救われる条件(2)2
 
 
キリスト者になると柔和な人間になると
あるいは社会的基準においても善人になると
思われているかもしれません。
 
信仰の結果として善を目指すでしょう。
 
しかし、実際は、
必ず善人になるかどうかは分かりません。
普通の人間と同じように
ときに頑なになることもあります。
 
さらに信仰があるという自覚ゆえに
特に教理や善と悪と罪の意識において
かえって人一倍、頑なになることがあります。
 
それはキリスト者ならでは
という信仰の働きではありません。
人間だから起こることです。
 
信仰を勘違いすることがあり、そのために
本当に付き合いにくい人になることもあるのです。
そうして、相手にされなくなることもあるのです。
 
それは人間として
決して望ましいことではありません。
そういうあり方としての過ちと罪があります。
 
では、信仰を持たなければよいのか
という疑問に対しては、
信仰は
人間が持ちましょうという意志だけで持つものではない
と言うしかありません。
 
キリストに絆(ほだ)されて
忘れられなくなった者は
その共感を忘れられないために
キリスト者・クリスチャンと呼ばれます。
 
そのように
キリスト者は常人と比べて
決して優秀を表すものではありません。
むしろ経緯において
多くの欠点を持っているからこそ
キリスト者になるのです。
 
では、そのようなキリスト者が
どうして救われるのでしょう。
 
それは、誰よりも神が、自らの民として、
決して優秀さや能力によって人間をを召命してはいないからです。
 
なのに、なぜ救われるのでしょう。
そこには、キリスト者になった人たちの
ただ一点を
神が見ておられるからなのです。
 
それは、その人が、
どんな意地っ張りでも
自己中心でも
思い込みが強くても、
そう思われていて、実際そうでも、
あるいは秘密が多くても、
ただ神という絶対者の前においてだけは
頽(くずおれ)れる心を知っているからなのです。
 
ゆえに、神が救われるのは
神の基準によります。
決して善行によるものではありません。
 
つまり、神の前において、すなわち祈りにおいては、
頽れ、憐れみを乞うしかない、砕けた魂を持つ人間であること、
その弁えだけが、救われるためには必要十分な条件なのです。
 
そのことが聖書には書かれています。
 
砕けた魂を持つ人間は
もはや神の前に
正直にそれを告白することしかできません。
他に捧げるものなどないからです。
 
正しさや善行の主張など何も言えないと知っている者が
神に救いを求めます。
 
まさに総ての人間がそうなのだと
主イエス・キリストは
聖書を通して宣べ伝え続けているのです。
 
神の前に正直以外は通用しない
と言ったのはそのことです。
 
 
神の前でだけは

神の前でだけは
 
 
※※
 
祈りにおいて
いつも偽りの讃美言葉を並べるような偽善者については
自ら救いを拒んでいるわけで、
神は、それを余さず見抜かれるのです。
そして、神の国から永久追放されるのでしょう。
そして、そのことは、
この地上において人格破壊の醜さとして表れるでしょう。
 
 
(2019年03月30日アップ、同日一部修正)
(2020年04月05日、加筆修正して再録)
(2021年04月25日、再録+)
 
 
  病質者対策
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、2年批判している楽山と、10年批判してきたシャローム shalom のような自己愛性人格障害者のことです。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、つまり、他者に勝ろうとする悪意だけを持っていて、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生治らないのでしょう。そして、一生治らないということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して為すべきことだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。自分に都合のよいように皮相な細工を文章に施して、まともに見せかけます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。まともで真面目に見せかけているだけです。ただ、楽山の気分がよくなるように、どこまでも、言い逃れの類だけを書いてきます。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、疲労の罠に嵌ります。
 
楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や意味の違う方向への言い換えでごまかしてくるところを、指摘し警戒し資料とするためだけに拾ってゆくことに専念するべきであります。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わないという卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察も能力もない人であります。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、信頼しないでほしいと思っています。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸で中立の人物を装う、これが、楽山の書き方・筆致です。ちょっと注意して読めば、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感するだろう、という、真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だと分かってくる楽山です。
 
 
楽山のキーワードは、
 
楽山・無反省・無理解・無責任・無神経
自己愛性人格障害
嘘吐き・詭弁・偽善者
病的ナルシスト・良心の欠如・自己中心
反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
(2021年04月25日)
 
 
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