人を傷つける楽山
 
 人を傷つける宗教
  (『ジョイランド』スティーヴン・キング)
 2016年10月12日 楽山日記(LD)
 
http://mn266z.blog.jp/archives/17512600.html
 
 
前の反宗教の記事に付いていたリンクから、楽山の、この過去記事が表示されました。読んでみると、楽山は、子供の死の話まで利用して、おぞましき反宗教に読者を誘導しようとしています。
 
約1年半で、何も変わっておらず、ずっと、人をだまして宗教の悪い印象を刷り込もうという意図が明らかであります。
 
楽山は、生も、死も、悲劇も、小説も、学問も、事実も、誤解も、曲解も、有利になるなら、何でも、自分の快感のために利用~悪用する人なので、気をつけてください。
 
人を傷つけているのは、宗教ではなく、神でもなく、人の罪によるものです。むしろ、ゆえに、人生経験を重ねることが出来ていたら、このように楽山に悪用されることもなく、人間らしい正しい信仰によって、癒しや救いに恵まれるストーリーもあったでしょうに・・という感想になります。
 
罪の自覚さえ持たない楽山のような者は、この伝道師のように、満悦した正義の味方気分のために、子供さえも利用して、宗教が悪い、宗教が悪いと、人を、誘導し、惑わせ、迷わせ、傷つけてゆく悪魔性の外道であります。
 
楽山の病質には不遇からの怨念などが考えられますが、詳細は不明です。少なくとも、楽山は、反省と学習の意志がないために、自身の欠点について、全くの不感であり、無頓着であり、その分、宗教のせいにして、恥じるとことさえないのです。
 
今までに明らかになったことから、楽山は、無神経、無反省、無責任で、訂正不能の自己満悦に生きている自己愛性パーソナリティ障害者です。人格の異常には、効く薬がありません。
 
スティーヴン・キングの新作が出ていたので読んでみた。その中で、ハッとする言葉があったのでメモしておく。
「世の中は苦しみだらけだっていうのに、どうして人間は宗教を使って傷つけあったりするのかしら」とショップロウ夫人が言った。「宗教は安らぎのためにあるはずよ」 
(『ジョイランド』スティーヴン・キング著、土屋晃訳、文藝春秋(文春文庫)、2016年、p.211)
 」
これは、ある伝道師の発言に対する感想である。伝道師は、無神論者となった実の娘が生んだ子に、重い障害があるとわかったとき、それは神による罰だとした上で、やがて娘は「息子の受けた試練によって神の道にもどるだろう」と言ったという。
 
これは、間違った伝道師の話です。敬虔な伝道師なら、神を恐れて、「神による罰」だなどと決めつけることはしません。その責任を、楽山は、神に負わせたいようですが、罪と責任は、この伝道師が負うべきことであり、まさに、伝道師の罪は、神が裁くことであります。
 
楽山が裁いて、云々しているのは、とんでもない身の程知らずなのです。実に、この伝道師の罪の着せ方は、いつも、人を、あらぬ方向へ誘導しようとして、何でも人にせいにする楽山の体質に、よく似ています。
 
伝道師のほうに注目すると、恐らく、信頼を失うかもしれません。私みたいなのが近くにいたら、先ず、間違いなく、楽山と同じように批判の対象になるでしょう。キリスト者が、いつも一致団結しているなどということはないのです。
 
人間集団は、宗教であれ、なんであれ、何らかの闘争状態にありますし、そうでなければ、いつでも堕落し得るものです。信仰は、折々の必要な平安を与えることはありますが、けっして、常時の安穏を与えるものではありません。
 
しかし、楽山のような自己中は、批判されることはあれ、断じて、批判する主体にはなれません。今まで、言ってることが、ことごとく、当を得ず、的を外れ、成り立ってこなかったからです。
 
この伝道師には、自己中で訂正不能の思い込みがあるのでしょう。つまり、楽山に似た人かもしれません。キリスト教の内部にも外部にも、楽山的人物はいるということです。
 
「人間は宗教を使って傷つけあったりする」・・これも、宗教の間違いから起こることであり、責任は、宗教の誤解~曲解という罪を犯す人間の側にあります。
 
つまり、こういう人間の間違いを、神は、ひょいひょい出てきて正すということは、なさらない御方なのでしょう。それが不服なのが、自分可愛さだけの楽山は、分かってもいないし知りもしない宗教・信仰に口をはさんでくるのでしょう。
 
楽山は、神に、何でも困ったときには、出てきて、うまくいくようにしろ・・とでも言っているようなものです。自分の罪の性質を省みない者は、何事につけ、反省することがないので、このように、安易に他罰に走ります。
 
反キリストの楽山は、自らを省みず、嘘っぱちの正義をもって、神を、宗教を、悪者にするのです。ゆえに、この記事の中で、いちばんの悪者は、言い方が丁寧を装っているぶんだけ、不幸を反宗教に悪用する楽山その人であります。
 
罪深い不祥事の例をもって、正しい理解を知らないものだから、宗教って、こんなに、おかしいから、信じないほうがいいよ・・という方向に、誘導したい楽山のような悪魔性の輩もいるということです。本当に、何の救いも、癒しも、慰めも、見出し得ないのは、楽山の言であります。
 
これに対する感想が上の言葉である。
本当に、ショップロウ夫人の言う通りだなあと思う。世の中には、つらいこと、苦しいことがたくさんある。本来なら、宗教は、苦しんでいる人たちに、安らぎを与えるべきものだ。
 
宗教をけなす楽山は、「苦しんでいる人たちに、安らぎを与える」すべを、何も持っていません。つまり、いちゃもんだけを言って、楽しんでいるサディスト的な自己愛性人格障害です。そのために、悪知恵をめぐらせ、一部をもって、全体を否定する詭弁を作っては投稿してくるのです。
 
でも実際には、宗教者はそういう人たちに対して、神罰だ、裁きだ、地獄に墜ちるぞ、カルマだ、自業自得だ、心掛けが悪いからそうなるんだ、祟りだ、悪いものに憑りつかれているんだ等と言ったり
する。必ずしも悪意でなく、善意で言うこともあるから余計に始末に悪い。
 
楽山によく似ています。神のせいだ、神が裁くからだ、信者になると苦しみが待っているぞ、神はカルトだ、神なんかいない!、自分は出来た人だから自分に聞け、宗教に "取りつかれると大変なことになりますよ" とでも言いたげな、遠回しの発言など、丁寧語での印象操作という詭弁だから、さらに悪性度が高いのです。。
 
実を言えば、自分も宗教を信じていた頃は、そういうタイプの信者だった。信仰熱心になるほど、人の気持ちが分からなくなり、無慈悲になっていた。ひょっとしたら信仰は、人を無慈悲にするのかもしれない。こういう自分が言うのもなんだけど、この辺りのこと、どうにかならないものかなあと思う。〈了〉
 
楽山は、体質的な異常から、人の気持ちが分からず、無慈悲であり、楽山との交流は、人を、同じように無慈悲にしてゆく洗脳かマインドコントロールなのです。楽山は、人がどうなろうと知ったことではなく、ただ、支配したい、少なくとも、優位に立っていたいのです。
 
無反省と無責任という人格こそ、最も冷酷で残忍な言動に、人を走らせます。理解を示す芝居をしたり笑ったりする楽山の言には、邪悪な狙いがあり、見とおしていないのに、なにも負う気のないのに、懐に恐ろしく鈍く硬く冷たい反応系を隠し持っている怖さがあります。
 
そして、他人事のように、「どうにかならないものかなあ」、などと言ってきます。この遠回しの、脳天気で、深みのない表現が、楽山のボンヤリ言語の特徴です。やさしく言ったつもりなのです。
 
信仰は、不完全でも、人という存在を、悔いと反省と正直の道へ導きますが、反キリスト・反宗教の異常者には、それら良心の産物が見られないために、批判は、厳しさを増しています。
 
楽山は、神を恐れよ、という意味を理解していません。神を恐れぬ言動を続けていることが根拠であります。神は、地上から見れば、畏敬の対象ではなく、恐怖の対象であります。ゆえに仲保者たるキリストが必要なのです。
 
神は、神は、と言って、疑問というより、いちゃもんを発してくる楽山は、神を、対象物のように軽視して、背教の罪を積み重ねています。そこに描かれている楽山好みの神は、濡れた折り紙よりも弱く、楽山の吐く息と唾に蹂躙されるような脆い紙に過ぎません。
 
すなわち、神を、紙のように見なしている楽山の罪は、人を命ある塵として大切に思う神の怒りを買うでしょう。与えられた言葉の使い方を学ばないならば、命を与えた神の前に、生きる意味はなくなり、楽山の顔面は紙面となり、最も無残な内実を隠そうとして、剥がされてゆく者となっています。
 
楽山ほど、事ごとに曲解の罠を仕掛ける詭弁屋は珍しいと思うほどに、悪魔性の方向に、のめりこんでしまった人物が相手ですから、これからも、楽山の白々しさを暴くのに、遠慮など、できるはずはないのです。
 
もう年ですから、楽山の、言い逃れや、言い訳や、誘導の詭弁に振り回されて、私が、自分を見失うことのないように注意したいと思っています。勝ち負けではなく、できることをしています。
 
 

傷

きず
 
 
(2021年04月14日)
 
 
大昔の拙作)
 
 
 命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
(90年代か、再録)
 
 
 
 楽山の記事の追記ですが
 
*切実な祈り
谷口雅春の詩を記事にしたことを思い出したので、ここにも貼っておきたい。
背教の心起これば野に出でて霧に泣きぬれひれ伏して祈る
(谷口雅春『生命の實相 頭注版 第19卷』(自傳篇上)日本教文社、昭和50年、p.140)
 」
谷口雅春についてはさまざまな評価があるだろうけれども、少なくともこの詩からすると信仰について本気で悩み抜いた人なのだろうと思う。
 
(ネットより)
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年11月22日 - 1985年6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁[注釈 1]。
 
楽山は、なぜ「貼っておきたい」のでしょう。説明がありません。説明できないのだろうと思います。楽山の我欲に沿わないキリスト教を揶揄し、興味本位に仏教を語り、HSを批判しているようで、今度は、成長の家とは、楽山の、気の多いことです。
 
楽山は、悩み抜いた文章ではなく、大方、ホラー、アニメ、空想、お伽噺のような受け取り方しかできない人です。宗教の見方がそんなものだから、人生についても、人間についても、深い話が、まるで出来ないわけです。
 
どれもこれもと、空疎な興味で書いてきます。どれもこれも、本気では信じていないので、結局、どの宗教にも、本当の理解や共感には達しないまま、真剣に分かろうとしないまま、軽薄な駄弁の材料にしてしまいます。
 
こういう人なら、逆にカルトを批判する立場にいても、真面目さを装う筆致だけで、実際は、他人事のように、真剣味がないという姿勢も見えてきます。理解などしていないまま語って、宗教家のふりをして自己顕示欲を満たしている楽山です。
 
人生において大事なテーマと、趣味的なテーマの、重みの区別が、まるで出来ない楽山です。総てが趣味と同じように経過する筆致には、真剣味の欠片もなく、それゆえに、生きている人間が、どこにも見えてこないのです。
 
対照的に、具体的な言動から、かえって、真剣味のない体質と限界が見えてくる例でしょう。霊が分かるっぽい自覚というのが、宗教について楽山が分かると言うことが、いかに、いい加減か、いかに、インチキか、ということが見えてくるのです。
 
 
約2年も批判されてきて、なお書こうとするのは、楽山は、試練に耐える正義のヒーロー気取りでしょうか。違います。ヒーローは正々堂々としています。楽山は、卑怯な詭弁と言い逃ればかり書いてきました。楽山はヒーローとは正反対です。独りで勝利を思い込んでいる病気なのです。
 
 
(2021年04月14日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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