他者の口を利用2
 
 2020年03月22日
 神との対話の危険性(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山は、自分の霊感を主張して止みません。しかし、楽山は、霊感の働く人であるならばありえないような、無理解、異なる意見に対する不感不応、理路の破綻と情緒の欠落、などの人間的欠陥だけが露呈してきた経過です。もはや、悪意以外何もないのでしょう。それで、また、人格を自ら破壊してゆくのです。
 
下の文章によると神の言葉は耳に聞こえるのではなく、心にうかんでくるのだという。
神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答えを得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで懐いていたのとはまったく違った思想が、突如として、わたしの心にうかんでくる。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.111)
 」
これは体験者の手記として、本書に引用されているものなので孫引きになってしまうのではあるが、こういう風に、霊的存在の声が聞こえるのでなく、その思いが直に心に伝わってくるという話は、その相手が神、高級霊、守護霊、生霊などの違いはあれども、他所でも読んだり、聞いたりしたことはある。
 
引用書籍の人が、どういう体験をしたのか、事実なのか、比喩的に表現しているのかは分かりません。しかし、実在の神が語りかけて答えを得る、というのは、自分は絶対正しいと言っているようなものですから、敬虔な人ならば、控えるようなことなのです。
 
今まで楽山の記事とコメントで見てきたことからは、カルトが自身を言い表すのに、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して騙すしかないという習性によって、悪意の偽善者である楽山やシャロームなどは、ひどいインチキしか表れていないということです。
 
たとえば、某スピリチュアル系のブログで、自分の心にうかんだ思いについてよくよく吟味してみれば、それが自分の思いではなく、自分以外の存在(指導霊、守護霊、生霊、悪霊など)の思いであることが分かるということを書いているのを読んだことがある。このブログ主は、そのようにして心の中の他者との対話を試みているようだった。霊好きの人のなかには、毎日、霊と話しているという人がいたりするけれども、こういう心の中での対話をそのようにとらえている場合も少なくなさそうだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山の、妄想的な霊の話です。霊能者が分かるというのは、自分も霊能者だという主張です。身の程を弁えない者は、反省しないために、他者の異常な能力を鵜呑みにして、自分もだ・・と言いたいのです。
 
楽山が霊能者であったなら、このように悪意の不祥事を批判されることはなかったはずです。
 
直感、直観、インスピレーション、ひらめき、思いつき、そして、理解に至るまで、人間の精神活動は、複雑ですが、楽山は、人が書いているからと、霊の分類まであげて、見せびらかします。つまり、説得力のないことを、他者の口で補おうとする醜さです。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの精神であります。
 
この、人が書いていると楽山が言うことも、指導、守護、導き、誘惑など、心に起こっている活動や作用を分けてみたのかもしれない、という思考力を、楽山は、持てない人なのです。
 
楽山には、可能性がありません。断定だけを暗示的に繰り返しています。そもそも人格が、既に、自己中絶対の方向に進行性に病んでいるからです。
 
タロット占いをする知人も、これと似たことを話していた。この人の占いはよく当たっていたので、その理由を問うと、何となく分かるのだという。カードのケースにある説明には、カードの意味について抽象的かつ簡潔にしか書いていないのに、なぜカードの意味をそんな風に具体的かつ詳細に語れるのかを問うても答えは同じで、何となく分かるのだという。どうも語るべき言葉が自然と心にうかんでくるらしい。
 
楽山は、よほど、人に影響を受けやすい人格のようです。あるいは、人の口を利用しなくては、何も語れないのでしょうか。こういう情けない有り様も、楽山の知性?と感性?が、実は、欲望だけによることを物語っているのです。
 
楽山は、語るべきでない言葉が、不自然に、浮かんでくるようです。これが、楽山が、人に対して、ケロッと無感情に、疲れさせ、傷つけるケース(事件)でしょうか、カース(呪い)でしょうか。
 
自分は世界には人知ではうかがい知れぬ不思議なことがあっても別におかしくはないと思うので、オカルト、神秘主義を頭ごなしに否定しようとは思わないのではあるが、心の中での対話は、心の健康のためにはよくないという話は聞くし、霊的存在との対話にハマり込んでしまうと段々とその命令に逆らえなくなり、やがては自分の人生を乗っ取られたり、現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れがあるという話も聞いたことはある。実際自分もこの手の注意の大切さを実感した経験がないでもない。
 
オカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山ですが、そのことを「否定しようとは思わない」という言い方で、客観に見せかけて、自らの霊感を受け入れさせようとするのが、楽山の、ボンヤリ言語、という、とても卑怯な細工なのです。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」というのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作の、ボンヤリ言語のインチキのやり方だということを忘れないでください。どんどん、怪しさが増しています。
 
楽山には、能力に関する特別なものが、書くものに表れたことはありません。むしろ、文章と理路に、歪曲しているところや、足らざる点や、救いがたい欠陥があることだけが、2年の間に明らかになってきました。文章を書く人として、楽山は、品がなく、とても下劣です。
 
昔、見かけたことのある、お祭り騒ぎの乗りみたいに、祭りの出店でタコの入ってないタコ焼きを売るような、下品なインチキ商売だということを、楽山自身が、次々に表しています。
 
楽山やシャロームのような人物が、いちばん、真実を追求する人たちを、自分のインチキレベルにおとしめたり、カウンセリングする人たちの邪魔をしたりする、とても悪質な半端者なのです。
 
世の中には霊好きな人…この手のことにどうしてものめり込んでしまわないではいられない人もいるだろうけれども、一般的にはそういうことはほどほどにしておいた方が無難だろうし、できればはじめから近付かないのが一番だろう。触らぬ神に祟りなしというのは本当だと思う。
 
霊好きな人と、まるで他人事のように言っていますが、霊に固執してきたのは楽山です。というより、触らぬ神に祟りなしと言うなら、霊のことなど、書かなければよいのです。ここは、ある意味、批判者に対する脅迫とも受け取れるでしょう。ヤバい本性です。
 
「触らぬ神に祟り」・・悪質です。遠回しに宗教を否定しています。しかし、今までのことから、楽山が考える宗教は、オカルトであって、真の宗教ではないと判断しています。楽山が、分からないくせに、宗教を語るのは、結局、自分の偽霊能を宗教がらみで、認めさせる詭弁なのでしょう。
 
知情意の整わない者が、自己愛が高じて、自分は特別なんだと思い込みたくて、数々の思慮と情緒の破綻を指摘されても、他者に笑われても、なお、お気楽に、霊が分かるっぽい自分を、安易に短絡した記事を書いて、霊を聞くことはあるんだ、などと吹聴しているだけなのです。
 
何故なら、霊が分かるっぽい楽山は、まるで、人間が分かっていない。さらに、人間の信仰が分かっていない。理路が詭弁だらけで通っていない。情緒が鈍くて、感受することが、いずれも幼稚な夢物語か、おとぎ話の類(たぐい)になっています。
 
実質が何もないのに、自分を特別な霊的存在だと思いたがるのは、ナルシスト+オカルト趣味の、末路なのでしょう。
 
かつ、楽山は、その欠陥を全く自覚せず、反省せず、学習による訂正をせず、自分が特別という前提にしがみついているので、成長のない訂正不能の穴グラに居て、過大な自己愛によって、ひたすら、発信だけを繰り返して、恥に恥を重ねていることに気づかないでいます。
 
どこにも通用しないし届かない妄想世界の作り話ですから、騙される人が出てこないように、私は、批判記事を書いています。よく平気で、ネットに出てきて、書けるものだ、というレベルの文章ばかりなのです。
 
こういう、見かけだけ優しい易しいボンヤリ言語で、詭弁、印象操作、刷り込み、マインドコントロール、というのが、知らずに感染して、いつのまにか同じような人格破壊の病巣に進行してゆく、という楽山のやり方です。
 
楽山は、決して、スピリチュアルを云々できる人ではありません。要・警戒、というより、要・否定だと思います。社会の敵としての特徴がそろっています。
 
決して、楽山の言を、吸い込んだり飲み込んだりしないでください。既に受け入れてしまった人は、できるだけ早く、汚物入れか何かに吐き出してください。そして、逃げてください。
 
楽山の影響下にいることは、とても危険です。楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするからです。
 
 
(2020年03月23日、同日一部修正)
 
(2021年03月25日、再録+) 
 
 
 
神と人の違い、神とキリストへの思いの違いについて書いたこと。
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
(ずっと昔、再録)
 
 
※ 
 
屁理屈をこいて、神がいるなら悪がはびこるのは変じゃないか、という、整っていたら信じるけど整わないから信じない、神はいない、と言う者の詭弁に惑わされないでください。
 
楽山は、詭弁を弄します。つまり、詭弁だらけの文章を書きます。数か月だまされていた体験に基づいて、私は、約2年の批判記事に、そのことを書いてきました。
 
楽山は、あらゆる精神の生産活動において、人間性の健康な精神活動の阻害因子でしかありません。楽山が自分を出してきたら、生産的な心の活動が阻害され、疲弊してゆきます。今まで、ずっとそうです。そこで、ニヤニヤして自己満悦することことが、楽山の生き甲斐であるかのようです。
 
楽山は、自我が過剰に強いために、神を机上のキャラクターのように扱って、理屈に合わないからと、嘲ってきたのです。その楽山は、神が合理ではないと言っているが、いちばん非合理なのが自分だということに全く気づけないのです。
 
反キリストと言っていいような体質的悪意の詭弁屋が、手段を選ばずに、キリスト教の信仰に、屁理屈で、いちゃもんをつけてきます。無反省・無責任・無理解・無神経の者です。加えて、何を返しても、不感不応・訂正不能です。交流も議論も、全く成立しません。
 
インチキな反キリストは、何も答えられないほど、理路は破綻し、心は鈍麻しています。他者に文句をつけてきますが、無反省と書いたように、自分を斬ることも見ることも出来ません。
 
どうしようもない災いがあるから、人は神に救いを求める、という心情が、楽山には分からないのです。それで、逆に、神が、災いが起こるのをどうして止めないのかと文句を言い、神を否定して悦に入る始末です。楽山には、人の悲しみに共感する心が無いのでしょう。
 
自我絶対の自分信仰から、常識も弁えず、同じ屁理屈を繰り返しています。罪悪感がなく、恥を感じることが出来ないのです。楽山とシャロームという宗教詐欺師のことです。
 
 
神が、キリストが、神聖が、人の理屈に合っているから信じるのではありません。
神が、人に分かるような合理なら、そもそも信じる必要はないのです。
 
信仰は理屈ではなく、聖書を読んでキリストに共感することです。
 
 
共感と反感

共感と反感
 
 
(2021年03月25日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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