詭弁について2
 
 st、楽山 問題を振り返る 2019年12月22日
 楽山日記(LD)の批判記事を再録+
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
楽山ブログは、ほぼ、カルトと詭弁の資料となっています。去年の楽山の記事にシャロームの言をみつけたので、カルトの詭弁について考えてみます。楽山は、シャロームが正当だと主張するために引用しているわけですが、結局、シャロームの詭弁がまとめられていて、楽山は肯定しているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:3-4、新約聖書)
 
神が導く、ゆえに、悔い改めは神によって与えられる。これを、シャロームは、自分で悔い改めることをしないことの言い訳にしています。
 
悔い改めるのは人であること、そして、シャロームが悔い改めていないのは、神の導きがない、または、シャロームが導きを無視している証拠、それは、そのまま、シャロームがキリスト者ではないことの証拠です。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
 
キリストだけに罪の贖いをさせて、自分は、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、といって訂正する気のないシャロームの言い訳の詭弁です。
 
シャロームは、神が悔い改めに導くと、人は操り人形のように悔い改めをするとでも思っているのでしょうか。祭りの見世物のように、極めて幼稚な解釈です。
 
このように、シャロームは、心で悔いることがないために、聖書を、超常の奇跡~魔法のようなこととして受け取っていることが分かります。ゆえに、カルトでしかありえないのです。あるいは、キリスト教遊び~ごっこをしているだけです。
 
言うまでもなく神への冒涜ですが、それ以上に、シャロームの言は、人への嘘吐きそして詐欺行為ということです。だまされた人は、トンデモ偽善クリスチャンもどきになるだけです。
 
悔い改めることの主語は人です。人の悔い改めに答えて人を赦す主語は神です。人が悔い改めるのです。与えたり人がもらったりするものではありません。シャロームは、言葉も理路も、主客の区別も、分からないので、メチャクチャなことを言っています。
 
神は、悔い改めの道を用意して導き、人が悔い改めるのを、即ち、正直に祈ることを、愛の寛容をもって、待っておられます。
 
神のほうから救いの約束を反故にすることはありません。したがって、悔い改めない者が赦されることも、決して、ないのです。
 
だからといって、キリスト者以外は地獄行きなどというのは、恐らく、自らの信仰に舞い上がった未熟者の言うことでしょう。天国か地獄か、死後の沙汰など、人に分かるはずもありません。人が決めつけて語るのは、神を恐れないトンデモ信仰になります。
 
肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。
 
恐ろしいことに、シャロームは、人が、自分の意志で悔い改めることを、肉の働き、つまり、欲望のなせる悪しきわざと見なしています。まさに、シャロームは、自分に悔い改める意志のないことを、自分で証ししているのです。
 
これは、シャロームが、悔い、ということを、高等感情が鈍麻しているために、直感できず、全く理解していないからだろうと思います。
 
人が自分の意志で悔い改めなくては、人が、神のもとで、人自身の意志で生き続けることは出来ないということです。つまり、シャロームは、自分が生きているのではない、という、超常魔術妄想を語っています。
 
シャロームは、信仰者は、神が信仰者を何でも良いほうに導かれるのだから人として考えるのは止めろ、と言っています。だから、人の意志を汚れたものと見て、人の意志で悔い改めることを肉の欲望と言っているわけです。
 
シャロームは自身のことを神が動かすオートマタのような人形となっているという信仰です。この男が、クリスチャン、そして、恐ろしいことに、元牧師を名乗って記事を書いていたのです。人間離れの化け物に過ぎません。
 
楽山は、このシャロームに、無条件賛同しています。楽山の、聖書と神とキリストと信仰についての言は、全く信用してはいけないということが、これで明らかになっています。
 
悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。
 
キリスト信仰に、悔い改めは必須です。それをしない偽者を、偽者だと言わなければ、この世は、カルトの天国あるいは地獄となって混乱するでしょう。
 
悔い改めを要求してはいません。悔い改めていないならば、キリスト者ではありえないと言っています。悔い改めは、神に対して、正直に罪を認める祈りであります。
 
私は、できることをしているだけです。私は自分を義としてはいません。私は折に触れて精いっぱい正直に祈っています。キリストの荷は軽いから、出来ることです。
 
シャロームが、真逆を言っていることが分かります。このように、自分が言われそうなことを、言葉だけいじくって、詭弁をしつらえて、あたかも主張であるかのように言ってくるのは、今に始まったことではありません。それも、詭弁を生業とする者の手段なのです。
 
自我の欲望のほうを向くのをやめて、神のほうを向くことが、祈りであり、悔い改めなのです。
 
悔い改めて、行いが神に相応しくなることは、比較的にはあるでしょうが、完全には、ありません。
 
すなわち、神のほうを向くとは、行いを正すことを努力することではありますが、必須としてはいません。神のように正しくはなれないからです。精いっぱい正直に・・と前に書いたのは、そのためであります。
 
シャロームは、神のほうを向くことのない、信仰の欠片もない、職業的宗教詐欺師なのでしょう。これまでのことから、良心の欠片もありません。信仰者らしい良心を見せたことがないからです。
 
自分を義としたり、誇ったり、人を詭弁で騙したり、裁いたりしているのはシャロームに他なりません。そして、これは、シャロームの欲望が為せるわざに他なりません。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]返信する
 
シャロームは、今までの、おびただしい偽善と背教を隠していますが、どういう顔をして、神の前に立つつもりなのでしょう。また、今までも悔い改めの祈りなど捧げたことはなく、自動的?に赦されたかのような妄想的な思い込みに過ぎないのに、罪を犯し、偽善を働くたびに、また、嘘を積み重ねるつもりでしょうか。シャロームは、今、所在不明です。気をつけましょう。
 
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。
 
だから、悔い改めたのかと言っています。その代わりに、上のような、いちゃもんが返ってくるのです。
 
神の恵みの御業の中にあって、平気で、嘘を吐き、偽善を働き、詭弁を弄してきたシャロームです。どうやって清められるつもりなのでしょう。導きに気づかず、悔い改めず、どうやって、キリストの十字架のもとにゆくのでしょう。キリストを騙すつもりでしょうか。神は、総てを既に見抜いておられます。そして、いつまでも黙って見ておられる御方ではありません。
 
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
 
詭弁を弄するとは、このことです。御言葉、聖霊、助け、闇が明るみに、光、悔い改め、闇の力は砕かれ、清められ、・・美辞麗句の聖書語を、こんなに安っぽく並べて、何より"悔い改めない"シャロームは、どうやって、救われるつもりなのでしょう。
 
罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)
という聖句ですが・・
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 
 (ローマ5:20、新約聖書)
 
律法を曲解して信仰を堕落させる者たちによって、むしろ、罪が増し加わったが、そのために悔い改めによる恵みもますます満ち溢れた、という意味のパウロの言葉でしょう。
 
パリサイ人は悔い改めずキリストを殺しました。人自身が悔い改めないところに信仰は生まれず、恵みが増し加わることはないのです。
 
そういう深く悔いる罪人は深く悔い改めるから恵みが満ち溢れる、という意味の聖句を、悔い改めなくても恵まれるからと、罪を増し加えているシャロームは、自分に都合よく解釈をして、自分の意志で悔い改めないでいられるわけです。
 
それで救われるつもりでいるのは、シャロームだけです。シャロームも楽山も、日本語訳の通常の理路さえも、理解しているとは思えません。つまり、キリスト教について、何も知らないのです。
 
偽キリスト者、偽牧師の、シャロームの、詭弁の言い逃れです。もう、たくさんです。
 
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]返信する 
 
シャロームが隠れて行なっていることは、口にするだけでも恥ずかしいことであります。光にさらされるとき、総てのものは、明らかになる。シャロームは、まだ嘘を吐き続けるのでしょうか。キリストがあなたを照らし、総てのものが、あなたが大嘘吐きであることを明らかにするでしょう。
 
シャロームは、これだけ、聖句が自分を斬っていても、笑っていられる男です。なぜかと言えば、シャロームは、神を、全く信じていないからです。だからこそ、シャロームは、今までのような悪意と嘲笑いの嘘から出てくる詭弁を平気で得々と言ってくるのです。
 
カルト、偽善者、詐欺師、など、嘘吐きは、批判されると、嘘を守るために、また嘘を吐くしかありません。それが、嘘吐きの宿命であり、現象として起こってくる必然の報いなのです。
 
嘘を吐いていると、その嘘によって個人が、他覚的にも自覚的にも、規定されてゆき、嘘が癖となり、普通となります。つまり、嘘が常態化すると、本当の自分が、嘘を吐かない自分がいなくなるのです。
 
シャロームは、現在、所在不明です。ひょいと、丁寧語の世辞で挨拶をして、コメントを書いてくることがありますから、くれぐれも、丁寧語や世辞に騙されないように、注意してください。
 
 
恐怖の群れ

きょうふのむれ
 
 
(2020年03月15日、同日一部修正)
(2021年03月18日、再録+)
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
水木しげるZZ
@shigerumizukizz
「自由には責任が伴います」
まじで「どの口が言う」だな幸福の科学。
周庭氏の守護霊を騙って垂れ流した発言が国際問題レベルで騒がれた時、信教の自由だ表現の自由だと言って訂正を拒んだお前らが一体どんな責任を取ったと?
こういう団体をきちんと取材し続ける存在は絶対に必要だと思いますけどね。
>>>引用ツイート
 藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
 @SuspendedNyorai
  · 22時間
 幸福の科学のコメント「自由には責任が伴います。」
 そうだよ。幸福の科学だって、信教の自由と同時に社会的責任がある。だから取材するんだ。これ からもな。
 取材で「幸福の科学」施設に立ち入り ⇒ 罰金10万円の有罪判決。
 「報道の自由が大きく損なわれる」と控訴へ
<<<
午前5:37 · 2021年3月17日·Twitter for iPad
<<
 
引用元2人を批判する気はありません。
 
2人は、「自由には責任が伴う」というHSの発言を、HSもだと、HSの社会的責任を追及しています。正論だと思います。
 
しかし、楽山がリツイートして賛同する資格はありません。
 
楽山こそは、反省せず、責任を負わないでいる自己中カルトに過ぎないのです。楽山は、楽山として責任を問われるべき人です。
 
この楽山のリツイートは、盗人が、盗みをしてはいけない、と説教しているようなものです。
 
楽山は、批判者にはなれません。楽山は、アンチにはなれません。
 
楽山は、アンチHSではなく、HSでもなく、嘘と詭弁と誘導と印象操作で、人を疲れさせ、傷つけて悦ぶだけの異常者です。
 
楽山は、まともな応答が出来る理路も共感も持っていない病質的エゴイストです。決して関わらないでください。相手にしないでください。近づかないでください。
 
 
(2021年03月18日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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