カルトの棄教
 
 信仰も棄ててしまえばあっけないもの
 https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41557551.html
 楽山のブログ。2019/6/30(日) 午前 10:37
 
 
(私)
はたして、信仰は、タイトルのようなものでしょうか。絶対の正しさを妄想的に主張するカルトにおいてのみ、あっけない、と言えるのでしょう。
(私)
真の信仰は、関係であり、絆(きずな)であります。神のほうから救いの約束を反故(ほご)にすることはありません。人が救いを拒むことはありますが、あっけなく捨ててしまうことは出来ないと思います。狭き門は、いつも、狭く開いているのです。
(私)
ただ、シャロームのような、悪意が継続するような偽者は、捨てるというより、最初から、信じる気など無くて、自尊の飾りとして言葉だけ「信じている」と言い、中身の乏しさを埋めるかのように、讃美しまくったり、全く成り行きも立場も弁えず、余裕ありげに、へらへらという印象しかないような笑いを入れてくるのです。
 

・「信仰を棄ててしまえばあっけないものです」 keitaさん
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n148.html
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。

 
(私)
カルトは、超常を決めつけるところから始まっています。つまり、人間の手に負えないところを、決めつけて信じ込むために、無理が生じます。強く思い込み信じ込むことに、大きなエネルギーの無駄遣いをするのです。そのために、上に書いてあるように、何も知らないのに、知っているかのように振る舞う無理があるのです。自然体と書いてあるのは、不完全であることを自覚する人間に戻ることであり、それが必要です。
(私)
楽山とシャロームは、言葉遣いは、わざとらしく丁寧ですが、徹底して自己中心です。シャロームは神の意志と行為を決めつけて、どんでん返しの奇跡で救われると言い、罪を認めず悔い改めることがありません。楽山は、不都合な一切のことを無視して、結局、ボンヤリ言語の曖昧さでしか語れなくなっています。それで、慢心できることこそが異常だと思います。
 
(私)
キリスト教にも、神を思い込んで信じ込んで、神の前で祈りの体裁を整えようとする信仰者もいるかもしれません。間違っていると思います。まるで社交の礼儀のような、神に失礼なことを言わないように整えて善いことばかりを唱えるような立派な祈りゆえに救われるなどということはないと思います。誰も、神の前で、立派に物が言えることなどあり得ないからです。
(私)
ですから、何度も言いますが、神の前には、精いっぱいの正直しか通用しません。聖書から、神は全知全能と信じたからです。祈るとき、すでに心を見透かされているのです。したがって、祈りが立派かどうかを神は見ているのではなく、正直な祈りを神は待っておられると考えるべきなのです。
(私)
処女懐妊、奇跡、肉体の復活を、起こったと信じ込むことが信仰なのではありません。それらが史実であってもなくても、人間の手には負えないことゆえに、史実と信じ込んでも、人間の心には、固定観念か強迫観念が生まれるだけなのです。正直に、分からないと言うべきです。
(私)
これも何度も言いますが、神の完全と人の不完全を弁え、キリストと人間との交流から、キリストの同伴すなわち愛を知った人間は、人間として生きて成長するために、キリストを忘れることが出来なくなります。
(私)
これは、いかなる観念でもなく、キリストの愛に触れて、キリストに惚れること、すなわち、愛によって絆(ほだ)されるからです。だから、人間性を超えるものなど、要らないし、むしろ、信仰にとっては邪魔であり障害なのです。その超常の奇跡を信じ込んでいるのがシャロームです。
 

keitaさんの文章を再読してみたけど、その通りのように思う。
信仰は棄ててしまえばあっけないものだ。
宗教の教え…特にその世界観は、
信じているうちはリアルに感じられるけれども、
信じなければ少しもリアルではなくなる。
そのあっけなさは、驚くほどだ。

 
(私)
楽山は、真の信仰を知らないから、また、いい加減なことを言っています。たとえ、信仰を捨てたと言っても、真の信仰は、人を捉えて離しません。何故なら、愛というのは理屈ではないからです。
(私)
捨てても、心のどこかに信仰の思いは残るでしょう。再び、罪を悔い改める機会は、いつでも与えられています。それが神の寛容です。
(私)
あっけないのは、カルトが、妄想そして理屈が絡んだだけのものだからです。カルトの場合、それで救われるかどうかは根拠がないために、殆ど、無謀で投機的な賭けの持続になるのです。だから、株券を捨ててしまうと、あっけなく終わるのでしょう。
 

ついでに言えば、これと同じことは、宗教以外のことにも言える。
たとえ自分が、これには意味がある、価値があると信じていることであっても、
そういう思いを取っ払ってしまえば、とたんにそれは無意味、無価値になってしまうものだ。

 
(私)
またまた、楽山の、詭弁というか、壊れた理路の瓦礫です。一般的な話になりますが、信じていることなら、思いを取っ払うことは出来ないはずで、その、できない状態を、信じている状態というのです。
(私)
前の記事で、運命論肯定のように、自由意志を否定しておきながら、取っ払ってしまえば、などと、信じているものを、自分で取っ払うことが出来るような言い方です。
 

この点、GO!GO!7188の歌詞は、当たってる。
 やり切って やり切って やり切って
 初めて気づいた
 ずっとこだわってたことってよく見るとすごく小っちゃい
 ほんとうにバカみたい笑っちゃう
・飛び跳ねマーチ
曲はこんな感じ(上の歌詞の該当部分)。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://youtu.be/crKVjNW-aEg?t=1369
一曲まるごとだとこう。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20383667
ちなみに、こういう状況の対抗策としては、次のような考え方があるという。
「一切は無意味であるなら、自分で意味を見出せばいいのだ。
一切は無意味であるからこそ、人は何にどのような意味をつけるか自由に決定できるのだ」
意味、価値のあっけなさに気が付いたものの、虚無的にはなりたくない人にとっては、
これは一理ある考え方ではないかと思う。

 
(私)
またまた、恐ろしい脱線です。無意味であるなら、自由に自分で意味を決定できる、と言っています。無意味が本質なら、自分で、捏造してよいということになるのです。つまり、詐欺でよいと言っているのです。
(私)
無意味であるなら、というのは、どういう仮定なのでしょう。本質を指して言っているのでしょうか。本質が無意味なら、どこまでも、無意味です。なにを・・、・・ちょっと、耐えがたいので、発散のため、ひと言、罵詈雑言、吐きます。・・馬鹿か・・
(私)
あとで暴言吐いたと言われそうですが、その通り、暴言吐きました。私の場合、理由と根拠を示してきた批判や意見に対して、相手の無礼なオトボケや無反応が続く場合、ガス抜きすることはあります。暴言ですから罪ですが、無視して、やさしさ芝居するよりはましだと思うし、、・・このことについて私の罪の意識が足りないことを、神様に告白し、お祈りすることにします。
 
 
((コメント欄))
 
(シャローム)
楽山さん こんにちは
記事を読んでふと孫悟空の話を思い出しました。
まちがいかな?
あちこち、飛び回り、ふと気がつくて、どうもまたおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた。なんと自分があちこち飛び回っていたのはお釈迦様の御手の中で、ぶつかっては止まっていたのはお釈迦様のゆびだったのだと。宗旨替えしたわけではありませんよ。(笑)
2019/6/30(日) 午後 0:38[ shalom ]返信する
 
(私)
確かに、シャロームは、学習も成長も拒否しているので、達しえたところという自覚に安穏として薄笑いを絶やさず、世界の総てが成長を求めて変転していっても、ずっと同じところにいるわけです。御心を決めつけて、これで大丈夫と信じ込む腐った信条の沼に、笑っていられるらしいです。
(私)
孫悟空のストーリーから言うと、どれだけ遠くに飛んだつもりでも、お釈迦様の、手のひらをさえ超えるものではなかった、という、悟空の思い上がりを戒める話だったと思います。
(私)
それを、遠く離れても、いつも神は自分の味方、という身勝手な話にすり替えています。自己中心に凝り固まっていまうと、いくら神聖の名を唱えても、余裕の笑いを見せても、こうなってしまうということです。
 
(私)
本質を何も弁えず、思想家・宗教家・聖職者のつもりでいるシャロームが、また「(笑)」をつけて、和みのつもりのコメントを入れています。真摯に批判に向き合う信仰の思慮もないので、笑って、和む芝居しか出来なくなっています。
(私)
シャロームの和みは、嘘を土台として、無条件に、いつでも生まれます。状況を無視して、気安く笑えるのです。現実離れしたカルトというのは、これだから、怖いのです。
(私)
キリスト信仰から宗旨替えしたのではなく、シャロームは、キリスト信仰者ではないのです。シャロームが、いくら、宗旨替えしていないと言って、いくら神を讃美しても、自尊から生まれた信仰?を訂正不能に信じ込んで、罪を認めず、悔い改めをしないシャロームは、堕落するプロセスにしかいないのです。
 
(私)
楽山とは、自己中心という共通点のために、好意的に付き合っているシャロームです。成りすましの可能性もあります。シャロームと楽山に近づかないでください。キリスト信仰は自己中心とは正反対のところにあります。
(私)
シャロームは、総ての不都合を、楽山と同様に、無視しているから、笑えるのです、というか、笑ってしまうのです。笑っている場合ではないことが8年続いていても。
(私)
シャロームも、楽山も、前にコメントの遣り取りをしたことがありますが、こちらの話を全く理解できず、偏向した仲間ぼめだけをぶつけてきました。人間なら分かるはずのことが、分からない、そして、受け取る気がないのです。だから、今では、直接のコメントの遣り取りはしない方針です。
 
(私)
「またおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた」・・なぜ、シャロームは、こういう白々しいことが書けるのでしょう。楽山と違って、シャロームは、信仰者キャラなので、悟ってるふうを装います。
(私)
戒めの話は、戒めとして、神の救いと守りに結び付いてゆくのですが、シャロームは、戒める神も懲らしめる神も信じていませんから、シャロームにとって神?は、いつも優しくシャロームの総てを肯定してくれるだけの神?でなければならなくなります。それが決めつけになります。
(私)
シャロームにおいては、戒めの話も、無視しないときは、自分が何をしても、いつも自分を守ってくれる、という都合の良い話に、ほぼ自動的に、変換してしまうのです。
(私)
それは、神と人の違いを弁えないで、自己正当化することであり、聖書において、神が最も嫌う人の姿です。
(私)
真の神は、このような身勝手をゆるしたでしょうか。聖書を読めば、その多くの記事において、明らかなのです。自分で決めつけた聖三位?と信仰?を絶対として慢心し続ける者を、神が赦して信仰の義を与えることは永遠にないということです。
 
 
(2019年07月02日、同日一部修正)
 
 
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