楽山の右往左往
 
 『母』三浦綾子著
 2021年02月17日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、また、有名人の名を出して、キリスト教を、おちょくっています。三浦綾子を組みやすしとでも思っているのでしょうか。"氷点" を見つめる作家の眼光を甘く見ているようです。
 
小説『母』を読んだ。あらすじは、息子(小林多喜二)の身を案じる心優しい母は、多喜二の死のあとは世の中の不条理にもだえ苦しみ、やがてキリストを信じるようになるというものである。
個人的には本作でもっとも心に残った部分は次の四点だった。
 
小林多喜二は、「蟹工船」で有名なプロレタリア文学の小説家ですが、特高警察の拷問によって殺された人です。過激な右翼思想家を支持していた楽山が、なぜ、多喜二について書くのでしょう。
 
右翼であることをごまかすためでしょうか。あるいは、右も左も、キリストも反キリストも分かってますとでも言いたいのでしょうか。ありえません。楽山の思想の軸は、楽山の我欲・自己顕示欲であり、楽山は、宗教・思想の中身は、どうでもよい男なのです。
 
なぜなら、楽山は、深いところが、何も、理解できないからです。だから、このように、一般受けのよさそうな著者の本を取り上げて、またしても、我欲のための餌食とするのです。楽山が、丁寧に書けば書くほど、その魂胆は凶暴だと思っていたほうがよいでしょう。きたない楽山です。
 
まず一つは、母が苦しみを乗り越えて信仰に目覚める部分だ。息子の死に直面して、「多喜二みたいな親思いの、きょうだい思いの、貧乏人思いの男が、あんなむごい死に方をするべか」(H21 p.184)と考え、「神も仏もいるもんか」(p.185)とまで思いつめた母親がキリストを信じるに至る過程は読みごたえがあるし、ヨブ記に通ずるところもある。信仰があればこそ不条理には苦しめられるが、この苦しみは信仰によるのでなければ乗り越えられないのだろう。
 
楽山がキリスト教を書くのは、反キリストだから、多喜二の母が「あんなむごい死に方をするべか」と書いていますが、殺したのは、右翼に支配された特高警察です。惨い死に方です。
 
まるで、犯人が責任逃れでもするように、話を逸らし、母親の「神も仏もいるもんか」とか、ヨブ記を持ち出して、「信仰によるのでなければ乗り越えられない」などと書いています。信仰など、楽山は全く知らない無機質な人格であり、調子のよさそうな文言を書いて、バランスのとれた人間を装うのです。
 
こういう、無分別・無節操・無反省・無責任男が、いちばん、有事には、卑怯者として行動するのではないかとさえ思います。今まで、ずっと、自己正当化だけのために、記事を書き、ツイートし、右も左もなく、キリストも反キリストも分かっておらず、気取りだけで、一人前に見せかけてきたのです。楽山という危険人物に、どうか、近づかないでください。
 
もう一つは、最後の「イエス涙を流し給う」のくだりである。作中には「生きてる時も死んだ時も、イエスさまと一緒だってことわかれば、イエスさまの立派なお弟子さんですよ」(p.211)という牧師の言葉があるが、これは「浜辺の足跡」に通ずる考え方であろうし、人が涙を流すとき、キリストは共にあってそのすべてを理解しており、このことを実感することで人は安らぎを得るということだろう。
 
「浜辺の足跡」foot print の話は、・・キリストとともに浜辺を歩いてきたつもりが、足跡が一人分しかなかった。見捨てられたと思ったら、実は、キリストが背負っていたので、一人分の足跡だった・・という話です。
 
偽牧師シャロームも引用したほどに、罪や偽善などは書かれていない、ありがたくて、受けがよくて、神の恵みを感謝・讃美する話です。
 
楽山が、シャロームと、仲間であり、同根であることが表れています。成りすましも疑われます。
 
つまり、偽善者やキリスト教をネタにしたカルトにとって、責められることがないため、とても使い勝手の良い話なのです。
 
三つ目は、小林多喜二は貧しき人々のために尽くしていたが、それゆえに拷問され殺されたとして、キリストと重ねているところである。自分は小林多喜二についてはほとんど何も知らないのではあるが、こういう話を聞くと、どんな人物だったのか興味がわいてくる。
 
多喜二という人物を、キリストに重ねるのは、キリスト信仰を理解していない楽山のような軽薄者だと思います。ですから、楽山の「興味がわいてくる」は、嘘です。
 
四つ目は内容ではなく、形式についてだけども、本作で無学文盲の母が我が子の多喜二について語るという設定にしてあるのは、うまい工夫だと思う。これによって共産主義や当時の多喜二を取り巻く状況について深入りすることなく、母の見聞きできた範囲について素朴な言葉で語ることになり、とても読みやすく共感しやすい作品になっている。
 
「共産主義や当時の多喜二を取り巻く状況について深入りすることなく」に、楽山の魂胆が表れてきます。共産主義やキリスト教など、楽山には、やはり、根拠もなく、前提として、敵なのでしょう。ならば、何も書かなければよいのに、自己顕示しないではいられないのです。無反省・無責任の楽山のような詭弁屋には、こういう揶揄と否定の仕方もあるわけです。だまされないでください。
 
多喜二について書こうとすれば膨大な資料を読み込まなくてはならないだろうが、母親の視点から多喜二を書こうとすればそういう手間は大幅に省けるだろうし、特定の枠を超えてより多くの読者を期待できることになる。こう考えてみると、一つのテーマについて書こうとするとき、視点の置き方一つによって、書き手の労力や読者の範囲は大きく変わってくるということが実によく分かる。
 
なぜ、楽山は、膨大な資料、云々といっているのでしょう。左翼の多喜二について膨大な資料を読んでいない母親の視点で書いたから手間は省ける、読者を期待できる、などと言って揶揄するためでしょう。嘘と詭弁の楽山は、親の視点など手に負えないことを自覚していません。
 
楽山は、いかなる視点も定まらず、いかなる労力も使わず、おとしめと悪用だけに生きている楽山です。過激が固着した我執の砂岩なのです。だから、今までの成り行きを知っている者からは、ポロポロ、砂がこぼれるように、魂胆と不能が見えてしまいます。
 
以上、本作を読んでもっとも心に残ったことを四つに絞って書いてみた次第である。
なお小林多喜二の命日は2月20日とのことである。奇妙な偶然だが、先日、何気なく本作を手に取り、命日前に読み終えることができて良かったと思う。
 
楽山が、事と次第を、まるで理解せず、ゆえに、詭弁以外何も書けないことが表れており、自分以外に向けて、余計なことばかり書いて、さらに命日云々と受けねらいの因縁付けをしている様子は、楽山はまともなつもりでも、いつ見ても、わざとらしくて、くさくて、醜いものです。なおも恥ずかしげもなく書き続ける楽山は、人間としての尊厳さえも、持っていないのでしょうか。
 
 
誰を欺く

たれを あざむく ?
 
 
 楽山のツイートですが
 心機一転★こも楽山 @komo266
 
得意気に、人を、おとしめるサディスティックな楽山です。
 
この考え方は、露骨にいえば、人と関わるのに費用対効果を考えてることであるし、合理的ではあっても、信仰によるものではないですね。
 
楽山に信仰によるものかどうかは分からないと思います。信仰を、超常現象を信じ込む理屈だと思い込んでいる楽山です。楽山の合理は、神と人の関係の世界で、どこまでも、信仰の合理からは、著しく外れてゆく定めとなる人格を形成してきたのでしょう。
 
奇跡と希望を信じる信仰者は、こういう風に奇跡と希望を省いた考え方はしないだろうし。
 
AならばAですね・・と、楽山は、言っているのでしょうか。
 
しかし、楽山は、平気で嘘を吐きますし、刷り込みをしてきます。楽山が奇跡というとホラーですし、希望というとインチキだと思います。そういう宗教観なので、信用しないでください。
 
KENTO氏はアンチとの議論で傷つき疲れ、信仰を見失ってますね。
 
そして、楽山は、慰めるように見せかけて、相手が、傷つき疲れていることを、信仰を見失っていると言って、あからさまに、「ますね。」付きで、わざわざ強調して、さげすんでいます。こういう人を信用すると、酷い目に遭うのです。今日も、物の言い方を知らず、勝ってる、勝ってると、含み笑いで、自己満悦感に浸る楽山のようです。
 
神は、いつまでも黙って見ておられる御方ではありません。そのうち、私が死んだ後であっても、心の無い楽山が、手足をもがれる時は、いずれ来るだろうと思います。楽山の言が、人間的な良心から、今も、どんどん、外れて行きつつあるからです。
 
 
(2021年02月18日、同日一部修正)
 
 
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