついそう感じてしまう」のなら、はっきり否定するべきでしょう。しかし、楽山は、感じてしまうことを否定せず、霊が分かるっぽい自分を表す性癖があります。つまり「根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ」と言いながら、それを肯定しているのです。
 
「感じてしまうのだ」という「のだ」の強意の語尾で、迷信深い自分よりも、霊が分かるっぽい自分の霊感をひけらかし、にもかかわらず、そういう迷信深い自分は愚かだから書かないでおく、ということが楽山はできないのです。
 
迷信深いと自分で言ってる楽山が、呆れたことに、迷信深いことをそのまま書いて、批判者を侮辱してきているということです。どこまで、けがれて、そのけがれを、そのまま、出してくるのでしょう。
 
批判にくじけないのではなく、批判を無視して迷信の世界に、本心は、埋没したいのではないかと思いますが、それを、独りの感慨に納めることができず、人に向かって顕示することに、傍若無人のナルシストの姿があります。
 
楽山の自虐芝居は、謙虚だと見せかけるための、作為の予防線です。
 
*善は楽しい!
 ところで、上の言葉には、次の言葉が続いている。
ヤハウェに信頼して善を行なえ、
この地に留まって真実をもって糧とせよ。
ヤハウェによって喜び楽しめ、
彼は君の心の願いをかなえてくださるだろう。
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
悪は長くは続かず、いずれ自滅するから、そんなことに関わるよりも、まずは自分が善を行うことに専念せよというのは、わりとよく聞く話ではある。でもそれとともに、喜び、楽しむことを推奨しているところは、ハッとさせられる。
 
 (詩篇、口語訳)
37:3
主に信頼して善を行え。
そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4
主によって喜びをなせ。
主はあなたの心の願いをかなえられる。
 (詩篇37:3-4、旧約聖書)
 
最善が何で、最悪が何かさえ弁えない楽山であるのに、善を行い喜び楽しめというところに、独りで、ハッとさせられるそうです。何て中身の薄い、単純な読み方と書き方でしょう。
 
カルトの味方をして、カルトの正当化をして、同じことを言い張って、進んだつもりで、自身の言葉のミイラになった楽山が、また、うろつき出しています。
 
どんなに苦しくとも、それを耐え忍びつつ善を行えというのは悲壮感が漂うけれども、善を行いつつ喜び楽しめというのは愉快な心持ちがする。
 
善を分かっておらず、善とは縁のない楽山が、限りなく詭弁に近い言葉遊びをしています。
 
楽山は、いつも、楽でいたいようです。だから、心を悩ませる真実からは、いつも、目を背けてきました。そういうことが、惜しみなく表れる楽山です。ここ2年は、総て批判になったことも、改めて、間違いではなかったと思います。
 
耐え忍ぶことなく、悪と偽善に短絡している楽山です。誰が、真に受けて騙されるでしょう。まさに、人の弱みにつけ込むような文章です。
 
楽山には、ひとかけらの清々しさもなく、短絡した文言で人を惑わせます。
 
でも考えてみれば、善とは本来、苦しく耐えるものではなく、喜ばしくも楽しいものではあるかもしれない。
 
また単純に、聖句から悟りを開いたかのように、善の本来を、説き出しました。決して、楽山に対して、素直になってはいけません。楽山は、作為の小細工の洗脳および煽動家です。
 
良心に素直でいられるときは心は軽いものであろうし、そうであれば善とは喜びであり、楽しみでもあるとも言えるだろう。とすれば、自分が善にとどまっているかどうかは、自分は今、喜び楽しんでいるかを自問してみれば、おおよその見当はつけられそうだ。喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろうが、少なくともこれは一つの目安にはできそうではある
 
逆必ずしも真ならず、という、シンプルな論理を無視しています。目安にもなりません。悪と偽善を悦び、他者を、だまし、傷つける楽山のような者がいるからです。
 
「おおよその見当はつけられそう」と言いながら、見せかけの謙譲「喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろう」と言い訳して、反省力があるかのような書き方の上で、しかし、しっかり「少なくともこれは一つの目安にはできそう」と言って終わりです。こういうのを、印象操作というのです。こういうやり方をする卑怯な人に対しては、全否定するしかないのです。
 
楽山の言い分には、全く深みがありません。だから、曖昧な言い方しかしないのです。しかし、曖昧にボンヤリ言語で書いて、それで言い得たと満足するのでしょう。ごまかしが、すさまじいです。
 
深みを覗くことをしないか出来ないことの言い訳のように、自分を低くするのではなく、真実を安く見積もって、悦び楽しむことが善の目安というところに、じわじわと持ってゆく詭弁です。楽山の背伸びは、自覚もなく、安い言葉で満たして膨満する肥満の腹のようです。
 
楽山には、嫌というほどの否定で対処する他にない、という、動機付けを、こちらに毎度毎度してくるのです。楽山には気づきがないからでしょう。裏があるだけの平板で薄っぺらな自己満悦・霊感?零感ナルシストです。
 
覚えてください。楽山の作為は、見かけの言葉だけで、柔和とは真逆です。楽山は、宗教など、全く信じてはいません。宗教を、観念で、もてあそんでいるだけです。なのに、聖句に、的外れの、わざとらしい嘘の感想を書いています。総て、自分の霊感?零感を自分で褒めているだけです。
 
子供だましのような幼稚な内容、私がボンヤリ言語と呼んでいるところの、ふらふら、否定も肯定もしないわりに、無根拠に、すりこんでくる詭弁、深い情感のない泥濘なのが明らかなのに、それをごまかすかのような、見かけだけ派手な感動言葉、これらは、シャロームの当てつけの丁寧語と並んで偽善者である楽山の変わらぬ筆致です。
 
読むたびに、何か汚いものを押し当てられて汚れてゆくような不快を感じます。読んでも、生きるのに、何の役にも立ちません。付け焼刃の知識で自らの捻じれた知性?を捻じれた作文で見せて、保身のために独り痙攣しているようなものです。楽山に、近づかないでください。
 
楽山は、清々しさなど影も形もない人です。
 
 
裏側

うらがわ
 
祈り「主よ、私が、安穏としませぬように、そして、できることをする、ということに、全身全霊を注げますように、少しばかりの勇気と、くじけない忍耐力と、祈る心をお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
 
 
(2021年02月17日、再録・同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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