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コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
私も、確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかということを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。信仰について共感や感動に結びつくのは、聖書の言葉+人の言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
※
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。半世紀も経ってしまいました。
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、その後の福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
2021-04-04-22:41
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信仰は心を大切にするところに生まれます
(2021年04月05日)
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