楽山の読書くずれ
 
 「第二十一講 ヨブの終末」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月07日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判記事を書かれると、新しい記事を上に重ねて、自分の批判対象記事の場所を下げるのです。それで、目立たなくしたからと安心するのでしょうか。いかに、言論者としての自覚がないかということです。学習し努力してゆくという向上心がゼロなのです。
 
このところ、狂ったように記事を書き続ける楽山ですが、楽山自身の意見が異常に少なくなっています。前にもあったことですが、書けないものだから、他人の都合のいい言葉を漁り、例によって、誤解~曲解して、自己正当化しているつもりなのでしょう。この姿勢も、真実を追求する者として、アウトなのです。
 
「読んだので」「感想をメモ」・・感想文という文章になっていません。それで、メモと言っていますが、メモにさえ、反キリストらしい悪意も、宗教と自己中と自己愛性人格障害も、表れてくるのです。
 
何より、批判されたくないのか、殆ど引用だけです。自分の文章が書けない楽山は、書かないことよりも、書いたかのように見せかけることを選んでいます。そこが、また、病質を表す結果となっています。
 
読書感想文として成り立っていない記事が続いています。
 
「第二十一講 ヨブの終末」を読んだので、その要点と感想をメモ。
「第四十二章七節以下の研究」。
文学は「悲痛を以て終るは不健全の印である。喜びを以て終って、真に人生に徹せる健全なる文学というべきである」。
 
楽山が「読んだので」というのを信用しないでください。自己愛性の人格障害によって、正しい読み方など出来ない人です。楽山にとって、美味しい言葉を、都合のよい文言だけをを、漁って引用することだけが、楽山の読書です。そういう無理解も曲解も、先入観と偏見と曲解という形で表れてくるのです。
 
付き合えば付き合うほど、人に、疲労と "悲痛" しか与えない楽山の文章は、書かないほうがマシなのです。楽山は、詭弁と嘘、そして、自己中方向しか持っていません。改める気がないならば、楽山は、公開しないで部屋で読んで、独り笑いしているほうが、公共にとっては、まだマシなのです。
 
七、八節によって、「エホバの審判三友人の上に下って、その愚は明示せられたのである。彼らは論理において精確なりしも、その根本思想において全然愚妄であったのである。これに反してヨブは所論支離滅裂なりしもその精神において正しく、その心は三友よりもかえって神と真理とに近かったのである」。
 
ここで、楽山が受け取る論理というのは、固くて訂正不能で柔和さに欠け、心が無いために共感性を欠いた楽山の教条からの理屈ですから、正しいということとは違います。教条は心の面倒を見ない、言い換えれば、人間の不完全な辻褄を満たしたように見えても、人間の心を満たせない空想なのです。
 
ヨブは「三友のすべての悪罵と無情とを赦して、彼らのために祈るに至った」。「愛は謙遜に伴う、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現わし得たのである」。「わが心神の前に深く謙へりくだるに至って無情なる友をも、またいかなる敵をも愛し得るのである」。
 
ここに書いてあることと、正反対なのが、楽山です。無反省、無責任、無神経ということは、敵のみならず、味方になる人をも、軽視~無視し、疲れさせ、傷つけては、それに自己満悦する楽山の生業であります。へりくだる、ということが、欠損しているので、見かけの丁寧語をばらまいている楽山です。
 
ヨブ記のはじめと終わりだけを読み、悔い改めれば物的幸福を得るとし、物的恩恵に恵まれていないのは悔い改めをしていないからだとするのは早計である。また「災禍の下るはその人の信仰足らざるためであると見做す。かくなっては三友人と全く等しき愚妄に陥ったのである」。
 
楽山が宗教そして信仰について、悔い改めをしたら物質的恩恵が来るぅ・・というような原始的なご利益宗教を批判しているのですが、誰の信仰なのでしょう。楽山こそは、目の前の、書いた・・という満悦という快感だけを得ようと、空しい思い込みと曲解を並べているのです。
 
いくら時間をかけても、早計でしかないのは、楽山のほうです。言われそうなことを、逆に、言って、言い訳とするのは、シャロームも同様でした。
 
「ヨブ記のはじめと終わりだけを読み」・・楽山は、キリスト教をけなすためだけに書いていますから、本だけ読んで、聖書のヨブ記を、始めも、終わりも、直接は読んでいないのではないかと思います。だから、言い訳みたいなことで満たさないといけなくなるほど愚かな妄想に陥るのです。
 
それと、悔い改めなければ、生き方も、理解も、感動も、共感も、生まれません。楽山は、自分が悔い改めないことを、妄想的に、詭弁によって、正当化しようとして、また、墓穴を掘っています。楽山の掃き出すゴミが、楽山に帰してゆくブーメランは、今に始まったことではないのです。
 
「ヨブは後の繁栄にありても、必ず過去の災禍苦難を想起したことであろう。去りし妻のこと、失いし子のこと、雇人のこと、その他身の病苦と人の無情、いずれも彼の心に深く食いこんだものであって、到底忘るるを得ない事である。故に彼は新しき幸福に浴せしために、旧き禍いを忘れて満足歓喜に入ったのではない」。
 
高慢だったことを自覚せず、悔い改めないでいるあいだ、家族のこと、信仰のこと、人生のことは、旧き禍いではなく、忘れられない記憶となっていたでしょう。ゆえに、神の与えた試練だと気づいたときの喜びは大きかったわけです。
 
ここに至って、楽山は、ヨブの不幸が、幸福に変わったことを、単純に喜び賛同し、引用しています。楽山は、神が試練を与え、ヨブが悔い改めて、神によって立ち直った、というところを、書いていません。
 
神との関わりという聖書が伝えようとするいちばん大事なところを、楽山の得意なことですが、スルーしているのです。反キリストの楽山にとって、神が救ったことを認め賛同することは、論外なのでしょう。
 
楽山の論は、楽山の頭の中にしかなく、結論から始まる詭弁であり、正当には誰にも通用しないことが表れています。書けば、何でも、自己中の方向に、ねじ曲げるしかないのです。
 
こういうところに、詭弁屋で、悪魔性で、策を弄する楽山が表れます。ゆえに、聖書も、本も、楽山が読後感想として書いたことは、幼稚な自慢であり、一切、当てにしてはいけないということになるのです。
 
当初ヨブは「己に信仰がありて神に事えて正しき故、この幸福を以て恵まれていると」考えていた。「すなわち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた。これ権利または報賞として、幸福を見たのである」。しかしその後のヨブは「何ら値なき自分に、全く恩恵として幸福の与えられし事を認むるに至ったのである」。
 
自分は正しい、だから神についても言える、という、楽山は、その報酬として、自他の人格破壊を自ら選んでいるのです。人を巻き込まないでほしいです。
 
「値なき自分」「全く恩恵として幸福の与えられ」・・このことを、楽山は理解していないので、どこまでも、反キリストとして語り、ゆえに、その語る言葉が多ければ多いほど、破壊も進んでゆきます。最近、まさに、その通りになっています。
 
何の恩恵も与えられないのは、自らの罪と偽善が、自らを壊してきたからだと、気づく良心を、全く持たない楽山です。
 
キリスト教を理解しないで、キリスト教を批評していること、しかも、それを、公開して、評論家のように高みから神を見下ろすこと、いずれも、楽山の人間離れの神がかりのゆえであり、執念であり、我執であり、実に、生涯にわたって、救いを拒んできた者の因業として表れているのです。
 
ヨブの「前の状態は不信者のそれであって後は信者のそれである。不信者は物の所有を以て正当の権利と考う。故にそれにおいて薄き時は不平が堪たえない。しかし信者は僅少の所有物を以て満足する。これ一切自己の功によらず、全く神の恩恵によると思うからである」。
 
持ち物、欲望、地位、賞賛、そういった基準から、キリストの同伴、神との関わり、という信仰を得て、価値観が変わるわけですが、ヨブも、そして、私たち信仰者も、試みに会わなければ、なかなか気づかないことが多いようです。
 
楽山は、神の恩恵どころか、ただただ、自分で自分を肯定するしかない人生なので、反省することなく、学習することなく、一途に、自己正当化を図り続けて、ゼロに、マイナスに、なってゆくのです。
 
これは、非信仰者の人生だからということで済ませることは出来ません。平均80年の寿命を、何も良きものを受け取らずに過ごすのです。こうはなりたくないという不幸です。楽山は、神に文句を言ってきましたが、すべて、楽山の自覚しない自己責任なのです。
 
この講演はヨブ記の要点を簡潔にまとめてあり、かつよく納得できることばかりである。宗教的な話には独断的にすぎたり、飛躍がありすぎると感じることも少なくないのだが、本講演にはそのようなところがなくてすんなり心に響いてくる。要点をしっかり掴んでいるからこそ、このような話ができるのだろう。
 
「よく納得できることばかり」・・楽山は、キリスト信仰のベースがないのに、謙虚さがなく、分かるんだ根性そのままに、賛同しています。楽山においては、謙虚芝居が、高慢を表すことになります。
 
楽山が、こういうことを言うとき、大方、嘘です。いちばん大事な心の問題を理解できないという、約2年間の履歴があります。実際には恐らく生涯にわたる自己愛の慢心なのでしょう。自分を見ないものの宿命のようです。
 
楽山というHNは、中国の地名かもしれないが、実際は、落ちるための山、堕落する惨めさ、などと当てたほうがいいような不似合いなHNです。自主的に、あるいは、誘われて、楽山に加担する人も、楽山の味方になる人も、一人もいなくなることを、切に祈り願っています。
 
 
※ 
 
私は、神にだけは正直に祈ることを強調してきました。それは、人には嘘吐いてもいいという意味ではありません。また、誰に対しても絶対に嘘を吐くなという戒律を語るつもりもありません。
 
人間は、必ず、いつか、どこかで、嘘を吐きます。人間は不完全だからです。それが罪の性質だからです。完全に正直に・・というのは、人間には無理なのです。
 
ゆえに、神の前に "正しく" あろうとすれば、次第に、言い訳めいてきて、偽善に走りやすくなります。ゆえに、祈りにおいては、精いっぱいの正直のほうが、人間の信仰に適い、救いと癒しになると思っています。
 
人間にとっては、正義よりも、正直であることが信仰だと思うのは、神の前では、人間は、正直以上に正しくなどなれないからです。神に対して、人は、正直であろうと努めることで、精いっぱいなのです。
 
そして、神の前に、砕かれた魂をもって、へりくだり、正直に祈る人は、人の前でも、少なくとも、だますような悪意をもって、白々しい嘘を吐くことは出来なくなるだろう、という希望でもあります。
 
信仰は、良心を育てるためにあります。言い換えれば、良心のない楽山やシャロームのような偽善者にならないためにあるのです。
 
 
リアルでもネットでも、そういう悪意の企みの虚言で、だまし、刷り込もうとする者がいます。そういう者が、いちばん救いからは遠いのですが、そういう者こそ、救いとか、宗教とかを、説教したがるのです。彼らは、都合の悪いことを、隠して無視したり、人のせいにしたりします。
 
何故かというと、宗教とか信仰だと、厳格な資格試験もないし、ごまかし方が、いっぱいあるだろうと見込んで、舐めているわけです。その手の偽善者を批判しています。これは、私に批判が出来るあいだ、やめてはいけないことであります。
 
残念ながら、老化によって体調は劣化してゆくので、ずっと続ける・・というわけにはいきません。さらに、信仰を語る時には、必ず、自分自身の罪性を考えないわけにはいきません。
 
人を斬る刃は、自分をも斬ることになります。それは承知しているつもりなので、私の欠点をマシュマロで包んで隠すことはするまいと思っています。よって、知力衰え、めっきり忘れっぽくなってきましたので、鬼のように批判したり、弱音を吐いたりもします。折に触れて祈っています。失礼。
 
 
崩れ

くずれ
 
 
(2021年05月10日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
この思考回路はなぞだ?
彼らの中では、こういうことは全部無かったことになってて、アンチの捏造にすぎないと思いこんでる?
引用ツイート
@kusaweod
意味分からん。事実じゃん。
こいつらにとっては都合の悪い事実は全部通報対象なのか?
 」
午前6:51 · 2021年5月9日·Twitter Web App
 
不正を批判しているようですが、楽山については、過去の失言も、無理解も、いちゃもんも、「全部無かったことになって」いるようです。楽山の思考回路は、謎というより、正気ではないのです。
 
信仰は一生を左右するものですが、自己愛性人格障害の楽山には、他のアンチの人々と比べて、真剣味や切実さが感じられません。
 
楽山は、まだ、誰かを批判できると思っているのでしょうか、まだ自身に正論が成り立つと思っているのでしょうか。・・モンスターならではの恣意的自己中思考回路です。良心がないから自省だけはしない楽山です。
 
(2021年05月10日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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