楽山の舐めるもの
 
 
楽山は、他者の口を借りるしか能がないので、またしても、人に舐めてもらうように、他者のツイートを載せています。最も見苦しい手口で、宗教をおとしめて、自分の言い分を肯定したいのでしょう。恥も外聞もない。こうは、なりたくありません。
 
楽山は、人を無視して見なくなったために、自らがいかに醜いことをしているか、気づかないでいられます。こうやって、言論者を、舐め続けているのです。殆ど、思慮のない原生動物です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·6時間
そうです。ついでに言うと、ただインチキであるだけならとやかく言わないけど、インチキであることが明白で、そのインチキが害悪を生んでいる場合は「インチキ!」という批判はします。カルト批判も、教義への批判・否定を一切しないというわけではないのです。
引用ツイート
 」
ジャポニスタン
@japonistan
 · 6時間
幸福の科学の非科学的なインチキ霊言についても人様に迷惑をかけない以上は勝手だけど、周庭さんの霊言みたいに本人の命を脅かしうるものというのは明らかに問題なので、我々は抗議に行ったわけですね。 twitter.com/suspendednyora…
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害による詭弁と嘘の丁寧語によって、付き合い続ければ、人格を破壊するほどに、大きな害毒を与えるインチキです。約2年の批判を無視したままです。楽山は、人を人とも思っていないようです。
 
楽山は、机上の幼稚な神否定を繰り返して、成り立たないクレームによって、キリスト教を否定し、人を惑わせ、楽山自身と同じような人格破壊をもたらします。極めて害毒性の高い、祭りの出店や見世物小屋のインチキより、さらに迷惑で悪質なインチキです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·8時間
宗教に科学的合理性はないと思います。ただし「カルト批判」の場合、教義や思想が正しいかどうかや科学的・合理的かどうかではなく、人権侵害的な行為が存在する(具体的個人に具体的被害がある)ことを批判するという基本があります。
引用ツイート
 」
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 9時間
あくまで個人的な意見だけど。やっぱり、カルトに限らず宗教全般に違和感を強く感じる。
例えばキリスト教にしたって、処女が子供を産めるわけ無いじゃん。
イスラム教だって、豚は不浄だから食べちゃいけないとか、科学的合理性は無いよね。
 」
 
楽山は、詭弁と嘘によって、低次元の批判をし、自身に返ってきた批判をことごとく無視して、平気で訂正不能に繰り返すことによって、人権を侵し、おとしめ、破壊してゆく悪魔性です。
 
「処女が子供を産めるわけ無いじゃん」・・これが事実と信じたから救われるというキリスト信仰ではないということです。ゆえに、もっと大切なことは、別にあるのですが、楽山のような人は、そこを全く理解しないでキリスト教を否定している反キリストの偽善者です。
 
 
 
※ 信仰の中心
 
何度も書いてきたことですが、例えば、処女懐妊、数々の奇跡、肉体の復活などは、二千年前、起こったにせよ、起こらなかったにせよ、キリスト信仰の中心ではありません。
 
何故なら、起こるにせよ、起こらないにせよ、その奇跡は、私たちには、分からないからです。さらに、起こったと信じることで、救いにつながるとも思えないからです。
 
そういう奇跡は、神に任されることです。人が神の意志と行為を決めつけてはいけません。分からないことは、正直に、分からないと言うのは、信仰の条件であります。
 
物や肉体の奇跡について、起こると確信することは、この地上での視点が、超常に向いてしまい、日常を疎かにする危険があります。さらには、誰も知らないが起こるんだよ、と信じることが、誤った信仰者の優越意識にもつながりかねないのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者に比べて、優位に立つのではありません。同じ罪人であることは、信仰があってもなくても、変わりはないのです。ゆえに、福音伝道は続くのであって、そこに、他者は劣る者という視線を持つことは、神に背く傲慢だと思います。
 
信仰の中心は、私たちにも理解可能な、キリストの、人間に対する洞察と共感であります。ゆえに、二千年前に、偽善を最悪として批判したのです。そこを外してはいけないと思います。
 
私たちは、聖書から、人間としての心に響いて、受け取れることを、受け取るべきであり、それ以外は、保留の箱に入れておくべきであります。
 
さらに、キリスト信仰は成長するものですから、訂正不能に思い込んだり信じ込んだりすることは、厳に、戒めるべきであります。信仰は、繰り返し念じて、こびりつかせて、肯定の癖をつけるような安物ではないのです。
 
信仰の中心は、経験によって深めてゆく人間としての共感です。原初の信仰は大切ですが、訂正不能にしてしまったら、言葉だけの教条に堕してゆくでしょう。
 
一挙に、神の真理を、さらに、信仰の奥義さえも、人が得ることはないということです。自閉的な人も、社交的な人も、人間関係の中で、それなりに学習し成長することが大切なのです。
 
ゆえに、私事ですが、自閉的で疑い深い私も、キリスト者になったのであります。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間の持つ心の、"土の器" と書いてあるものに、信仰は与えられ、成長します。譬えだと思います。人が、神によって、土から造られたことによるのでしょうか。
 
ところが、この土の器を、何やら、超常の魔法の器のように信じ込んで、信仰は心のどこにもないと言っていた者があります。自分を特別な恵みを得たと特別視して自慢するためです。
 
その者シャロームは、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、などとも言っていました。悔い改めていないことを正当化するためです。しかし、彼の言を言い換えると、彼には、神は悔い改めを与えていない、導いてもないということです。
 
つまり、これは、人を見下すこと甚だしいところの、真っ赤な偽者の例です。キリスト教に疑問をいだくのは自由ですが、このような大馬鹿者にだけはならないでください。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 
 (ローマ2:4-5、新約聖書)
 
神の、慈愛、忍耐、寛容、と書いてあり、人間にも理解できることです。
 
このシャロームの言を、当たり前のように、肯定していたのが、楽山であります。このことで、楽山の語る宗教・思想の言は、信頼度ゼロであることが明らかになりました。
 
つまり、神の怒りを自分の身に積んでいる楽山とシャロームであります。
 
シャロームは、神の導きということを、まるで、魔法がかかって操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。笑止であります。
 
悔い改めは、神の前に、罪を正直に告白して赦しを乞うことです。つまり、祈るとき、世俗から、神へ、方向転換していることになります。神様のほうを向く・・という言い方があります。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
4:8-9
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 (2コリント4:7-10、新約聖書)
 
信仰による勇気を語っていることは明らかです。
 
土の器は、自慢するためではない。魔法でもないのです。
 
カルトや妄想家は、直感的な理解が、劣っているか、ない場合が多いです。
 
 
悪用

悪用
 
 
(2021年04月24日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング