楽山の滅裂理路
 
 道から外れることはできるのだろうか?
 (『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月09日 楽山日記(LD)
 
 
いつものように詭弁だらけで、さらに、理路が混乱し、収拾がつかなくなっている楽山です。元々、ベースとなる宗教の理解も共感もなく、思いつきだけで自己満悦を求める姿勢には、真実の道など、通ることはないのです。
 
楽山は、理屈を言っていてもまとまりません。すっきり理路が整うことがありません。平気で、嘘を吐き、詭弁を弄して、人を惑わしてきた報いなのでしょう。
 
*道とは?
『神皇正統記』を読んでいたら、気になる文章があったのでメモしておきたい。
古の聖人は「道からはかりそめにも離れてはいけない。ちょっとでも離れることができるようなものは道とはいえない」と言っている。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.111)
 」
前々から、「『道を踏み外してはいけない』とか、『真理に反した行いをしてはいけない』というけれど、そもそもすべてを統べる真理、法というものがあるとして、そこから外れることなんて可能だろうか? 
 
「道を踏み外して」「真理に反した」・・楽山が、継続的にやっていることです。
 
そして、早速、「真理、法というものがあるとして、そこから外れることなんて可能だろうか?」と、真理に反することを話題にしています。楽山は、ずっと、外れっぱなしです。
 
楽山のような単純断定や幼稚な詭弁では、言うまでもなく、信仰は理解不可能ですが、そうでなくても、信仰は、道とか真理とかいう言葉の概念だけで把握できるようなものではありません。
 
それまでの体験があり、聖書を読んで、キリストの共感を感受し、キリストに共感することから、信仰は始まります。今まで知らなかった温もりを救いとして生きるのが信仰の世界です。
 
 
私たちが、聖書と、経験から、何を考えられるかと言えば
 
全能の神を知るということは、
神の完全に対する人の不完全を知ること以上ではありません。
そこに人の罪に気づく必然があります。
 
また救いを知るということは、
主イエスの共感を知ること以上ではありません。
そこに神の愛を知る必然があります。
 
不完全な人間は、
神を恐れ、罪人の自覚を持ち、
キリストの同伴を得て
共感という恵みのうちに耐え忍んで
この地上を生きるのです。
主イエスの共感は神の愛であります。
 
 
外れることができた時点でそれはすべてを統べる真理でも、法でもないことになるのではないか」という疑問を持っていたので、
 
いいえ、楽山独りが、外れてゆくのであり、外れているのです。真理とか法とか、楽山らしい見栄で硬い熟語を使っていますが、要は、人間らしい良心を持っているかどうかということです。
 
楽山は、またしても、屁理屈で、真理は相対的だから外れてもいいと言いたいのでしょうか。外れていいなんてことはないが、人間は、しばしば、外れてしまいます。
 
それが、楽山には無いところの、現実認識です。そこで、為すべきことは、自分を振り返り、立ち直れるかどうかであり、楽山のように外れたことを正当化することではありません。
 
良心があれば分かることです。前から言っていますが、楽山には、自己愛性人格障害のために、良心がなく、修正能力がないので、外れることを、自己正当化の切っ掛けにさえしてしまいます。結局、こんな初歩的なことも楽山は分からないほど未熟な人格なのです。
 
「ちょっとでも離れることができるようなものは道とはいえない」という一文は我が意を得たりという心持ちがする。
 
人間が歩むべき "道" でも、人間は不完全で罪深いのですから、道を離れることはあるわけです。したがって、そこから、どう立ち直るかが問題なのです。
 
楽山の「我が意を得たり」は、「道とはいえない」が都合がいい、というだけの意味です。高等感情と理性が鈍麻している楽山は、信仰の道を否定し、勝手に道ではないものに真理や宗教を当てて、また、自己を誇大化して見せたいのでしょう。
 
良心がないと、人間とは思えないほど精神が、病的に変質して、詭弁に走ってゆくという例となります。楽山の言葉、特に褒め言葉には、誠意がなく、代わりに、詭弁が隠れているのです。
 
もっともこれはこの一文だけに注目した自分の解釈であって、この文章全体の意味は、君に忠、親には考を尽くすのが人の道であって、これに反してはならぬ、もしそうするなら相応の報いがあり、無事には過ごせぬだろう、人は道から離れては生きては行けぬものなのだということなのだろうけど…。
 
「一文だけに注目した自分の解釈」・・だったら、書くな、ということです。あとは、言い訳が見苦しいだけです。楽山は、この「自分の解釈」というところで、恐ろしい訂正不能と自己中を、漏らすように、表してくるのです。どこまでも、詭弁に走る楽山の悪意の因業です。性懲りもないところです。
 
◇◆ 追記 2021.5.9 ◆◇
*詩編
この記事を書いたあと、ツイッターを見たら、詩編139が話題になっていた。
どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
(詩編139:7-8)
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
(詩編139:16)
なんとなしに、お釈迦様から離れることのできない孫悟空を連想してしまうが、人は全能者の定めた範囲から一歩も外にでることができないというのはその通りではあろうと思う。
 
楽山は、あからさまに、嘘を吐いています。ここでは、楽山は神の常在を支持する理路など持たないのに、離れられないようなことを書き、上のほうは、離れるような道なら、それは道ではない、という正当化に結びつけようとしています。
 
全能者の定めた範囲というのが、楽山に分かるのでしょうか、否です。この詭弁によって、宗教は、人を縛るんですよ・・という先入観を吹き込みたいのです。汚い。宗教は、人を縛るのではなく、それこそ楽山のような者から守るためにあります。これを魂の解放といいます。
 
身勝手で滅裂な楽山に縛られるのは人格破壊の滅びであります。嘘を吐き、収拾を付けられず、ただでさえ詭弁だらけの楽山の理路が、混乱~パニック状態にあるようです。人を、惑わせ、混乱させ、疲労させるだけの楽山ブログは、早く消えてほしいです。
 
元々詭弁だけで、怠慢と病質のために理路を立てられない楽山は、このままでは、支離滅裂になってゆくでしょう。楽山の自業自得による支離滅裂が、宗教や真実を装うのは、非常に迷惑であり、害悪であります。楽山は、次第に、犯罪に近づいているように思われます。誰も近づかないでください。
 
良心がないと、自尊過大の自己中のために、間違いを正当化しようとして、このような醜い有り様になるということです。しかも、楽山は、反省という言葉を書いても口だけで、その前後で何も変わることがなく、つまり、反省など一度もしたことはないという恐怖なのです。
 
楽山の理路は、多く、"全か無" という進め方をします。また、一部と全体の区別もつかない、ということが、今まで、明らかになっています。常識的な論理の進め方すら学んでいないのは、言論者として失格なのです。多くは、作為の詭弁ですが、常習化して、抜け出すことが出来なくなるのでしょう。
 
まっとうな言論ではなく、詭弁と専門用語で、小学生レベルの幼稚な理屈を、自己満悦するために曲げて、まともに見せかける芝居をしてきたのが楽山です。
 
一人前の人格からは、どこまでも遠い楽山の、当然のごとく予想された経過なのです。何度も、続ければ、自他の人格破壊に至ることを、ずっと警告してきたのです。
 
上の聖句は、いずれも、いかなる時も、神は人とともにおられる、神は人を知っておられる、いつも神は人を見ておられる、神は人を見捨てない、神は人を導く、ということを言っているのです。
 
それを、全く理解せず、勝手なことばかり言って、神をけなし、真理がどうの、道がどうのと、難しいことが分かっているかのように見せかける芝居は、ただただ、不様で、見苦しいだけです。
 
楽山は、恥ずかしいほど、おかしなことを言って、それを指摘されると、不感不応によって黙り込み、答えません。そして、しばらくすると、また、何事もなかったかのように、求められてもいないのに、ベラベラとしゃべりまくります。
 
恐らく、楽山には、生きている実感がないのでしょう。何から何まで、芝居をして押し出していなければ、自身の精神世界が成り立たないのではないかと思います。
 
どう批判しても無駄で、無視するだけの楽山に対しては、誰も楽山の被害者とならないように、偽善者についての資料として記録してゆくしかありません。それをもって、近づかないようにという警告と情報を敷衍(ふえん)するしかないのです。そのために、楽山の、書かずにおれない自己顕示欲を利用します。
 
 
滅裂な孤独

滅裂な孤独
 
 
(2021年05月11日)
(2021年05月12日、一部修正)
 
 
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