安楽の果て
 
 『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著
 2021年03月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、今まで、一度もキリスト教について、真面目に、真っ当に語ったことはありません。前にも言ったように、机上の屁理屈に、学者の言葉を宛がって、もっともらしく語ったことにしてきただけです。
 
楽山は、ずうっと、自分の言いたいことを書くだけで、人の言うことを、読みもしないし、読み取れないし、読んでも感じないし、受け取りもしないし、ましてや、理解する気など最初から無いのです。冷やかしだけで、議論の主体にも対象にもならない人です。
 
神にも、キリストにも、聖書にも、全く無縁な野次馬の言うことを受け取らないでください。タイトルだけ立派で、「宗教」にも「論」にもなっていません。しかも、こういうことは、はじめてではないのです。
 
楽山は、慢心しか持たない、とても幼稚で、人の言葉を無断借用しないと何も言えないほど遅れているのに、呆れたインテリ気取りだけに満たされている精神の詐欺師なのです。
 
何度も反省とか共感などと言いながら、前後の文脈に全く変化がなく、実がなく、言葉だけ書いて、ごまかしてきた履歴があるので、楽山の言うことを本音だと思わないでください。
 
*概略
本書では宗教およびキリスト教について語られており、宗教についてはいささか難しい話もあるが、キリスト教については分かりやすく説明されている。
以下には、本書中で特に印象深かった箇所についてメモしておきたい。
 
楽山は、しばしば、"・・は分かりやすい" と言います。しかし、それで書いた感想文は、まるで分かっていないことが表れるだけなのです。どうしたら、楽山のように、謙虚さを捨て去る、かつ、それを気にしなくなる、などいうことが起こってくるのでしょう。
 
楽山については、宗教や思想や言論・・云々ではなく、精神病理のほうが、説明の的を射ることになりそうです。この世には、不治の病があることを、いつも感じさせてくる楽山です。
 
悪業の、虚言、詭弁、誇大妄想、自己中心、固定観念、訂正不能、学習障害、など、多くの言葉・用語が、楽山には、まとわりついてきます。言論の内容云々以前の問題なのです。
 
*聖書
アーネスト・ゲルナーが言うように、キリスト教という名で明確に定義できる教説は存在しません。全く反対のものが一つの器に盛り込まれているので、どこを取り出すかによってあらゆる言説が組み立て可能です。
(『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著、NHK出版、2009年、pp.153-154)
 」
「聖書からはあらゆる思想を導き出すことができる」という話を聞いたことがあるが、ここでも同じことが言われているようだ。
宗教批判者は宗教の抱えている矛盾をつくが、宗教はその矛盾故に守られ、さらには次々に生まれてくるのだとしたらおかしい。 
 
宗教は、信仰のためにあります。信仰は、思想ではありません。矛盾は、人の常としてありますが、楽山のような酷い有り様で、批判に何の返答も出来ないようになることはなく、さらには、楽山のように言い張りだけは続けるような、恥知らずにもならないのです。
 
節操のある人間ならば、ふつうは、双方向が可能です。しかし、楽山とは、まるで成り立ちません。楽山は、自我の排せつ物を、立派なもののように、排出するだけの壊れた蛇口の単方向です。
 
*人間観
自由意志によって良い選択、神に至る選択はできない。これがプロテスタンティズムの人間観の根本です。人間の自由意思というのは奴隷意思であり、常に間違った選択しかできないというわけです。
 他方、カトリシズムの人間観では、人間は神の恩寵によって正しい選択もできると考える傾向があります。 
(同上、p.171)
 」
著者によれば、プロテスタントには幅があって、ルター、カルバン、ツヴィングリは「自由意志による救済の可能性を全く認めないが」、ジョン・ウェスレー(メソジスト教会の創始者)は「人間の自由意志による救済を認め」ており、カトリックに近いという。
 
またしても、浅薄な知識をもって、受け売りの知識を、紙くずのように投げてくる楽山ですが、破れた紙片だけでは説明にならないことが、分からないようです。元々知ったかぶりをして、いい気になりたいだけだからでしょう。
 
信仰は、神に与えられた人間の自由意志を生かします。否定してなどいません。信仰告白は、そして、信仰生活は、自由意志でなければ意味がありません。
 
自由意志を病魔に操られて破壊されているのは、楽山のほうです。だまされないようにしてください。精神病質者の楽山に、まともな思考力はありません。
 
偏向した固定観念だけしか持っていないと思います。ゆえに、あとは、柔和芝居をするしかないのです。ゆえに、まともな読書も出来ないことが、今までの楽山の感想文から明らかになっています。
 
自分は人には当然に自由意思があり、これによって善を選ぶことは可能と考えていたのではあるが、最近はこのどちらにも懐疑的になっているので、上のような人間観には真実味が感じられる。とはいえ人の選択に影響を与えている存在について、それを神とするか、遺伝子とするか、はたまた環境とするかは判断しかねるのではあるが。
 
楽山が善を選んでいるとは、到底、考えられません。ずっとずっと、言論の邪魔ばかりしてきました。楽山は、懐疑的なのではなく、理解できないから否定しているだけです。計算の出来ない子供が、数学嫌いになるのと同じようなレベルに過ぎません。
 
選択に影響を与えている存在を、神とか、遺伝子とか、環境とか、言っていますが、自分の感性と思考の偏りという欠陥、その原因である自己愛性パーソナリティ障害、という病識だけは、考えない楽山であります。「判断しかねる」のではなく、明らかに、判断できない病気なのです。
 
*神とは何か?
カール・バルトは、人間が表象する神について、人間の願望が投影された神にすぎないと考えます。
(同上、p.177)
 」
神や宗教について、あれこれ考えた結果、「宗教によって明らかとなるのは神のことではなく、人の願望はいかなるものかということであり、人が神を語ろうとするとき、それは自己を語ることに他ならないものだ」と近頃は考えるようになっていたのではあるが、どうやらこんなことはとうに言われていたことらしい。
 
聖書には、願望だけでなく、戒めも書かれていますが、それを理想としても、もっと大事なこととして、神と人の関係、そして、キリストの共感と愛、という、人間にとって大切なことが書かれています。それを、全く読み取れず、弁えず、神がどうとか語るのが、呆れた自惚れ屋の楽山です。
 
楽山は、神は、人間の願望の産物だといいたいようです。願望と欲望は違います。目指すものと、有るものは違うのです。楽山のように、自らを洞察できない者は、それを、いっしょにしてしまいます。
 
信仰は、時に欲望を許し、時に欲望を抑制するように働くことさえ理解できない楽山です。そして、その根源において、欲望よりも、より高いものに、到達できないまでも、憧れをもって、生きる縁とすることがあります。それが、罪の自覚ゆえに、信じ仰ぐ、という信仰です。
 
そういう高次の精神機能が、我欲しか持っていない楽山には、理解不能なので、全部、願望という言葉で、乱暴にひっくるめて、信仰をマンガに、聖書をマンガ本にしてしまうのでしょう。
 
恐らく、そのことが、いつ読んでも、どんなテーマでも、楽山が、本能のように、言葉も、書物も、聖書も、低次元で、発育の悪い幼児の譫言(うわごと)に、無理に、まとめてしまって、何の響きもない退屈さで、楽山にだけ満悦を与え、信仰者にとっては、お話にならない原因であります。
 
楽山の語る宗教は、宗教でも信仰でもありません。楽山は、自己満足しているだけです。楽山を、聞いて、読んで、受動的に、宗教ってそうなのか・・と思ってしまう犠牲者を待っている楽山のペテンに、どうか、引っかからないでください。
 
主体的に考える人は、決して、楽山には頷きません。代わりに、楽山の、どうしようもなく整わない病魔を、そこに見るだけです。そして、それが、楽山に関わった者が受け取るところの、言い知れぬ徒労であり、消耗性の疲労であり、心ある人間が、心無い非人間に遭うという悲劇なのです。
 
こうしてみると、この世界にはもう新しいものなど一つもないし、素人が思いつくようなことは専門家によってすでに語り尽くされているというのはその通りのようだ。
 
どう「語りつくされている」のか、私は知りませんが、楽山は、「その通りのようだ」と書いています。しかし、その語りつくされたという一部でさえ、楽山は、勘違いの連続であることが、書くものに表れてきました。
 
楽山という自惚れ妄想屋は、いったい、どういう見識を持っているつもりでいるのでしょう。罪悪感を感じ得ないから、だらだらと書いてきて、うわべだけ、まともぶれば、一人前の言論者と肩を並べているつもりになるほどの病的ナルシストです。
 
恐らく、生まれてから、まだ、一度も、真実に近づいてさえいないのではないかとさえ思われるほど、おぞましい精神病理であります。先入観が肉体を身につけ、固定観念となって保身し、不都合を無視する自己中心が、成長の無い口を育てて、不潔な唾を飛ばしているだけのようです。
 
語りつくされていることを、知り尽くしているかのような、楽山の高慢と傲慢です。謙虚というものが一切見られません。爆弾を投げておきながら、言い方だけ丁寧にする無理が、楽山の言において、あらわになっています。悲惨です。
 
*いろいろなキリスト教
宗教は特定の文化の中でしか現れません。宗教というのは文化の一形態です。キリスト教も例外ではなく、純粋なキリスト教というものはありえず、文化と融合して成立する不純なものということになります。
そうすると、それぞれの文化によってキリスト教は発現形態が異なることになる。ここに類型という考え方が出てきます。 
(同上、p.212)
 」
著者はこの一例として「西欧文化と融合した西欧類型のキリスト教」や、「スラブ文化と融合したスラブ類型のキリスト教」などがあるとしつつ、「西欧類型のキリスト教」はさらに様々な類型に分かれるとしている。
 
キリスト教を「文化と融合して成立する不純なもの」という話を引用して言っています。宗教の文化的形態と、個人の信仰そのものを、混同した誤謬であります。宗教も信仰も、どこまでも、矮小化したい楽山の目的に適っているから引用したのでしょう。
 
宗教には、個人の信仰という、いかなる類型分類も出来ず、誰も犯すことのできない領域を含んでいることには、お構いなしのようです。
 
楽山の言は、強迫的思考の限界であるところの、机上の理路で宗教と信仰を語ったつもりになるという症状です。心の無い楽山には常態です。心の問題である信仰に、類型は通用しません。
 
この症状については、前から指摘しているのですが、訂正不能の楽山らしく、無視して無学習のまま、またしても、同じ落とし穴に、机上から未整理の混線に嵌って、泥沼のような猥雑な理路に浸かって、温泉気分になっているようです。
 
世界を網羅しているかのような誇大的陶酔気分の、自分で発電できないショートサーキットが、他人の言葉頼みの依存性回路をくっつけて堂々巡りしています。
 
自分の欠点や罪のことを、一切、語ることの出来ない楽山です。このような、学者気取りと評論家気取りが、楽山の縋りつく生き甲斐になっているようです。背伸びして背伸びして痙攣し昏倒するパターンでしょう。
 
客観的に書いているように見せかけても、実は、自己中と自己愛による偏屈な主観が全体を支配していて、どこにも客観性が見当たらない、という、視野狭小と理路の混乱が特徴的な、楽山の文章です。
 
自分は遠藤周作の語るイエスに共感するところは多いのではあるが、遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていたとのことであるし、
 
今までの記事から、楽山は、誰にも共感したことはないと思います。みんな、楽山が自分を飾るための思い込み、または、嘘なのです。遠藤周作は、私が、一部、読んだ著作からも、教会から乖離した信仰だったわけではないと思います。
 
「遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていた」と言いながら、そのキリスト教も信仰も、全く理解していないから、読者に理解できるように説明できないのが、楽山です。こういうことから、思い上がりからの飾りだとバレています。
 
同氏については、自由で、柔和、そして、小説家ですから、人間の立場から考えるのは当然でしょう。それは、同氏の器としてあるもので、楽山が、いかに、偏らせようとしても、楽山の器では理解できないところで、活性を持っているのです。
 
楽山という我執による短絡魔が、宗教から、文学まで、何か、見なして決めつけたいようだが、度外れた無理解の誇大妄想から、自分をまっとうに見せかけようとして、滑り続けるという破廉恥をさらしているだけです。自己愛者は身の程を知らないという症状に過ぎません。
 
それなら遠藤周作の語るイエスに共感したところで、それは氏によって日本的に再解釈されたイエスに共感することにはなっても、本来のキリスト教の語るイエスに共感したことにはなるまいと考え、若干さみしい心持ちがしたものだが、上の話からすればこれはさほど気にする必要はなさそうだ。
 
「日本的に再解釈されたイエス」と言って切り捨てているところで、いかなる器も縁の無い楽山の言は終わりです。キリスト者の共感ということが分からない楽山は、有名人も侮辱するような、傲慢で、かつ、それを "気にしない" だけの、無視の鈍感を持ち合わせていることを、自分で漏らしています。
 
今まで、有名人や学者の名前を、自分の満悦や快楽のためだけに、好きなように見なし、悪用して、"気にしない" 楽山です。思想と言論の邪気として、追放されるべき人格でしかありません。
 
人間としての反省力や責任感という属性を持たず、身の程を弁えない楽山は、社会人として成り立たず、言論者としてはエラーかワームかバグという回路の混乱を招くだけです。したがって、いかなる真実追求の思想にも議論にも、参加する資格はないのです。人間として成り立っていないからです。
 
実際、楽山の言は、日常会話のゴシップ以上の機能を持っていませんし、そのような罪業(ざいごう)だけを、発言・発信として、もたらしているだけの、煩わしい自己循環性の単体に過ぎません。
 
人は純粋なキリスト教は知り得ず、その文化と融合させた形でしか認知できないのであれば、自らの属する文化を通してキリスト教を理解することの是非を論じても仕方なく、それはそのまま受け入れる他ない。
 
人間は、神ではないのだから、完全性と純粋性の総てを知ることは出来ません。まさに、信仰がそれを教えています。人間には、人間の弁えるべきことがあります。そこに信仰の中心があるのです。
 
楽山は、無理に、辻褄合わせをしているようです。「そのまま受け入れる他ない」・・・楽山が、いったい、何を受け入れたというのでしょう。楽山が受け入れてきたのは、賛同と、世辞と、褒め言葉だけです。餌をもらって尻尾を振る犬のようなものです。
 
いかなる文化を通しても、自己愛性人格には、宗教の是非など、分かりません。根底から、宗教を見くびって、もはや、人間の言葉の恩恵を、慢心だけで、超えたつもりになっている短絡志向の楽山だけが「是非を論じても仕方なく」なっているだけのことなのです。
 
今に至るまで、宗教の是非とか理路とかを、外し続けているのが、楽山その人です。しかも自覚がないから、学習もせずに、書物や学者の名前を出しては、読解不能・説明不能の自我に、いつも、慢心を塗りたくって、見せびらかし、その結果、救いがたい有り様を呈しているわけです。
 
弁えるどころか、あざ笑うように、宗教を机上でもてあそんできた楽山が、宗教について、受け入れる気もないくせに、幼稚な見方で、宗教理解を論外のように言っています。病質者というのは、ここまで外れて、自己正当化してしまうということが分かります。楽山に分からないだけなのです。
 
個人の事情によって異なる部分がありますが、そのことと矛盾なく、共有できるところがなければ、宗教も信仰も成り立ちません。楽山は、実際に信仰に救われた人がいることを無視して、成り立たないことを、自らの不遇の怨念の反発で、望み、言い張っているに過ぎないのです。
 
*イエスの教え
とはいえ、現実のイエスはどのような教えを説いたのかということは、やっぱり気になる。
 
こちらのほうが二千年前のことだから、いっそう確定できない、ということを、楽山は、分からないために、「やっぱり気になる」などと軽口で言う始末です。小児レベルの欲望でしょう。
 
「どのような教えを説いたのか」ということは、聖書に書いてあります。楽山は、そのレベルでも、聖書を、まともに読んだことはないと思います。宗教、特に、キリスト教について、楽山の言うことを信用しないでください。
 
 (▼不勉強の楽山の無知がバレています。▼)
 
関連書籍を調べてみれば、現代のキリスト教はイエスというより、パウロによるもののようであるし、悔改めよ天の国は近づいた云々というのは洗礼者ヨハネの言葉ではあってもイエスのそれとはいえないだとか、安息日についての教えはイエス独自のものとは言えず、ユダヤ教ですでに説かれていたともいう。
 
楽山は、教えについて述べず、誰によるものかに興味があるようです。洗礼者ヨハネといい、使徒パウロといい、イエス独自ではない、という、教えそのものを理解してない楽山の、安っぽい、いちゃもんに過ぎません。聖書から、何かを学ぼうという気が、元々ないからです。
 
楽山は、すべてがイエス独自の教えでなければならないという子供じみた解釈から物を言っています。イエスは、公生涯以前に、律法や戒律について、知識と、その実情を見て学んだであろう、という解釈が、楽山には出来ないのです。的外れもいいとこでしょう。
 
パリサイ人の戒律主義と対立して、イエスは、人間の心に寄り添い、心と命を生かす信仰を宣べ伝えたことが、楽山は、知識として入っておらず、学ばないままで、文句を言っているのです。
 
律法を、廃するためではなく、成就するために来た、という、イエスの言葉(マタイ5:17)も知らないようです。ゆえに、昔から安息日というものがあったけれど、安息日が戒律となっていることを批判して、イエスは、人の子は安息日の主である(マタイ12:8)と言ったことも知らないのでしょうか。
 
事前に調べるということをしないのでしょうか、思い付きで書いているのでしょうか、楽山は、何も勉強しないで、文句を言って、キリスト教を否定しています。怠慢の上で、思い上がる楽山です。
・・うわぁ、呆れる・・とでも言いましょうか、底が知れる・・楽山、最低です。
 
自分では大事なことを何も言えないために、大昔のことですから、誰が書いたかについては、正しいとも間違いとも言えないことを利用して、漁って拾ってきたらしいことを書いて、否定したつもりで満悦している楽山であります。
 
上の聖句は、キリストの使命に深くかかわることです。楽山は、聖書を、全く理解していないことが明らかになりました。それで、キリスト教を否定して、どうするんでしょう。楽山に学べとでも言いたいのでしょうか、それは永遠にありえないことです。ちょっと、言います・・バカか。
 
また、人の言うことを持ってきて、けなしていますが、楽山には、全く独自性がないという表れなのです。「もののようであるし」「だとか」「ともいう」・・この情ない書き方は、おとしめ、けなし、否定する、という目的だけで書いてくる欠陥人間の筆致として資料にしてゆきます。
 
 (▲楽山が無知であることの証拠になります。▲)
 
果たして現実のイエスの真意はどのようなもので、どのような教えを説いていたのだろうか。どうもこれは現実の釈迦は何を説いたのかという問いと同等か、それ以上に難しそうだ。
 
キリストと、釈迦と、楽山においては、十把一絡げであることが表れています。こういう人なのです。何も分かっていない、しかし、分かっているふうを装う芝居、今まで、何度、見せられてきたことでしょう。自己愛性人格障害、不治のようです。
 
*人それぞれ
ある人にとって絶対的なものはある。しかし、それはその人にとってのみ絶対的なものである。人は複数存在するのであるから、絶対的なものも複数あるのは当然のことです。そして人は、自らの信じる絶対的な原理に従って、この世界について語る。そこで語られた異なる言説の間で折り合いをつけるという作業を繰り返していくしかありません。
(同上、p.214)
 」
人には絶対は知り得ず、自分にとって絶対的なものしか分からないのであれば、それを他に強要はできず、自他の信じる絶対的なものの差異を受け入れ、折り合いをつけてゆくしかないというのは当然のことではある。
 
絶対でなくても、個人が生きる上で、必要とするものがあり、それに答えるのが宗教であり、それを、縁(よすが)とするのが信仰であります。
 
自分にとって絶対的なものが、楽山には分かるのでしょうか。そんなこと、誰にとっても、分からないと思います。だから、思想・宗教などを学ぶ意義があるのです。学ばないで慢心している楽山ならではの発言です。
 
楽山が、信じないのは、楽山の勝手ですが、「折り合いをつけて」などという言い方は、宗教と信仰に対する侮辱するための詭弁でしかありません。人々の間で、付き合いの折り合いを付けることと、信仰とは全く違います。
 
今までもあったことですが、似て非なることを同一視して、いい加減なものだと見せかけようとする楽山の、卑しく嫌らしい印象操作の企みであります。こういう手段しか楽山には無いのです。
 
楽山は、真面目・真剣を旨とする求道者と信仰者への、言論による迫害者と言ってよいでしょう。はっきり言わず、語尾でごまかすのが特徴の、ボンヤリ言語の慇懃無礼による悪魔性が全開です。
 
一神教は他に不寛容になりがちだという意見があるけれども、こうしてみると、一神教だからといって必ずしもそのようではなく、人としての相応の謙虚さを持つならば多神教的な側面を持たざるを得ず、必ずしも寛容を拒絶するとは限らないのだ。一神教は不寛容で、多神教は寛容だという単純な決めつけはよろしくない。
 
楽山のような者に、寛容になる人は、だまされている人だけでしょう。「人としての相応の謙虚さ」を、欠片も持っていないのが楽山です。
 
加えて、不寛容という成り立たない固定観念をもって、「一神教は不寛容で、多神教は寛容」などということを持ち出すのは、信仰を持たない者の、刷り込みであり、ごまかしても、むしろ、まさに「よろしくない」楽山のような人が企むものだと分かるのです。
 
楽山の言葉を信用してはいけません。何の責任も負う気はないのです。思考と感性が、滅裂に近いほど、楽山は、信仰という大切な問題について、全く圏外に向かって、呆れるほど的を外して、遠吠えばかりしています。
 
信仰を持たない人とは、限界はあっても、常識の範囲であれば、ある程度、話が通じるものです。実際、そういう話し合いの中から、新しい信仰者が生まれているのです。私も、かつて、その一人だったわけです。
 
しかし、常識も持ち合わせていない楽山のような自己愛性人格障害者とは、どのような話し方をもってしても、やはり、無理のようです。今回、それを再確認しています。理路に、接点のない妄想的破綻をきたしている楽山です。整合性も、共感も、成り立ちません。ただ、迷惑なだけです。
 
「多神教的な側面を持たざるを得ず」などという言い方で、一神教からの、トンデモ短絡を許してはいけないし、さらに、それが、寛容であるかのような詭弁を許すことは出来ません。
 
いつもながら、詭弁と捏造で、薄い思考と、鈍い感性で、丁寧に、ボンヤリした言葉遣いで、理路の厳密性を全く考慮しないで、捻じ曲げて、結論に持っていく婉曲という楽山のボンヤリ言語は、悪意と悪臭の催吐作用しか持ってはいないのです。
 
今回、楽山の病質が、惜しみなく、高慢、慢心、傲慢、気取り、不感不応、訂正不能、という形で、文章に表れています。いつもと同じように、汲み取れるところが、どこにもなく、恐ろしいほど無自覚の、言論者として欠格と言ってよい非常識の、感受性の鈍麻と理路の破綻を見ています。
 
今までの楽山の言から、楽山が持っているのは執念深い悪意と共感性の鈍麻であり、持っていないのは理路と感性であり、もたらしてくるのは徒労と疲労であります。ゆえに、楽山の行方は、真実ではなく、排泄でしかありません。汚れないように気をつけてください。寒気がします。
 
 
排泄物

排せつ物
 
 
(2021年03月31日)
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング