楽山の万象不明
 
 「第十九講 ヨブの見神(三)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月04日 楽山日記(LD)
 を批判。
 
矢継ぎ早に更新記事を書いてくる楽山です。これで、前進しているつもりでしょうか。実際は、どんどん自閉に後退して凝固して、新しい知識を受け入れない訂正不能の自己愛からの意地だけで、固陋を極めている状態だと思います。
 
内村鑑三は、大仰な書き方をするようですし、文語調の厳めしさを持つ口語体ですから、楽山の誤解~曲解も、文章の勢いの分、甚だしくなってゆくでしょう。楽山は、それが気持ちよいのかもしれませんが、基本的な中心的な理解が、楽山には皆無なので、中身は空疎です。
 
(ネットより)
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の固陋な人々」「頑迷固陋」
 
「第十九講 ヨブの見神(三)」を読了。感想をメモしてみる。
ヨブ記三十八章十六~三十八節について。
「自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調した」。
三十一、二節の北斗、参宿、昴宿など、「ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ」。
参宿はオリオン星座、昴宿はプレイアデス、スバル星、六連星ともいう。
「ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た」。「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである」。
 
楽山にとって、いつものように、都合のよいところなのでしょうか。写しているだけでは何にもならないでしょう。読者に何を伝えているつもりなのでしょう。独り言をつぶやいて、それを見せない地蔵様でしょうか。山奥の細い道で石を転がして遊んでいるのでしょうか。信仰は、誰に対しても、説得力が必要なのですが。
 
自然を見て、神を知るだけなら、飾りの荘厳気分に過ぎません。信仰は、人間関係の中に生かされなければ意味がありません。念のために、楽山は都合のよい文言だけを載せてくるので、内村鑑三を読んだことにはなりません。楽山の読書の信頼度は、既にゼロになっています。
 
「神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある」。「神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない」。「万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である」。
本講演では気になるところが二つあった。まず一つは「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである」というところである。
 
上に書いたように、万象の中に神を見いだせないなら、低劣というのは言い過ぎです。自然に感動するのは、信仰の副産物でしょう。
 
しかし、「低劣を自白する」というところが意味は深いと思います。自然を作った神の偉大さに比べて、人間の低劣さ、即ち、低さや小ささを実感し、告白することは、実際、あるわけですし、必要なことです。感じないことが自らの低劣さを表すというのは、楽山に当てはまるでしょう。
 
以前、とある宗教を信じていたとき、自分もこれと同じ考え方をしていたのだった。「この宗教は本物だ。これを知ってもなお、感動できず、本物だと気づけない人がいたとしたら、霊性が低いか、仏性が曇らされて真理が分からなくなっているのだろう」と…。自分とは異なる感性、価値観を持つ相手を低く見るというのは、よくある悪癖だろうが、これは特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向はあるように思う。
 
楽山は、内村鑑三の信仰観を、個人の霊的能力の問題におとしめています。ひどい曲解です。このように、楽山は、直感的な感性と感動のない不感不応の人だから、手っ取り早く、霊能が欲しくて欲しくて、たまらないのでしょう。
 
そして、楽山のいちゃもんが、また始まりました。「特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向」というのは、恐ろしい捻じ曲げ方です。
 
強く信じることというのは、これだけでは語弊のあることですが、楽山は、その語弊に乗って、思い込みの強いことが強く信じることだという前提で、またしても、ねじ曲げて、宗教をおとしめているのです。
 
宗教は、確かに、現在進行形で楽山が今やっているように、ねじ曲げると理解不能になるということです。自覚のない楽山は悪意に満ちたホラーであります。またしても、おとしめが、そう言った捻じ曲げ犯の楽山に返ってくるというブーメランとなっています。楽山は気づかない人です。
 
もう一つ気になったのは「万象の中に神を見る」という考え方である。これは自分にも理解できなくもないが、人は進化の過程で物事に意味を見出す習性を身につけたのであり、無意味さに耐えられない生物であるという話もある。
 
内村鑑三は、万象に神を感じることを言っています。にもかかわらず、妄想的読み違いによって、楽山は、意味を見出すのだそうです。自然の雄大さに、自分の信仰の意味を見出すでしょうか。見い出せるのは、神への畏怖であり、その影響からの信仰の尊さであり、自己愛によって捻じ曲げた意味付けをする楽山の語る "意味" ではありません。
 
それならば、たとえ万物の中に神を見、感じたととしても、それは事実に基づくものなのか、それとも人の習性に流されて万象に自己流の意味付けをしているにすぎないのかを慎重に吟味すべきであるし、
 
したがって、この楽山の言は、突拍子もない勘違いであります。何を、万象の中に、慎重に吟味できるでしょう。直感するしかない大自然~森羅万象であります。
 
思いつきの、格好だけの、嘘八百もいい加減にしなさい。今、楽山が、「万象に自己流の意味付けをしている」ということです。こうやって、全くの無理解から、いかにも、勉強しているかのような見せかけの文言を吐いてくる楽山です。時々書くのですが、また書きます。・・バカか・・
 
この思惟を経てからでなければ、真に「万象の中に神を見)たとは言えぬだろう。けれども本講演ではそこまでは踏み込んで語られてはいない。ここは残念である。次回の講演でこの点についても語られているかどうかは分からないが、期待して読みすすめたいと思う。
 
楽山は、内村鑑三の言葉を、感性を通さず、文字通りに受け取って、理屈をこねています。万象を見れば、何でも、つぶさに理解できるのが、宗教だと思っているようです。何が残念でしょう。楽山こそが、ずっと残念な人なのです。
 
しかも、気づかないのです。楽山は、庭か公園の石を見て、一生、そこで、意味を考えておればよいでしょう。宗教にも信仰にも縁はないと思います。内村の「低劣を自白」とは正反対の、楽山の、自覚されず自白されない "低劣" が、鼻を突きます。
 
 
暗い低劣

暗い低劣
 
 
{2021年05月05日}
 
 
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